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無原罪御宿の吸血鬼  作者: ごっこまん
1.χαῖρε, κεχαριτωμένη

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008 抹殺洗礼式 2/5:死体が教える

 早まった。エリーは後悔した。胃から苦酸っぱい物がこみ上げる。


 死体は、想像以上に酷い状態だった。


 口を手で押さえる。もう片方の手はヘーゼルの手を痛いほど握っている。そのはずなのに、彼女は黙ってエリーの恐怖を引き受けてくれた。


 死体は、延髄から上が千切れていた。


 頭蓋、上顎は、軒先に衝突した瞬間、ギロチンにかかったかのように削ぎ落とされたのだろう。


 首の断面がそのまま、壁に血で縦一文字の直線を引いたのだ。


 死体の服はエリーの物よりも酷く破けていた。


 胴は捻じれ、四肢から骨が突き出て、無惨に投げ出されている。


 ヘーゼルが血相を変えてエリーから隠そうとするのも当然だ。


 エリーも一歩間違えれば同じ末路を――。


「もういい」


 ヘーゼルがエリーの視界を遮るように抱き締めた。


 浅く速い呼吸。心臓は今にも胸から逃げそうに弾む。視線も泳いでいた。


 エリーは錯乱しかけていながら、いつの間にか死体に魅入っていた。遅れて気づいたエリーは、ヘーゼルの胸の中で情動の嵐が去るまで耐えた。


 ヘーゼルの大きな手が、エリーの頭を何度も撫でてくれる。


「よく頑張った。怖かったな」


 エリーは首を横に振った。ぐりぐりと、額をヘーゼルの胸にこすりつけ、祭服を涙で濡らす。


(違う、違うの)


 声が嗚咽に紛れて、形にならない。


 生々しい死体を目の当たりにして、情動の嵐が吹き荒れても、感じていたのは決して恐怖や忌避ではなかった。


 魂さえ道連れにされそうな喪失感と、後悔の念だ。


 何を書いたかも忘れた日記が破かれて、その一ページを暖炉の焚きつけに使われたような、有形の空白が失われる理不尽さ。


 自分の薄情さに心が苦しくなる。私は――エリーは心の中で声を絞り出す。


(私は、この人を知っている)


 誰かも思い出せないこの人を、失ったんだ。


「ごめんなさい。ごめんなさい……」声にならない声を、胸の内で繰り返し叫ぶ。「ごめんなさい」


 謝罪には何故か、命乞いのニュアンスが含まれている気がした。


 記憶が、涙の熱に融かされて溢れてくる。


 ――ごめんなさい!


 あのときの命乞いは、血を吐かんばかりに切迫していて、それなのに軽く聞き流されてしまった。


 霜の降る薄暮の光景が、ヘーゼルの胸の中でかたどられた暗闇に浮かぶ。


 女は空中から、谷底へ突き放された。


 落下、断末魔、死相に歪む顔。いくら叫んだところで、死は避けられない。


 ――エリー!


 無理して甲高くしたような声が蘇る。


 嫌いなものを好きになる術を授けてくれた人の声だった。


 その声の主は己を顧みず、崖際から身を投げてまで、空から落ちる女を抱き止めてくれた。


 短くも長く感じる浮遊感の後、彼の背中から胸板を貫いて、鈍い衝撃がエリーを襲った。


「私――」


 ヘーゼルの祭服を握り締め、崩れそうな足で身体を支え、エリーは喉を切らんばかりに声を絞り出した。


「――エリー、って、呼ばれてたよ……!」


   †


 泣きじゃくるエリーの背中をヘーゼルが優しく叩いた。


 子どもをあやす要領だ。甥っ子姪っ子ができたときのために練習していたのが役に立った。


 思い出せて良かったな。と、祝うには場違いだが。


 ヘーゼルの表情は浮かなかった。


 血の臭いが濃すぎて、無傷の二人の足跡はおおまかにしか把握できない。残る負傷者に至ってはどこにいるのか見当もつかない。


 が、死体の近くまで寄って、無傷の方の動向が浮かび始めている。


 普段はあまり深く勘繰らないヘーゼルだが、死体周辺の臭跡が奇妙で、その意図を探らずにはいられなかった。


 未だに姿の見えない無傷の二人の体臭が、死体の周辺にも微かに残っている。


 無傷の二人は死体を見つけておきながら放置し、この場を立ち去ったことになる。


 それはおかしい。


 無傷の二人が、崖から転落したエリーたちを助けに降りたとしよう。


 発見時、たとえアルデンスが手遅れだと判明したとしても、身も凍るような水中に置き去りにするだろうか。


 ヘーゼルなら、仏は一旦陸地に上げる。


 水を吸わせると重くなり、搬送が手間になる。今の時季なら腐りはしないものの、やはり放置してしまうのは気後れする。


 その点を差し引いても、どうして二人ともここから離れたのだろうか。


 二人とも救援を呼びにこの場を離れたのか。


 だが、救援を呼ぶのが目的だとしても、一人は居残った方が良い。


 禁域周辺ならともかく、内部の地理は村人でも知らない者が多い。よそ者なら猶更だ。


 死体発見現場にどちらか片方が居残れば、救援の助けになる。


 死体発見現場に留まって、目印になるよう灯りの番をするなり、声で誘導するなり。救助は何も動き回るだけではない。


 それに、死体から離れている間に、救援が入れ違いに到着した場合、この状況をどう説明するつもりなのか。


 ここまで酷い死体だ。どちらも二人きりになるのが嫌だったのかもしれない。


 だが、そんな理由で諍いの種を放っておけるのか。


 何と言っても死体である。それも、禁域の死体だ。


 死傷者を出したことが明るみに出れば、あの飲んだくれはともかく、護律協会が黙ってはいないだろう。


 たとえお上が動く前でも、村総出で山狩りをしてもおかしくない大事件である。


 残りの二人は、一体どこをほっつき歩いているのか。


 ここを離れて禁域をうろついているなら、どうして水音が聞こえないのか。


 それに、三つ目の血の臭いの主の足取りが、未だに辿れない。


 三つ目の血の臭い自体は新しい。近くにいるはずだ。それでもなお、ヘーゼルの鼻を掻い潜っているのは一体どういうからくりだ。


 違和感は嫌な予感のまま、ヘーゼルに一抹の不安を煽ってくる。


(死体見てテンパったんかなあ)


 ヘーゼルがその嫌な予感を心の奥に押しこんだときだった。


 全身の毛が逆立った。無視できないほど勘が騒ぎ出す。


「エリー伏せろ!」


 そうは言ったが、足元は冷水が満ちている。エリーの身体に障ってはいけない。


 咄嗟の判断でヘーゼルはエリーが面食らうのも構わず抱き寄せ、上体を捻って立ち位置を入れ換えた。


 それと同時に、ヘーゼルの背中に鋭い痛みが刺さる。


「イッ」


 矢羽根のついた針、吹き矢が命中していた。


「ヘーゼル!?」


 エリーが、微かに歪んだヘーゼルの表情を見上げて、取り乱した。

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