032 ラムシング村とスプリグリの宴①:九儺十神の故事
ラムシング村が有する広大な畑の一画は今、スプリグリ族の宿営地となっている。
迎えの狗人たちの先導で、エリーたちは彼らの生活の場に立ち入った。
燃える松明の灯りが、暗闇を裂いて畦道を浮かび上がらせる。
夜闇が忍び寄る頃、天候は曇り。
しかし、一雨降る心配は要らない。
この雲は露術の“雲送リ”で禁域から生じたものだ。
夜間の冷えを予防するための露術は、星や月をも隠して地を深淵に覆っていた。
丸太組みの柵に囲われたトナカイたちの中に、母親の乳を夢中で飲む仔の姿が見えた。
あの惨劇を生き延びた仔だろうか、一頭だけ色鮮やかな刺繍を施した帯を首にかけていた。
縁起物っぽくおめかしさせられても、母親のミルクが一番のご褒美らしい。
家畜一頭を見るにつけ、エリーの心は異文化情緒に躍った。
松明に照らされた幕舎の並びを行くにつれて、人いきれと賑わいが増していく。
だが、エリーが近くを通ると、気持ちだけ緊張が走るようだった。
「今だけだから気に病まないでね」
ミキが肩に腕を回して言う。
エリーの中の吸血鬼の血を、彼ら狗人たちは嫌でも嗅ぎ取ってしまう。
スプリグリ族を脅かしかねない者を、それでも彼らの領域に招き入れた。
その覚悟を見上げるべきであって、エリーがくよくよするのは筋違いだ。
キャスパーの気遣いに近しいものを感じる。
知っていても、あえて知らないふりをする。
それが今のエリーにとって、どれだけの救いになることだろう。
事実、スプリグリ族は警戒こそすれ、宴の準備の手を止めない。
ライトールたちを助けた伝聞も手伝って、警戒の中に好奇心が混ざった視線を寄越していた。
子どものは特にわかりやすい。
「毅然として。反応するのは我慢してね」
形式上でもスプリグリ族の心をエリーに開いてもらう。
そのための儀礼を宴の前に催すと、ミキが説明していた。
仔イヌみたいな綿毛たちに手を振りたい気持ちを抑えて、エリーは礼装に釣り合う振る舞いを心がけた。
吊るされた家畜の肉や革と、人々の活気とを抜けると、一際大きく威厳のある一張りが見えた。
族長バルケティルの幕舎だという。
迎えの一人が幕舎に入る。
しばらくすると、ライトールとラライが出迎えてくれた。
「皆よく来てくれた!」
歓迎するライトールの隣は、初めて見る顔だった。
ラライが「この人、私のお婿さん」と紹介する。
婿は毛皮をふっくらさせて照れた。
「お婿さんだなんて、ラライは可愛いことを言ってくれるなあ」
婿が蜜月の真っ只中とばかりにデレてラライを抱擁し、頬ずりする。
「もぉ……ほら、あの子たちですよ」
身代わりを見つけて、ラライが指す。
ラライの婿は、ラライを守った獣追いの兄弟たちを見るや「おお、麒麟児か!」と腕いっぱいに感銘を広げ、腰を落とし、むずがる兄弟に構わず抱き着いた。
「ラライ救出の立役者たちよ、礼を言う! 今宵は飽きるほど食え、な!」
「婿殿、奢るのは俺です」
「細かいことを言うな、義兄者! 男だろう!」
「ごわごわ」
苦しがる弟に「失礼だろ……ぐお、苦しっ」と兄。
両親は内心冷や冷やしていた。
狗人の身体能力は高い。本気を出されれば大人でもひとたまりもない。
しかし、ラライの婿は豪快でも不器用ではないらしい。
悪ふざけのレスリングごっこが少し熱を帯びたくらいの、悪ガキには一番楽しい加減でじゃれている。
「親御さん方、うちの婿殿がすまない」
ライトールも義弟の大雑把さに呆れた。兄弟の両親に謝り、今度はエリーに声をかける。
「着いて早々悪いが、父上がお待ちだ。エリー、“儀仗の結い”のことは聞いているな」
「道すがら、ミキさんから」
覚えたての言葉に、エリーは少し緊張して答える。
“儀仗の結い”。吸血鬼を宿したエリーを、名実共に一族の来賓として受け入れてもらうための儀礼である。
作法はミキに教えてもらった。
ミキがあんまり乗り気じゃなかったのが気がかりだけれど、簡単な儀礼だから大丈夫、なはず。
一行が案内された先は、天幕で囲われていた。
天幕の並びを抜けるとそこは広場で、既に多くの狗人たちが待っていた。
エリーの到着を知るや、潮が引くように道を譲られ、焚火を背にした偉丈夫がその先で待ち構えている。
族長バルケティルだ。
ライトールも大柄だが、それよりも大柄なラライの婿よりも更に立派な巨躯を誇っている。
毛深く、しかし毛の下に肉付き豊かな肉体を隠しているのが、帯の締め具合から察せられた。
「さ、行こうか」
気後れしているとミキに背中を叩かれ、エリーを置いてさっさと行ってしまった。
「気負わず、自然体にですよ」
イーリャの応援が背中を押す。
「うん、行ってきます」
焚火の前で、エリーとバルケティルが顔を揃え、ミキが仲立ちを担う。
「あーやべ。真面目な仕事久々だから緊張して吐きそう」
ミキさん、さっきのお気楽さ、どこで落としたんですか。
主役が揃い、聴衆のざわめきが引いていく。
「護律官殿、始めよ」
堂に入った族長の一声で、ミキは観念して背筋を伸ばした。
「これより、スプリグリ族長バルケティル様と、そのご子息の一助となったエリー様で、“儀仗の結い”を執り行います」
スプリグリ族から一人が、そしてラムシング村からイーリャが、それぞれの方の主役へ儀仗を持つ。
“儀仗の結い”とは、護律協会の前身、拝露教会から伝わる儀礼だ。
遥か昔、九儺十神と人間が手を結ぶ故事に由来する。
触れた者の命を害する九儺十神たちは、人間と友好関係を結ぶために腐心した。
契約でもなく、恵みを与え信仰を得るのでもない。
対等な関係を結ぶにはやはり、握手が必要だった。
しかし、九儺十神たちの力は強大だった。
心では対等を望んでも、存在と力の格の違いは火を見るよりも明らかである。
そのため、九儺十神たちは人間に剣を持たせた。
九儺十神たちは、剣を向けられてようやく人間と対等となる。
柄を人間が、刃を九儺十神が握り、それを双方の友好の証とした。
この故事を、用いられた剣の銘を借りて“四季雨の結い”と呼ぶ。
儀礼として整備された後も、真剣を用いる正式儀礼は同じ名で呼ばれている。
そこから刃を取り除き、今日の“儀仗の結い”の形となる。
ミキが神話を説明した。
「古来より、力なき者が柄を、力ある者が刃を握る習わしです。ですが、今宵執り行う結いは、ご両名が柄を握り、双方に刃を差し向けていただきます」
「伝統に反してやしないか!」
野次にしては妙に浮かれた一声は、ラライの婿のものだ。
彼はサクラだ。
聴衆の疑問を代弁し、ミキの説明に繋ぐため、ライトールたちに力を貸してくれている。
わかっていても、エリーはぎくりとしてしまう。
散々誰かさんに冷水を浴びせられてきたせいで、何であれ邪魔が入ることに臆病になっている気がする。
仕込んだ野次に対し、“儀仗の結い”の本質は力の優劣ではないとミキは説く。
九儺十神と人間。本来触れ合うことすら赦されない双方が、格の違いを乗り越えて手を結び合う。
相互理解の限界を弁え、越えるべきではない一線を明示する。
隣にいることを許すのではなく、許し合う。
それこそが本儀礼の意義である。
「平時においては村の者が柄を、スプリグリ族の者が刃を握ります。しかし、今宵の結いはそう容易には参りません。片や吸血鬼の力に犯されこそすれ、本質は平凡な乙女、片やスプリグリ族の長でございます。そこで!」
ミキは声を張って、耳目が集まる一瞬を待ち、宣言する。
「こちらのエリー様には柄を握り、刃をバルケティル様へ。こちらのバルケティル様には柄を握り、刃を内なる吸血鬼へ。それぞれ向けることをもって、今宵の“儀仗の結い”の成就といたします。吸血鬼に握らせる柄などない。我々が示すべき一線は、ここにこそあると、皆々様に格別のご理解を賜りたく存じます」
見渡す限り、反意はない。
ミキは友好を結ぶ両者に向き直り、儀仗の抜杖を促した。
儀礼用に刃を省いた刀身が焚火の色を帯びて、エリーとバルケティル双方に差し出される。
その運びだったはずだが、バルケティルはまだ儀仗を抜いてもいなかった。
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