007 抹殺洗礼式 1/5:パルクールで廃墟を駆ける
血の臭いだ。
それも、身体の内側を曝け出したかのような、濃厚な臭気が絡み合っている。
臭いだけでヘーゼルは、その変わり果てた姿を嫌でも想像してしまった。
臭いの源へ急ぐ。ヘーゼルは屋根伝いに駆け、道を挟んだ向かいの屋根へ、霧を滑るように飛び移る。
向かい風にも満たない穏やかな空気の流れを裂く。その淀んだ気流が、つい先刻やっとヘーゼルのもとに臭いを運んできたのだ。
把握する限り、禁域内に漂う人間の臭いは、ヘーゼルを除いて五人分ある。ロバートから聞いていた人数の倍以上だ。
五人の内、女性はエリー一人のみ。この際、エリーはエレクトラだと決めつけてしまおう。
不明な四人については、無傷が二、負傷……出血が二。
エリーの衣服には、本人の血の他、二人分の血の臭いが僅かに残っていた。
ヘーゼルの行き先にあるのは、その内一人の物。五分五分で、アルデンスだ。それも、強烈な血の臭い。
アルデンスの変わり果てた姿を見せるのは、傷心のエリーには荷が重すぎる。
(エリー、頼むから大人しく待っててくれよ)
だからヘーゼルは持ち前の体力に物を言わせて、廃墟のパルクールに踏み切った。
強烈な臭いに紛れているものの、アルデンスの近くには無傷の二人もいるようだ。
ロバートが人数のサバを読んで伝えたことは、この際どうでも良い。正体不明でも人手があるのは不幸中の幸いだ。
エリーに死体を見せたくない一心で突っ走ったヘーゼルだが、死体を見つけた後のことまでは考えが及んでいなかった。
人手があるのなら、手分けして死体を運べる。上手くいけば、死体の見た目を綺麗にしてやれるまで、エリーから隠し通せる。
だが、淡い期待とは裏腹に、ろくでもない事態が進行している予感も膨らみつつあった。
悪い予感の正体はわからない。落石で強打した背中が、今になって引きつった。
やがて視界が開く。崖際にほど近い目抜き通り跡地だ。
ヘーゼルは屋根から降りて着水する。大きく一息つくと、ぼわっと真っ白な吐息になった。
ベルトに吊るしたランプを外し、高く掲げて周囲を照らす。
街並みに光を滑らせていく。
一軒の廃商館の壁を過ぎ、戻す。
血痕だ。目立ち過ぎて、むしろ塗装に見えるほどの。
ランプを更に上へ掲げると、真新しい血の線が、寸分の迷いなく縦一文字に引かれていた。
その真下、血の淀む水面の真ん中に、人がうつ伏せに漂っている。
死体だ。
血の縦一文字を偶像に見立てて平伏するようにも、許しを請うようにも見える姿勢で死んでいる。
身体は無残に痛めつけられていた。無事な箇所を数える方が早いほどだ。
(ああ、聖マトゥリ様よ。こいつは、もう)
「もぉー、置いてか、ないで、よお」
背後からの声にヘーゼルが総毛立つ。弾かれたように振り向いた。ざぶざぶと水場に苦闘しながら、息も絶え絶えにエリーが歩み寄ってきた。
「なっ……エリーおま……なんっ」何で来た。それよりも「ど、どうやって」
「追い、かけるの、大変、だったん、だから」
膝に手をつき、肩で息をするエリーが、上目遣いで非難がましく訴える。
「それ、より、さあ……寒っむい! 水、冷ったい! 信っじらんない! ぎゅって、させて!」
これ以上の辛抱は堪らないとばかりに、エリーがヘーゼルに抱きついてきた。ボロ切れとなった服の下の、骨が浮き出た肢体の感触が伝わった。
「な、なあ、エリー。お前……」
「うぅん、やっぱり、背中の方が温かい」
むずがって、エリーが背中側に回ろうとする。ヘーゼルは死体を隠すため、慌てて自ら背中を差し出した。
「はわあ……これこれえ。生き返るう……」
代わる代わる、両頬の冷たさが背中に押しつけられる。
寒さに強張った肉体がほぐれていくのを背中に感じつつ、ヘーゼルはエリーへ尋ねるつもりだったことを自分の胸の内に問う。
(大変だった、て。そんなんじゃ済まねえだろ)
ヘーゼルは体力や身のこなしに自信がある。村一番だという自負もある。
そのヘーゼルが、ヘーゼル並みの体力おばけを仮想敵にして、本気で撒くつもりで道順を組み、全力で建物から建物を跳び越えてきたのだ。
華奢で貧弱なエリーが、息を切らせるまで力を振り絞ったところで、追いつける訳がない。
いや、尋常じゃない脚力はまだしも、何かもっと、変なところが。
「どうしたの?」
息を整えたエリーが、汗ばんだ顔で不審げにヘーゼルを見上げていた。
我に返って、ヘーゼルは頭を振った。
得体の知れないものを見るような目つきをしていたかもしれない。
そんな目で見るなんて、ずっと心細そうにしているエリーに向かって、あんまりだ。
ヘーゼルは両頬を挟むように叩いた。乾いた音が霧の廃墟に良く響いた。
じんじんと表情が引き締まる。エリーの正面に向き直る。
「何でもねえ」
エリーの頭をくしゃくしゃに撫でるにかこつけて、さり気なく姿勢を崩した。
ランプの光源を壁から遮り、エリーの視線も死体から遮ったつもりだった。
無駄な足掻きだ。あの鮮やかな血の縦一文字は、一瞬でも目に留まる。
「……死んでるの?」
緊張した面持ちだが、見透かす瞳で、エリーが問う。
ヘーゼルは顔の中心にしわを集めて、渋い顔で声を殺した。
(上手いかわし方が思いつかねえ)
嘘が下手な自覚はあった。
その上、初対面で見破られるほど酷いと思い知らされた直後である。
やっと口をついたのは「見ねえ方が良い」という、苦々しくも正直な忠告だ。
目を逸らすヘーゼルの、所在なく下げられた手に、エリーの指が絡む。
エリーが震えているのは、冷たい湧き水のせいだけではなかった。
「ねえ、聞いて、ヘーゼル」
しかし、ヘーゼルの目を見据えるエリーの瞳は、水に似て澄んだ決意を湛えていた。
「私、自分がエレクトラかどうかもわかんない。けど、エレクトラは、アルデンスって人と一緒だったんでしょう? そこの人がアルデンスだったなら、エレクトラならきっと、彼を弔うと思うの」
「……そうかもな。それができりゃ立派だけどよ、今そんな余裕、エリーにゃねえだろ。やっこさん、男伊達で、お嬢さんにゃ刺激が強すぎるぜ」
「はっきり言ってくれて良いよ」
ヘーゼルは開きかけた口をつぐむ。エリーが言う。
「ヘーゼルの言う通り、怖い思いはもうたくさん。この廃墟も怖いし、死体なんてまっぴら。でもね、何も思い出せないのだって怖いの。……だから、これは私の下心」
ばつの悪そうな顔で、エリーが苦笑する。
「実は、怖いなりにちょっとだけ期待もあるのよね。たとえば、あの人をもっと近くで見れば、何か思い出すかも、って」
ヘーゼルは目を丸く開いた。
存外、エリーが強かだ。要救助者というだけで、頭から彼女が弱っていると決めつけていた。
ただ、そこまで言われても、おいそれと引き下がるべきではない。
自ら立ち直ろうとする意欲は立派だが、今のエリーには早すぎる。
指先伝いにエリーが震えているのがわかる。一方で、それでもなお力強くヘーゼルを見つめてもいる。
「格好悪いなあ、私。こんなこと言って、死体を見るのは生理的に無理だって、身体が言ってる。でも、私、ヘーゼルと一緒だったら、少しは大丈夫だと思うの。……だから、お願い、ヘーゼル。私の我が儘を聞いてちょうだい。一緒に来て欲しいの。その間、手だけ、繋がせて」
エリーの体調や精神状態がどうであれ、ここまで来てしまった以上、死体を見せないままでは済まない。
散々悩んだ挙句、ヘーゼルは絡まる指の震えを鎮めるつもりで、そっと手を握り返した。
†




