030 残党狩りの口づけ 4/5:安産のお祈り
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日が傾いて屋敷の外が活気づいてきている。コシノフ邸の客間で退屈していたアポロニアが、楽し気な雰囲気に吸い寄せられるように窓の外を窺った。
「何だか賑やかですよ、お義父さん。お祭りでもあるのかしら……」
「ああ、そうだの」
ヴィトーは上の空だった。窓の外に想いを馳せていたアポロニアが、珍しく気の抜けた義父へ向き直る。
「お疲れですか?」
「ん……ああ、いや」
ヴィトーは咳払いし、胸を張る。ゴキゴキと全身の関節が鳴った。
「気を遣わんで良い。嫁に心配されるほど、老いちゃおらん」
「でもお義父さん、普段ならこういう賑やかなこと、放っておかないじゃないですか。ちょっとくらい、お休みになったら良いのに」
「わしゃ、お前さんが心配でそれどこじゃないよ。不安がってる嫁を一人にして休むようじゃ、男が廃る。かと言って、不器用なくせして無駄に働き者などこぞのバカタレも考えものじゃがな」
「あまりミケーレを悪く言わないであげてください」アポロニアは困った顔をする。「それに、ほら、そんなにカリカリしてらっしゃるんですから、羽を伸ばした方が……」
「行かんったら行かん」
「でも」
「良いから」
頑固を声にして、ヴィトーはだんまりを決めた。
ヴィトーの要求が標的側に通るかどうか。そればかりが気がかりだ。
姑息な屁理屈にしてはなかなかのハッタリをかませたが、ヴィトー本人にしても、とても通る要求とは思えなかった。
標的の中で不自由している吸血鬼と、アポロニアとは無関係にうろちょろできるヴィトーらでは大違いだ。
ミケーレ共々、親子で手を汚してきた。いつか多くの人を殺めた罪を裁かれるのではないかと恐れた夜もあった。
しかし、今やその恐れも、息子の嫁にまで類が及ぶことへの恐れに変わっていた。
判決を待つ罪人の気持ちを、まさか産院で味わうことになろうとは。
扉がノックされる。審判の時が来たか。
「はいよ」
大儀そうにヴィトーは椅子を立つ。ノックが急かす。
「待てよい」
ヴィトーが扉を開くと、凍りつくほどの美貌が立っていた。
アイスプラチナの御髪はよく梳かれ、ほんのりと化粧を乗せた顔の冷やかを鋭利に強調する。毛皮をあしらったドレスは煌びやかになりすぎず、威厳を秘めて、ヴィトーを後ずさらせた。
標的の女――吸血鬼を飼うエレクトラ・ブラン。
「おま……何、で……」
余りに唐突で喉を詰まらせるヴィトーに、標的はぞっとするほどの笑みを差し向けてきた。
「初めまして、ヴィトーおじいさん。私はエリーです。……あなたが、アポロニアさん?」
「あら、ひょっとしてお昼頃にお見かけした……。あらあら、まあ、素敵なお洋服」アポロニアが嘆息する。「お義父さん、やっぱりお祝い事じゃないかしら」
「まあ、そんなところです」
エリーが我が物顔で客間に足を踏み入れてくる。止めるに止められず、ヴィトーは入室を許してしまった。
屋敷に吸血鬼を宿した女が来ることはアポロニアも聞いていたはずだ。だが、目の前のエリーと耳にした話が結びついていないのか、呑気なことばかり口走る。
ベッドのそばに椅子を寄せて、エリーは行儀良く腰を掛けた。
「スプリグリ族のみなさんが宴にお招きくださったですけれども、生憎持ち合わせの服がなくて。イーリャさんが寛大なお心で、ご自分のドレスをお貸しくださったんです」
「まあ、何て羨ましい。私も一度で良いから、そんなお洋服を着て、贅沢なお祝いにお呼ばれしてみたかったわ」
「だったら運が良いですよ」
とっておきの企みを披露するように、エリーが伝えた。
「実は今晩の宴は村ぐるみの盛大な催しになるそうなんです。だから、妊婦の方のお見舞いと言っては何ですが、ご馳走をお運びできないかと考えまして……。これからご希望を伺いに一室ずつ回っていこうかと」
「あらまあ!」アポロニアが目を輝かせる。「そんな、良いのかしら。私たち、ここの出身でもないんですよ。そんな、ご相伴に与かっちゃって」
「勿論です。こういうのは、大勢であればあるほど良いんですから。お加減もありますから、お部屋から出なくても結構です。ただ、このご招待を受けてくださいますか」
「まあ嬉しい! 喜んで!」
離れたところから、ヴィトーは女二人の姦しさの裏を勘繰った。
世間話のためにわざわざ来たとは思えない。脅しに来たに決まっている。
こっそりと、ヴィトーは仕事道具から鋭利なピックを選び、手に忍ばせ、いつでも抜ける体勢を取る。
エリーはアポロニアの大きな腹を、愛おしそうに見下ろした。
「ご予定日は?」
「多分、一週間くらいかしら……」困った顔で、アポロニアは腹を撫でる。「パパが間に合ってくれたら、どんなに幸せかしら」
エリーの微笑みが、アポロニアの瞬きの間だけ引きつった。
「不安はありませんか?」
「ないわ」
少しだけ考えて、アポロニアはきっぱり言った。
「パパはおっちょこちょいだけれど頑張り屋さんで、お義父さんは不器用だけれど実直で。こんな良い所を探してくれて。本当に私は恵まれているわ」
今は言うな。ヴィトーのなけなしの良心が苛まれる。
エリーは目を細めた。
「そうですか。では」
ダンスを誘うように、標的が嫁に手を差し伸べる。
「ささやかですけれど、安産のお祈りをさせてください。額をお貸しくださいますか」
アポロニアは意外そうに目をぱりくりさせ、すぐに笑みを咲かせて快諾した。
「ありがとう。この子もきっと喜ぶわ」
待て。待ってくれ。ヴィトーの声が声にならない。そいつは吸血鬼を飼っている。触れさせてはいけない。
「どうかしました、お義父さん?」
額を許す寸前で、アポロニアは止まった。
振り返るエリーは、アポロニアには見えない角度から、酷薄な無表情で流し目を差し向ける。
黙れ。
エリーの唇の動きは、そう読めた。脅迫する片手間に、アポロニアの髪が無造作に撫でられている。
後生だ。後生だ、神様。今までヴィトーが聞き届けてきた遺言の数々を、ヴィトー自身が唱える立場となるとは。
「……何でもない」
隠し持つピックを、ヴィトーは強く握り締める。
仕切り直し。エリーはアポロニアに冷たく微笑み、その側頭を軽く包み、優しい手つきで顔を寄せて、額に口づけをした。
老いの兆しが表れたアポロニアの相貌に、瑞々しい唇の仄赤さが移ったかのように血の気が通った。
静かな祝福が、額を離れた。額に口紅が残っていた。
「いきなりで驚かせてしまいましたね。ごめんなさい」
「いえいえ」
アポロニアは熱くなった頬を扇いだ。
「私ったら変なの。綺麗だからって女の人にキスしてもらって、顔を熱くしちゃって」
女二人だけが賑やかにした後、アポロニアが料理のリクエストを伝えると、何事もなかったかのようにエリーはアンドリーニ一家の客間を後にした。
扉が閉まった後、たまらずヴィトーはアポロニアに駆け寄った。
「わ、どうしたの。お義父さん」
「お前さん、何ともないか?」
「え、ええ……まだ何とも……嫌だわ、お義父さん。お祈りされたからって、そんなすぐ陣痛なんて」
「そ、うじゃなくてだな。ああ……」もどかしい。「噛まれたりせんかったか?」
「噛む? 額を?」
どうやって? と言いたげな顔でアポロニアが思案する。
「ああ、そう言われたら、歯が当たってたような……」
ヴィトーはくわっと険しい形相を浮かべた。困惑するアポロニアを置いて、仇討ちを決起するかのような勢いで部屋の外に飛び出した。
エリーの姿を探す。まだ階段を降りてもいなかった。追い縋り、肩を掴んで強引に振り向かせる。
「あんた、何のつもりじゃ!?」
胸倉を掴まれ、エリーは吹き抜け廊下の手すり際に追い詰められた。
だが、虚ろな笑みを張りつけた女の底知れない昏さに、ヴィトーは怯む。
「何って、キスをしただけよ? 何をそんなに焦っているのかしら?」
エリーは若い。己の半分ほども弱いを重ねていないであろう小娘に、裏家業で鍛えられたヴィトーが怖気づいている。
己を奮い立たせなければ、ヴィトーは食い下がれなかった。
「しらばっくれおって……良いか、覚えておけ。わしの家族にもしものことがあったら、わしはあんたを……あんたをな!」
「嫌だわ。手出しならもう、そっちが先にしたでしょ。ねえ、おじいちゃん?」
老人の物忘れを指摘するような口ぶりだった。余裕を感じさせる、底知れない血の冷たさ。追い詰めた側のはずのヴィトーが、じりじりと後ずさる。
「お行儀が悪いわよ、おじいちゃん。ほら、みんな驚かせちゃって」
ヴィトーの肩に、エリーの首が乗る。耳をくすぐる声がした。
「お望み通り、生まれるまで待ってあげる。けれども、お母さんと子どもの命が惜しいのなら、わかるわよね?」
エリーを振り払い、魔女から逃れるようにヴィトーは壁に背を預ける。腰が抜け、ずるずると床に腰を沈める。
エリーの見下した目つきが、天井高くに伸び上がって見えた。
(わしは……わしらは一体、何を追わされていた)
ちっぽけな小娘にすぎなかった標的はもはや、それに似た姿の何者かとなって、ゆるやかに手を差し伸べてくる。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
それは、ちっぽけな小娘の顔をしていた。
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