037 クラブ:リキュール
†
真夜中に、人狼の駆るイヌ橇が一台走っていた。
荷台には疲れ果てた一人の乗客が毛皮に包まっている。
「着いたぞ」
揺り起こすまでもなく、乗客は目を覚ます。
「全く呆れたぜ。ラムシングの野郎でもねえってのに、禁域を抜けたってよ」
乗客が口元に指を一本立てた。
確かに夜中とはいえ堂々と口にできる話題ではない。
人狼はおどけて、乗客の真似で指を立てた。
「いや、真面目な話。ラムシングの連中が幅を利かせてよ、黒い森の恵みはめっきり少なくなっちまった。奴らが勝手に決めた掟なんざうんざりでよ。よそ者のあんちゃんが禁域ぶっちぎったってのは痛快なんだな、これが」
「……祝祭を邪魔して悪かった」
「全くだぜ……ああいや! 何もそこまで怒っちゃいねえよ!」
乗客が頭を下げようとするのを、人狼はやんわりと止めた。
「ま、何だ。あんちゃん手ぇ怪我してんのに独りで黒い森を抜けようってんだもんな。しかもこんな寒い夜に。無視して死なれでもした日にゃ、ご先祖様に顔向けできねえよ」
乗客は足代を握らせようとした。
人狼が固辞するので、毛皮を買うことにする。
足代よりも遥かに高額だが、乗客は引き下がらない。
人狼も悪い気がしないので、商売に応じることにした。
乗客の男は、ある町の宿屋を訪ねた。
男は手負いで、右手を庇っている。
宿屋の店主は一目くれると、あからさまに機嫌を悪くした。舌を打つ。
招かれざる客だ。チェックイン時間はとっくに過ぎている。
今しがた最後の皿を洗い終えたばかりで、蝋燭を頼りに帳簿をつけているところだった。
店主の不愛想に構わず、男はどかりと酒場のカウンター席をぶんどった。
「閉店だよ」
ドンとカウンターに叩きつけられた物の重さに、店主は思わず目を瞠った。
カウンターに叩きつけられた貨幣は、朝晩飯つきで三日は泊まれる額だった。
「残飯の寄せ集めで良い。スープがあれば温め直して、無ければ湯でもくれ。とにかく温かいのが欲しい。それから、電話はあるか? 急ぎなんだ。あるなら貸してくれ」
そう言って男は、更に一晩泊まれる額を転がして、先の貨幣の小山に当てた。
非常識でも、上客なら話は別だ。店主は腰を低くし、ゴマを擦る。
「へ、へえ、ただ今。旦那、暖炉をお点けしましょう。電話はあちらで」
時間外に客一人だけのホールで、厨房の音が孤独に響く。
男は席を立ち、不慣れな逆手で電話のハンドルを回した。
呼び出し音。通話が繋がる。
「交換手か。ハイランドパーク交換所に繋いでくれ」
『お待ちください』
呼び出し音。通話が繋がる。
『ハイランドパーク交換所』
次の交換手の声は気怠そうだった。
「囁くように美酒を酌もう。ウィスパーはどこだ」
『……転勤しましたが』
「そうか。どのくらいで戻ってくる?」
『霊髄壁の陥落する頃に』
もう二度とない。という慣用句に男は「ショットを飲み干す前に代わってくれ」と、有無を言わさない口調で告げた。
『悪戯なら切るわよ』
柱時計が十秒刻む間、どちらも声を発さず、通話を切りもしなかった。
時計が鳴り、刻を告げる。
「質問攻めはやめろ。レシピはロブ・ロイだ」
禁域でアルフレッドと対峙し、仲間を犠牲にして逃れた射手――ロブ・ロイは言う。
『ご苦労様です、同志ロブ・ロイ。こちらウィスパー』
ウィスパーは目が覚めたように応えた。
『リキュールは受取人様に届けられましたか?』
「代理人に受け渡したが事故に遭った。配送中にリキュール流失が二、遺失が一。残ったのは一つだけ」
ウィスパーが息を呑む気配がした。
標的の護衛は死亡。
しかし不測の事態によりロブ・ロイ率いる待子組から死者二名、生死不明一名を出してしまった。
生き残りはロブ・ロイのみ。
『勢子組や、ゴッド・ファーザー親子からの応援は?』
「それどころじゃない。受取人は顔面を血のように赤くしてご立腹。謝り倒して命からがらだ」
血や赤は吸血鬼を示す符丁……標的が吸血鬼化した――?
作戦は失敗、被害甚大。
笑えない冗談を繰るロブ・ロイではないが。
『受取人様が? そんなまさか』
「まさかが起きた。本件の様相はクラブの想定を超えている。受取人は特別、顔を赤くしていた」
符丁のみの報告だけでは限界がある。
それほど特別な吸血鬼化。
『承知しました。迎えはこちらで手配します』
「利き手がやられた。治療できる奴を頼む。最低限、仕事に復帰できるようにしたい」
『わかりました。他に何か必要なものは?』
「カーディナルに繋いでくれ。ムーングロウの預けた遺言と、それからリキュールの在庫を確認したい」
『いえ、事態は急を要します。受取人様の評価が変わったのであれば、スノー・クレインに繋ぎましょう。お詫びに値する品を見繕わせるなら適任です。カーディナルの許諾は私から得ておきます。カーディナルへの報告と遺言の確認は、対面時になさる方が早いかと』
「助かる」
ロブ・ロイは現在地を告げて、迎えを待つと告げた。
ウィスパーとの通話を終えて電話線を繋ぎ替えさせる。
スノー・クレインを呼び出す。
しかし深夜に、あれは起きているだろうか。
呼び出し音が長い。
「旦那、お待ちどうさまで」
店主が運んだスープは湯気が立っている。
受話器を利き手で摘まむ形に持ち替えて、ロブ・ロイが器ごとグイと飲む。
†
宴で家主たちが留守のコシノフ邸に、電話が鳴った。
留守番の村人が出る。
『ヴィトー・アンドリーニはご滞在でしょうか』
電話の主はそう尋ねる。
出産までの猶予を与えられ、ヴィトーが内通者である事実はまだ広まっていない。
留守番の村人は、何の疑いもなくヴィトーに通話を譲った。
「誰だ」
『ご先代。ウィスパーです』
ヴィトーは周囲を探り、声を潜めた。
「先代と呼ぶな。それを言うなら先々代じゃろ。息子もとっくに足を洗っとる」
『しかし、ご助力くださった』
「情報はもう出せん。内偵がバレた」
『今、通話できているのは何故ですか。何らかの猶予があるのでしょう』
食えない女だ。
「ふん。わしらの家族まで探りよって、無関係な嫁や孫を手駒としか見とらん口でよくも――」
『災難だったようですね。世間話は結構。リキュールはまだ配達前です。受取人の現在地を報告しなさい』
ロブ・ロイが増員を要請する間を利用して、標的の現在地を改めて把握するための連絡だった。
ヴィトーは逡巡した。
内偵は露見している。
これ以上罪を重ねては、アポロニアや孫にまで塁が及びかねない。
しかし、ここで真実を答えずにいれば、クラブも黙っていないだろう。
幸いまだ、ヴィトーの正体を知る者は出払っている。
「……まだラムシング村におる」
標的の居場所を告げ口したところで、任務を遂行するのは現クラブだ。
ヴィトーは知らぬ存ぜぬを貫けば、この内通は表に出ない。
「だが、受取人は洗濯屋の世話になっとる。一筋縄じゃいかんぞ」
ウィスパーの呼気に、驚きが含まれているように聞こえた。
『それで、血の染みは落とされたのですか?』
「何故だか汚れたまま放置されとる」
護律協会の介入を許してしまった。
吸血鬼狩りの専門集団の手に落ちたのであれば、あるいは手を下さずに済むかもしれない。
しかしどういう訳か、吸血鬼化したにもかかわらず標的は駆除されていない。
正攻法では、クラブが明るみに出る恐れがある。
『なるほど。厄介ですね』
スノー・クレインに差配させる判断は間違っていなかった。ウィスパーは内省する。
「悪いことは言わん。手を引け。あれは記憶を失ったと聞く。もはや受取人の要件を満たさん」
『どこの誰からそんな戯言を……。まさか真に受けたのですか。聞くに値しません』
「……胎には子が宿っとるそうじゃな? 聞いとらんぞ」
『今更何を言うかと思えば』
ウィスパーが失笑する。
『記憶喪失ですとか、妊娠ですとか、受取人様の詳細を探って成果が挙がるのですか? 仕事に影響を与え得る雑音を排除することは、全ての同志の金科玉条でしょう』
「もう引退した。知ったことか」
『受注後速やかに配送する。それが当クラブのモットーです。あなた方のお手を煩わせたことはお詫びしますが、今のあなたに譲れない流儀があるように、当クラブも流儀を掲げています。流儀の衝突は不幸な事故のようなものです。そのことを、よくよく理解してください』
事故は往々にして、より弱い方が取り返しのつかない被害を受ける。
こちらに身重の身内がいるのを承知で、組織力をちらつかせるか。
腐っておる。どこまでもわしらを愚弄しおって。
受話器を握り潰さんばかりのヴィトーの手に、青筋が浮かぶ。
「勢子組の待機所で吸血鬼騒ぎがあった。被害は推して知れい。今やラムシング村は魔境となっておる。それでも恐れんなら、覚悟せい」
ウィスパーが絶句する。
標的が通例とは異なる吸血鬼化を遂げたとロブ・ロイから報告を受けていた。
だが、これほど早く反撃を受けるとは想定していなかった。
ウィスパーは標的以外に吸血鬼が潜伏していたことを知らない。
ヴィトーにしても、騒動の原因をはっきりと知っている訳ではなかった。
その脅威はそのまま、唯一現地にいるとされるアルフレッドのものとなる。
古巣の凶報は、決して喜ばしくはない。
だが、ヴィトーはある種の意趣返しに成功した気になった。
「これで最後じゃ。わしらはもうクラブと手を切る」
『……そうですか。これまでのご尽力に感謝します。謝礼はどちらでお受け取りになりますか』
「喜捨でもせえ! もう関わるな!」
ヴィトーは受話器を叩きつけて、通話を切った。
上手く受けに納まらなかった受話器の振り子から、話中音がツーツーと流れていた。
受話器を受けに戻し、アポロニアの客間に戻る。
宴のご馳走に満足した寝顔を、ヴィトーは慈しみ、己の不甲斐なさを呪う。
この身に代えてでも、まだ見ぬ災難を尽く退けてみせよう。
ヴィトーは老骨を奮い立たせた。
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