001 真夜中の女子会①:血の涙
「幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう」
――ルカによる福音書 1章76節
「一人の命を救う者は、全世界を救う」
――タルムード ミシュナ サンヘドリン篇 4章5節
哀切な子守唄が聞こえた。
あなたは頭を撫でられていて、とん、とん、と胸を叩かれている。
見守られている安心感。無償の庇護に浴する幸福。夢見のない安らぎが、あなたを包んでいる。
温かい膝枕。寝返りを打ち、胸いっぱいに息を吸う。
薄目を開ける。
優しい眼差しで微笑みかけてくれる女性は、あなたより遥かに大人に見えた。
「良い子ね」
その人が慈しみをこめてあなたを呼ぶ。
頭を撫でる手つきをそのままに、微睡むあなたは頬を撫でられる。
くるくる転がる指先がくすぐったく、首に添えられ、じゃれつくように絞められて、指が息の根に食いこんだ。
喉が潰れる。
あなたはやめてと懇願する。しかし声にならず、奇妙に喘ぐしかできない。
女性の手首を掴み、あなたは必死に抵抗する。
「大人しくなさい」
あなたの咽頭へ、更に深く指が食いこんだ。
大人の女性の微笑みは、いつしか憎悪に燃え滾っていた。
あなたは抵抗する。あなたの首を絞める手を、引きはがそうとする。
けれども、息ができない。
やがて腕から力が抜けて、だらりと垂れた。
「……生むんじゃなかった」
薄れゆく意識の中、悔恨の滲む声をはっきりと耳にした。
†
「はああっ! はぁ、はぁ! はぁ、はぁー。はぁ……」
暗い部屋でエリーは息せき切って飛び起きた。
息が荒い。息を止めていたらしい。脂汗が寒さに曝されて凍えそうだった。
汗だくの顔を手で拭い、蹴飛ばした毛布を掻き寄せて肩を包む。
ベッドの上、暗闇に慣れた目で見渡すと、整った造りの部屋だった。
クローゼットやドレッサーが整然と並んでいる。
コシノフ邸の客間だ。
当初の予定では、エリーは修律院で寝泊まりする手筈だった。
というのも、エリーは体内に吸血鬼――アルフレッドという怪物を飼うという、前代未聞の状態に罹っているためだ。
特に眠りに落ちている間は、アルフレッドがエリーの身体を使って何をしでかすか、わかったものではない。
アルフレッドという爆弾を抱えたままのエリーは、護律協会の監視が行き渡った修律院で寝起きする方が望ましい。
しかし、昨夜はスプリグリ族の祝宴の呼ばれ、席を外す頃には夜も更けていた。
肝心の修律院は人手が出払っており、ベア院長を始め実力者がコシノフ邸に集まっている。
そのため、エリーは当初の予定を変えて、コシノフ邸で一夜を明かす許しを得たのだった。
良い宴だった、と振り返る余裕はない。
(夢……)
というよりも、記憶だろうか。
母親と思しき女性の腕の中で安らいでいたら、突然首を絞められ、思い出すだけでもおぞましい呪詛を残された。
――生むんじゃなかった。
静かな部屋で、エリーは思わず首を縮めて目を閉じ、耳を塞いだ。
憎しみのこもった声が、今も耳に残っている。
脈絡がないようにも感じたし、真に迫る現実味もある夢だった。
失った記憶を、頭が思い出そうとしているのだろうか。
だとしても、あんな酷い過去から思い出さなくても良いのに。
いや、酷いからこそ、忘れられなかったのかもしれない。
「本当に夢見が悪いったらないわね……」
中途半端に目が覚めたせいで、頭が重い。
しばらく項垂れて、徐々に面を上げて深呼吸をすると、朝冷えした空気が胸に清々しい。
火照って浮ついた身体をベッドから降ろし、その足で窓辺に寄る。
カーテンを開く。コシノフ邸三階からの眺めも、東の空が暗いと物足りない。
背伸びをする気分にもならない未明の頃だ。
ふと、手に粘り気を感じた。少しこねてみると、汗にしては糊のように腰が強い。
訝しんで、エリーは灯りを探した。
「ほれ」
「ああどうも……」
夜の寝室の片隅が、橙色に染まった。燭台を受け取る。
「あれ。今の誰……」
燭台で照らすと、暗闇に涸れ井戸のような老婆の顔が浮かんだ。
エリーはヒュッと息を呑む。
「あ何だ。院長さんじゃないですか……」
ベア・バーレイ院長。ラムシング村の修律院の院長を務める重鎮である。
「どうしてここにいらっしゃるんですか」
「中身の見張りだよ」
そうだった。ミキもイーリャも徹夜二日目に入ろうとしていたので、ベア院長が見張りを買って出てくれたのだ。
エリーが眠る前に寝息を耳にしていた気がしたけれど。
「すみません。起こしちゃいましたか」
「婆は寝るにも体力使うから、一回が短いんだよ。いちいち気にすんじゃないよ、若造が」
ベア院長なりの気遣いと受け止めた。
「それより、酷い顔だよ」
「顔……?」
「手ぇ見りゃ早いよ」
エリーの手は血塗れだった。
「びっ!?」
燭台を落としかけた。けれども、緊張が一気に引いていく。
「……くりしたあ」
え、何これ。一瞬で冷静さを取り戻すのもどうかと思うエリーだが、いかんせんアルフレッドのおかげで血は見慣れてしまっていた。
まさかと思って、手の甲で頬を拭った。
手の甲が血で汚れる。
まつ毛がパリパリしていた。目ヤニのように乾いた血がべっとり付着している。
まるで血の涙を流した後のようだった。
アルフレッドの仕業に決まっている。エリーは頭をこつこつとノックした。
「もしもし。何してくれてんの」
返事はない。
「レッド、寝てるの?」
返事はない。
(ひょっとして私、無視されてる?)
悪夢に血とくれば、アルフレッドが関わっていると相場は決まっている。
元凶が沈黙を貫いているのは不気味だった。
まあ、日中はずっと寝る寝るばかり言うアルフレッドのことだ。
銀のネックレスを身に着けた今、エリーの許可なく表に出るのは難しい。本当に寝ていてもおかしくはない。
それに、こんな子ども騙しな手口で驚かされたところで、今までの仕打ちと比べれば可愛いものだ。
すっとぼけるつもりなら、エリーだって無視してやるだけのことだ。
エリーも知らず、新しい血の涙が一筋、頬を伝い落ちた。
表情が動くたびに、乾いた血糊がパリパリと剥がれ落ちる。
枕に灯りを当てると、血がこびりついていた。
「とにかく顔を洗ってきな」
ベア院長に促され、血で汚れた枕を手にし、部屋を後にする。
(顔洗ったら二度寝しよ)
顔を洗ったら目が覚めちゃうかもしれないけれど、まあ良いや。
これ以上ベッドを汚すのは家主に悪いし。
眠気を残した足取りで部屋を出ると、当の家主――イーリャとばったり鉢合わせた。
「あれ、お早いですね?」
イーリャ・コシノヴァ――不在の父に代わって屋敷の主人を務める人で、水を操る修律士だ。
燭台片手に、ナイトキャップとガウン、もこもこのローブを重ね着している。
普段は裸眼だけれど、露術でシャボンを作ってレンズ代わりにしていた。
上司のミキにも隠す技術を無防備に使っているのは、人目につかない時間帯だからだろう。
「……あれ? イーリャさん?」
イーリャは半口開けて固まってしまっていた。
せっかくのレンズがパチパチンと弾けて消えた。
真夜中で人けのない屋敷の廊下、燭台の灯りが、血の涙を流した跡のある女を照らし出している。
ばったり会ったイーリャからしてみれば、幽霊然とした顔だった。
蝋燭の頼りない灯りが下から顔を照らすのが、余計に。
反射的にイーリャは悲鳴を殺し、分厚い本の背でエリーの脳天をゴンとぶん殴った。
「いっ……だあぁー……!」
頭を押さえてうずくまり、エリーは悶絶した。
頭の傷が開いて血が出ていたが、すぐに止まる。
燭台を落としたら火事になる。その一念で、何とか手放さずに済んだのは不幸中の幸いだ。
「えっ、嫌だ、エリー様……? な、何だ……驚かさないでください……じゃなくて」
殴打の手応えが、むしろイーリャを安心させたらしい。床に燭台を置き、慌ててエリーの腫れた頭を撫でさすった。
「すみません……。おばけに見えて、つい、咄嗟に……」
「い、いえ……私も迂闊でした……。血まみれだってわかってたのに……」
【謝ってんじゃねえよ】
血管の中からアルフレッドが眠気混じりに文句を言う。
エリーの血液として全身を巡っている吸血鬼が、今のでようやくお目覚めらしい。
【器に何かあったら、ただじゃ済まさねえって言ってやれ】
うっさいわね。あんたのせいでしょ。エリーは無視した。
「こんなだから顔を洗って、それから枕も換えてもらおうかと思ったんですけど、イーリャさんはこんな時間にどうしたんですか?」
イーリャは目を閉じて、顔をしかめる――。
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