023 祖霊やらい 4/4:何故もっと
悠長に構えていた女が、にわかにつんのめって真剣みを帯びた。血の糸が引かれている。
祖霊が、腕の血液を脚部に集中させていった。肥大化した脚は一本で元のケナガウマ三頭分はあろう筋肉をつけ、力業で一歩前進した。
糸に縛られた腕を全て使い切らずあえて残し、血の糸と繋がることで、女の動きを制限している。
「小賢しい」
糸を引き返された衝撃で女の肩は外れていた。だが、女は顔色一つ変えず、不機嫌に目を据えた。
女の服の下で何かがうごめき、ごきりと肩がはまる。
祖霊がまた一歩。だがまた血の糸に引き負けて、それ以上先に進めなくなった。
女の靴底を破る音を、ライトールは耳にしていた。血の棘がスパイクとなり、地面を捉えた音だ。
女は「お手」を命じた指から新しい糸を紡ぎ、投げ、祖霊の腿のつけ根に絡める。
「お座り」
命令を下すと同時に、糸から無数の牙が生えた。たおやかな指と無骨な脚の間で、牙の糸鋸が高速回転する。
牙が祖霊の擬態を食い破り、血飛沫をまき散らす。関節に切りこみを入れられただけで自重に負け、折れて、あたかも自身が倒した樹木の如く祖霊は転倒した。
祖霊は足掻く。切断された脚を呼び戻しても、切断面を覆う異物――膿んだ血が邪魔で傷と傷が結着しない。
未知の事態へ理解が追いつかず、祖霊は癇癪を起して叫び、のたうった。
「おうおうどうしたどうした。頑張れ頑張れ」へらへらと女が挑発する。「傷口が治らないのが不思議か? 始祖の血を塗ってやったんだ。簡単にはくっつかせねえぞ」
始祖の血は全ての胤族が生む代謝物――原初にして唯一の吸血鬼の血。その組成は赤の他人のものだ。
あらゆる胤族、眷属の命令に従わず、本体を食らう。人を眷属に変える血は、濃縮すれば眷属にとってもまた有毒である。
祖霊は、股と脚の傷口をむしった。
患部の始祖ごと引きはがした血の塊を、炎に投げ入れる。たちまち祖霊の一部と始祖は焼けて、断末魔と悪臭に変わる。
「おお! そうこなくっちゃなあ! さあ、次の芸を披露しろ」
女の惜しみない拍手に、祖霊が吠える。ねじるように脚を結合し、土を抉るばかりに軸足を立て、立ち上がる。
「伏せ」
祖霊の首を前へ、遊脚を後ろへ、血の糸が引っ張った。極端にバランスを崩されて、祖霊は受け身も取れず、顎から倒れて地面に打った。
「……お座りと見分けがつかねえな。おい、いつまで寝てんだ」
祖霊が四つ足をついて起き上がろうとする。首に絡まる糸から牙が生えて高速回転し、斬首される。
「おい、いつまで寝てんだ」
女はにやにやと、露骨に愛想笑いを浮かべて見下した。
首を斬られても、祖霊には息があった。首無しの身体が立ち上がろうとするが、脳の指令が急に途絶えたせいで、ぬかるみに足を取られていた。
「ほう、群体化を半端に覚えた野郎の動きだな。獣のように立とうとすんじゃねえ、みっともねえ。首が斬られた程度で動きを止めるな。転化前の身体構造は忘れて意識を常に五体に分散させろ。そんなだから『寝てんのか』って訊いてんだよ。とっとと接地面を起点に全身を再構成しやがれ愚図が」
歯の根が合わない祖霊の生首を、女が蹴る。蹴られた生首が胴側の断面に命中し、血飛沫が上がる。
祖霊の肉体は蹴りの衝撃で強制的に流動し、女の言う通りに再生した。
祖霊が女に飛びかかる。
女はその懐に潜りこみ、細腕でその巨体を受け止めた。支える。女の矮躯を圧倒する祖霊の巨体が、地面から脚が離れ、浮く。
女の筋肉が膨張し、袖が裂けた。
女の腕を血の繊維が覆っている。元の身体の非力さを補うため、筋繊維を模倣した外付けの器官だ。
女は疑似筋繊維が断裂しようが構わず全力で祖霊を投げ飛ばす。
祖霊は倒木の火に投げ入れられた。弾ける脂、沸騰する血、肉の焦げ臭さが広がって、祖霊は四肢の形を失うほど悶え苦しんだ。
祖霊が弾かれるように火元から離れ、本来接触すれば溶血を起こす水――雪を厭わず、転がり回って火を消した。
その醜態を、女が見下す。
「分裂し、結集し、もっと三次元的に動け。擬態と血液化の相転移はもっと自由に。身体構造を把握し、解釈をこねくり回して、拡張も縮小もものにしろ。殺意に合わせて身体のパーツを再配置しろ。冒涜を犯せ。銀胤反応と群体化の再発見程度で浮かれてんじゃねえ殺すぞ」
焼け爛れた祖霊の血は無数の触手と化し、女に襲いかかる。
女はペンダントを外した。紐を振り回して銀のヘッドを祖霊の血に当て、爆散させる。
「胤族ってのは進化した人類だ。選ばれた人種だ。テメエも血穢たって、始祖の恩寵を力に変えた眷属だろうが。何故もっとできない。何故もっと貪欲に学ばない。何故もっと想像を飛躍させない」
女が、正体を失くした血の塊にまた一歩詰め寄る。
虫の息――血の塊に呼吸というのも奇妙だが、ライトールの目には、祖霊が姿を失ってなお、虫の息になっているかのように見えた。
一酸化炭素――渦巻く黒煙の正体は、煤と毒ガスだ。この毒ガスは、赤血球に結びつきやすい。ここは、毒ガスが充満した火事場である。
爆散で無数の血飛沫に転化し、表面積を増した祖霊は、瞬く間に蝕まれてしまう。
「黒煙で太陽を隠すのを思いついたセンスは認めてやる。だが、遮光に気を取られすぎて不完全燃焼の副産物を無視しちまうのがテメエの限界だ。テメエは世界のメカニズムを一ミリも理解してねえんだよ」
教育的冷酷を湛えた目。
話しながら女は息を止めていた。スカートの下、足元に血のペチコートを垂らし、地表近くにわだかまる新鮮な空気だけを吸っていた。
もはや祖霊と呼ぶにも値しない矮小な血の塊に貶められたそれは、すっかり女の放つ悪意に怯えていた。耳障りな鳴き声を上げて、それが女からあとずさる。
這いつくばって逃げる燃えカスからつかず離れず、女が追う。
「どうしてそんなに惨めなんだ。どうしてそんな有り様で平気なんだ。どうしてそんなザマで得意でいられる。そんなお頭だから真っ昼間から暴れ腐ってんのか。食用種に警戒されんのが頭から抜けてんぞボケ。テメエのせいでオレが動きにくくなっちまったじゃねえか。目障りなんだよ、考えなしのガキが。ここはオレの庭だ。オレの牧場だ。オレの血を横取りする奴は、誰であろうとぶっ殺してやる」
一方的で、凄惨な処刑遊び。ライトールは呼吸も忘れて、目の前で繰り広げられる悪夢に魅入られていた。
強大な祖霊を相手にして、あの血生臭い女はまるで赤子や雛を嬲るように虐待を愉しんでいる。
祖霊は追い詰められるにつれて動きが雑に、やぶれかぶれとなっていく。
その無様が女の不興を買い、ますます手酷い教鞭を打たれていく。
(俺は、助からん)
そう直感させたのは、昼前にあの女を突き飛ばした罪悪感だ。
あのとき跳ねた泥のツケが今、血飛沫となって返ろうとしている。
児戯にかまける片手間に、女はライトールに色目を遣った。
「何故貴様のような者がここにいる、だったな」
ライトールは思わず、それまで敵対していたはずの祖霊に、その女の口を塞げと内心で祈った。
「無学な者に恥をかかせるため世の知恵ある者が選ばれ、無力な者に恥をかかせるため世の力ある者が選ばれた。つまり――」
ライトールの祈りが届いた――訳ではない。ただ、女の注意が逸れた隙に、息を吹き返した祖霊が全身を費やして血の槍と化した。
女は目もくれず、祖霊の乾坤一擲を裏拳で退けてしまった。
「――オレが強えからだよ」
裂帛の邪気に中てられて、祖霊はおろか、ライトールさえも腰を浮かして後ずさる。
そのとき、ライトールの背後に水の気配がした。
滝のような水が空から降ってくる。ライトールの背後を塞いでいた火の壁が一息に鎮火し、突沸する水がけたたましく熱い蒸気の突風を吹かせた。
ライトールは振り向き、腕で蒸気から目を守った。
「ライトール! こちらです!」
蒸気の向こうから、村長の娘イーリャが呼んでいる。
祖霊が切り倒したシラカバ、その新鮮な切り株の数々から水が湧いている。
シラカバは春先に猛烈な勢いで水を吸い、樹液が豊富になる。シラカバに負荷をかけるため露術での採水は厳禁だが、もう切り倒されてしまった後だ。
イーリャが露術を行使するのに、何の気後れもなかった。無数の切り株、倒木を水源とし、消火剤に充てたのだ。
ライトールは一も二もなく蒸気の立ちこめる中へ身を投じる。イーリャの声がした方向へ一直線に駆けようとした。
足首が鈍く痛んだ。棍棒を受けたときに足を挫いたらしく、足を庇いながらぎこちなく逃げる。
巻かれた尻尾を、アルフレッドが見送った。
「世話が焼ける……」
少し脅さなければ、ライトールは逃げ遅れそうな面構えだった。弱い生き物を庇いながら遊ぶのは窮屈でいけない。
(さて、ちゃんと相手をしてやるか)
アルフレッドが形だけ身構える。
「……おん?」
だが、少し目を離している間に、祖霊の抵抗が止んでいた。
銀胤反応を再発見した地力に反して拍子抜けなほど弱かったせいで、気づくのが遅れてしまった。
消火音とイーリャの声に気づいたのは、何もライトールだけではない。祖霊もまた、暴君のような女に背を向けて、ライトールを追ったのだ。
祖霊は血を消耗しすぎていた。女とはもう戦えない。天地がひっくり返っても勝てないと痛感させられた。
だが、逃げ延びるための血も足りない。
貴重な供給源が逃げる。追わなければ。追えばもっと血が吸える。知らない声が聞こえたのだから。
「霧は水――」
やはり、蒸気の向こうに人影が揺らいでいる。
全部吸う。吸って逃げる。吸いながら逃げる。
一心不乱に蒸気の白さを切り抜けた先には、シャボンのレンズが重なって、祖霊を覗いていた。
レンズを覗く女――イーリャは触媒を前に掲げ、水を練り、渦巻く氷の弾丸を祖霊に向ける。
シャボンのレンズはスコープであった。
「氷は水――」諭すような口調で、イーリャが独り言つ。
祖霊の本能が告げる。この女も、あの暴君ほどではないが危険だ。
咄嗟に祖霊は鎮火した倒木に触手を伸ばす。あの宙に浮く妙な氷を撃ち落とさなければまずい。
だが、鎮火したはずの倒木に触れるか触れないかで触手が焼け、反射的に引っこませてしまう。
ライトールの投げた古銭が触手に命中していた。
「めでたし、聖マトゥリ!」
イーリャの詠唱を合図とし、ライトールが前に跳んで地面に伏せる。ライトールと交差させるように、イーリャは渦巻く弾丸を射出する。
祖霊に着弾すると同時に「昇華!」と唱えると、氷の弾丸はけたたましく蒸気を上げた。
「――氷は霧」
氷は祖霊の内側で膨張し、断末魔と共にその肉体を四散させる。
霧は水、氷は水、したがって氷は霧――水蒸気が飛び散った血に群がり、溶かしていく。
無数の細い悲鳴を上げて、一柱の祖霊が消えていく。
やがて、雪原の火は勢いを失い、ひっそりと静まっていった。
片手にも満たない血の塊だけが残っていた。
祖霊の成れの果ては、仔ウマよりも儚く鳴き、眠る仔トナカイを目指して這う。もはや、独力で襲えるのは、この弱い生き物しかいない。
健気に這う祖霊の前に、巨大な足が立ちはだかる。
それは祖霊を散々もてあそんだ、あの恐ろしい暴君の足だった。
遥か高みに仰ぎ見た顔は、もはや何の感情も浮かべてはいない。爆散した死体から銀の矢を引き抜いていた。
祖霊は「お手」を思い出す。
なけなしの血液を擬態に回し、半透明で血管の浮いた未熟な蹄を、重たそうに持ち上げる。
甘えるように鳴き、女の憐れみを買おうと、震える前脚で指を催促する。
「……延命してやっても良い、っつったよな」
女はしゃがんで、人差し指を垂らす。祖霊は跳んで触れようと躍起になった。
蹄と触れるか触れないかの高さで、人差し指は拳の中に畳まれた。
いくら祖霊が叫ぼうが、追い縋ろうが、届かぬ高みに中指がそびえ立つ。
「余生を楽しめたか?」
邪悪な高笑いに看取られながら、祖霊は最後まで慈悲を乞う。
女はその頭上へ、矢を落とした。
地面に縫われ、祖霊が燃える。何故もっと下げてくれないのか訴える内に衰弱し、立てた指の違いも、その意味するところも理解できないまま、やがて動かなくなった。
火が矢羽根へ燃え移る。送り火は瞬く間に消え、細い煙が空へ昇った。矢は墓標にもならず、燃え尽きてしまった。




