001 真夜中の女子会 1/7:血の涙
「幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう」
――ルカによる福音書 1章76節
「一人の命を救う者は、全世界を救う」
――タルムード ミシュナ サンヘドリン篇 4章5節
哀切な子守唄を、女の人が歌っている。
この世のどんな人よりも優しい声だと、あなたは知っている。
眠るあなたは頭を撫でられて、とん、とん、と心地良く胸を叩かれている。
見守られている安心感。無償の庇護に浴する幸福。夢見のない安らぎが、あなたを包んでいた。
温かい膝枕。寝返りを打ち、胸いっぱいに息を吸う。
薄目を開ける。ぼやけた視界が次第に焦点を結んでいくと、あなたはその女の人の微笑みを見上げていた。
優しい眼差しで微笑みかけてくれる女の人は、あなたより遥かに大人に見えた。
「良い子ね」
その人が慈しみをこめて“あなた”を呼ぶ。あなたはたまらないほど幸せで胸がいっぱいになる。
頭を撫でる手つきをそのままに、微睡むあなたは頬も撫でられて、何だか照れてしまう。
くるくる転がる指先がくすぐったく、首に添えられ、じゃれつくように絞められて、指が息の根に食いこんだ。
喉が潰れる。
あなたは女の手首を掴んで、やめてと懇願する。しかし声にならず、奇妙に喘ぐしかできない。
「大人しくなさい」
あなたの咽頭へ、更に深く指が食いこんだ。
大人の女性の微笑みは、いつしか憎悪に燃え滾っていた。
あなたは抵抗する。あなたの首を絞める手を、引きはがそうとする。けれども、やがて腕から力が抜けて、だらりと垂れた。
「……生むんじゃなかった」
霞みゆく視界が闇に落ち、悔恨の滲むその声を、はっきりと耳にした。
†
「はああっ! はぁ、はぁ! はぁ、はぁー。はぁ……」
暗い部屋でエリーは息せき切って飛び起きた。
息が苦しい。目覚める直前まで息が止まっていたようだ。脂汗が部屋の寒さに曝されて凍えそうだった。
汗だくの顔を手で拭い、蹴飛ばした毛布を掻き寄せて肩を包む。
ベッドの上から暗さに慣れた目で見渡すと、部屋の造りは整っていた。クローゼットやドレッサーが整然と並んでいる。
コシノフ邸の客間だ。
当初の予定だと、エリーは修律院で寝泊まりする手筈だった。
というのも、エリーは体内に吸血鬼――アルフレッドという怪物を飼うという、前代未聞の状態に罹っているためだ。
特に眠りに落ちている間は、アルフレッドがエリーの身体を使って何をしでかすか、わかったものではない。
アルフレッドという爆弾を抱えたままのエリーは、護律協会の監視が行き渡った修律院で過ごすのが望ましい。
しかし、昨夜はスプリグリ族の祝宴の呼ばれ、席を外す頃には夜も更けていた。
肝心の修律院は人手が出払っており、代わりにベア院長を始め実力者が集まっていたのはコシノフ邸の方だった。
そのため、エリーは当初の予定を変えて、コシノフ邸で一夜を明かす許しを得たのだった。
(夢……)
というよりも、記憶だろうか。
あの優しい雰囲気……母親と思しき人から、思い出すだけでもおぞましい恨み言を口にされた。
――生むんじゃなかった。
静かな部屋で、エリーは思わず首を縮めて目を閉じ、耳を塞いだ。憎しみのこもった声が、今も耳に残っている。
記憶であって欲しくない。あれは夢だ。場面の繋がりに脈絡がないのだから。
けれども、真に迫るような。酷いからこそ、克明に覚えていたなんてことは。
「本当に夢見が悪いったらないわね……」
中途半端な時間に目が覚めたせいで、頭が重い。しばらく項垂れて、徐々に面を上げ、深呼吸をする。朝冷えした空気が胸に清々しい。
火照って浮ついた身体をベッドから降ろし、その足で窓辺に寄る。カーテンを開く。コシノフ邸三階から見渡す眺望も、東の空が暗いままだと物足りない。
背伸びをする気分にもならない未明の頃だ。
ふと、手に粘り気を感じた。少しこねてみると、汗にしては糊のように腰が強い。訝しんで、エリーは灯りを探した。
「ほれ」
夜の寝室の片隅が、橙色に染まった。燭台を受け取る。
「ああどうも……。あれ、今の誰……」
燭台で照らすと、暗闇に涸れ井戸のような老婆の顔が浮かんだ。エリーはヒュッと息を呑む。
「あ何だ。院長さんじゃないですか……」
ベア・バーレイ院長。ラムシング村の修律院の院長を務める重鎮である。
「どうしてここにいらっしゃるんですか」
「寝ぼけたこと言って……。中身の見張りだよ」
そうだった。ミキもイーリャも徹夜二日目に入ろうとしていたので、ベア院長が見張りを買って出てくれたのだ。
エリーが眠る前に寝息を耳にしていた気がしたけれど。
「すみません。起こしちゃいましたか」
「婆は寝るにも体力使うから、一回が短いんだよ。いちいち気にすんじゃないよ、若造が」
口は悪いけれども、ベア院長なりの気遣いとエリーは受け止めた。
「それより、酷い顔だよ」
「顔……?」
「手ぇ見りゃ早いよ」
エリーの手は血塗れだった。
「びっ!?」燭台を落としかけた。「……くりしたあ。え、何これ」
一瞬で冷静さを取り戻すのもどうかと思うエリーだが、いかんせんアルフレッドのおかげで血は見慣れてしまっていた。
まさかと思って、手の甲で頬を拭った。手の甲が血で汚れる。
「うえっ」
顔中をまさぐる。まつ毛がパリパリしていた。目ヤニのように乾いた血がべっとり付着している。まるで血の涙を流した後のようだった。
表情が動くたびに、乾いた血糊がパリパリと剥がれ落ちる。
枕に灯りを当てると、生きた心地のしなくなる量の血にまみれていた。
この出血……。エリーは頭をこつこつとノックした。
アルフレッドにはエリーの夢へ干渉した前科がある。あの夢を見せた目的はわからないけれども、ろくでもないことに違いない。
「もしもし。何してくれてんの」
返事はない。頭蓋にノックをこここここ……。
「レッド、レッド? 寝てるの?」
返事はない。良い加減痛いのでノックを止める。
(……まあ、無視されたから何だって感じだけれども)
すっとぼけるつもりなら、エリーだって無視してやればよい。
こんな子ども騙しを出されたところで、今までの仕打ちと比べれば可愛いものだ。
エリーも知らず、新しい血の涙が一筋、頬を伝い落ちた。
「とにかく顔を洗ってきな」
ベア院長に促され、血で汚れた枕を手にし、部屋を後にする。
(顔洗ったら二度寝しよ)
洗ったら洗ったで目が覚めちゃうかもしれないけれど、まあ良いや。これ以上ベッドを汚すのは避けたいし。
眠気を残した足取りで部屋を出ると、当の家主――イーリャとばったり鉢合わせた。
「あれ、お早いですね?」エリーが気さくに声をかける。
イーリャ・コシノヴァ――不在の父に代わって屋敷の主人を務める人で、水を操る修律士。エリーの露術の先生でもある。
イーリャは燭台を片手に、ナイトキャップとガウン、もこもこのローブを重ね着している。
普段は裸眼だけれど、露術でシャボンを作ってレンズ代わりにしていた。
上官のミキにも隠す技術を無防備に使っているのは、人目につかない時間帯だからだろう。
「……あれ? イーリャさん?」
振り向いたイーリャは、半口開けて固まってしまった。せっかくのレンズがパチパチンと弾けて消えた。
真夜中で人けのない屋敷の廊下、二つの燭台の灯りが、血の涙を流した跡のある女を下から照らし出している。
イーリャは悲鳴を殺し、反射的に分厚い本の背でエリーの脳天をゴンとぶん殴った。
「いっ!? ……だあぁー!」
頭を押さえてうずくまり、エリーは悶絶した。頭の傷が開いて血が出ていたが、すぐに止まる。
燭台を落としたら火事になる。その一念で、何とか手放さずに済んだのは不幸中の幸いだった。
「えっ、嫌だ、エリー様……? な、何だ……驚かさないでください……じゃなくて」
慌ててイーリャが床に燭台を置き、エリーの腫れた頭を撫でさすってくれた。
「すみません……。その、良い歳をして恥ずかしいのですが、おばけに見えて、つい、咄嗟に……」
「い、いえ……私も迂闊でした……。血まみれだってわかってたのに……」
【謝ってんじゃねえよ】
血管の中からアルフレッドが眠気混じりに文句を言う。今のでようやくお目覚めらしい。
【器に何かあったら、ただじゃ済まさねえって言ってやれ】
「うっさいわね。あんたのせいでしょ」
「ううっ……も、申し訳ございません……」とイーリャ。
「ああっ、すみません! 今のはアルフレッドがうるさくって……」
こういう行き違いが起こるので、アルフレッドの小言は無視するのが一番なのだけれども、余裕を失うとエリーは口答えせずにはいられなくなってしまう。
未熟な自分が恥ずかしく、エリーは話を変えた。
「そ、それより! 私、顔を洗って、それから枕も換えてもらおうかと思ってたところなんですけれど、イーリャさんはこんな時間にどうしたんですか?」
イーリャは目を閉じて、顔をしかめる――。




