023 何故もっと
にわかに女の手が糸に引かれ、つんのめった。
祖霊が腕に回していた血液を脚部に集中させた。一本で元のケナガウマ三頭分はあろう筋肉量で、強引に前進する。糸に縛られた腕をあえて残し、女の動きを制限している。
「小賢しい」
女の肩は外れていた。だが、服の下で何かがうごめき、肩が戻る。
祖霊がまた一歩。だがまた、それより先に進めなくなった。ライトールは女の足元から、靴底を破る音を耳にしていた。血の棘がスパイクとなり、地面を捉えた音だった。
女は「お手」を命じた優雅な指から糸を飛ばし、祖霊の腿のつけ根に絡める。
「お座り」
瞬時に、糸から無数の牙が生える。たおやかな指と無骨な脚の間で、牙の糸鋸が高速回転する。牙は祖霊の擬態を突破し、血飛沫をまき散らす。関節が自重に負けて均衡を失い、あたかも自身が倒した樹木の如く祖霊は転倒。脚を断たせたのは女ではない。祖霊の自重だった。
祖霊は足掻く。脚が繋がらない。分離した肉体をいくら呼び戻しても、傷と傷が結着しない。むしろ脚は断面に触れたくても触れられず、焼石のように扱っている。
祖霊は癇癪を起して叫び、のたうった。
「股の断面に始祖の血を塗った。赤の他人だ。簡単にはくっつかねえぞ」
へらへらと女が語る。「さあ、次の芸を披露しろ」
始祖の血は全ての胤族が生む代謝物――原初にして唯一の吸血鬼の血だ。胤族が生きる限り増え続け、瀉血しなければいずれ本人の自我を蝕む病毒。人を眷属に変える血にして、眷属相手にもまた毒である。
祖霊は、股関節の傷をむしった。患部の始祖ごと引きはがし、火炎に投げ入れた。たちまち祖霊の一部と始祖は焼け、断末魔を残して悪臭に変わる。
脚を結合し、軸足を立て、立ち上がる。
「伏せ」
祖霊の首を前へ、遊脚を後ろへ、血の糸が引く。極端にバランスを崩した祖霊が受け身もできず前のめりに倒れ、顎を地に打つ。
「……お座りと見分けがつかねえな。おい、いつまで寝てんだ」
祖霊が四つ足をついて起き上がろうとする。首に絡む糸が牙を生やし、切断される。息はあった。だが、脳の指令が途絶えたことで肉体は脱力した。
「獣のように立とうとすんじゃねえ、みっともねえ。転化前の身体のことは忘れろ。首が斬られた程度で動きを止めるな。意識を常に分散させろ。おい、いつまでぼさっとしてんだ。とっとと接地面を起点に全身を再構成しやがれ愚図が」
歯の根が合わずに震える祖霊の生首を、女が蹴る。蹴られた生首が胴側の断面に命中し、血飛沫が上がる。祖霊の肉体は蹴りの衝撃で強制的に流動し、女の言う通りに祖霊は再生した。
飛びかかる祖霊。女が懐に潜りこみ、細腕でその巨体を受け止める。
筋肉の膨張で女の袖が裂けた。
女の腕を血の繊維が覆っている。筋繊維を模倣した外付けの器官は元の非力さを補って余りあり、繊維が断裂しようがお構いなしに、全力で祖霊を投げ飛ばす。
祖霊は倒木の火に身を投げ、四肢の形を失うほど悶え苦しむ。弾かれるように火元から離れ、本来溶血を起こす水――雪との接触を厭わず、転がり回って火を消した。
「分裂し、結集し、もっと三次元的に動け。擬態と血液化の相転移はもっと自在に。身体構造を把握し、解釈こねくり回して、拡張も縮小もものにしろ。殺意に合わせて身体を再配置しろ、冒涜を犯せ。銀触媒反応の再発見程度で浮かれてんじゃねえ殺すぞ」
焼け爛れた祖霊の血は無数の触手と化し、女に襲いかかる。
女はペンダントを脱ぐ。紐を振り回して銀のヘッドで祖霊の血を爆散させる。
「胤族ってのは進化した人類だ。選ばれた人類だ。テメエも血穢たって、始祖の恩寵を受けた眷属だろうが。何故もっとできない。何故もっと貪欲に学ばない。何故もっと想像を飛躍させない」
女が、もはや正体を失くした血の塊に一歩、詰め寄る。
黒煙渦巻く火事場では一酸化炭素が充満している。赤血球に結びつきやすい毒ガスだ。爆散で血液化し表面積を増した祖霊では、瞬く間に蝕まれてしまう。
「黒煙で太陽を隠すのを思いついたセンスは認めてやる。だが、遮光に気を取られすぎて不完全燃焼の副産物を無視しちまうのがテメエの限界だ」
血の塊は怯えて耳障りに鳴き、女からあとずさった。
教育的冷酷を湛えた目で、女は見下す。女は口で息をしていない。スカートの下、足元に血のペチコートを垂らし、地面に残る新鮮な空気を吸っている。
「どうしてそんなに惨めなんだ。どうしてそんな有り様で平気なんだ。どうしてそんなザマで得意でいられる。そんなお頭だから、真っ昼間から暴れ腐って、食用種に警戒されんだよ。オレが動きにくくなっちまったじゃねえか。目障りなんだよ、考えなしのガキが。ここはオレの庭だ。オレの牧場だ。オレの血を横取りする奴は、誰であろうとぶっ殺してやる」
一方的で、凄惨な処刑遊びだった。
ライトールは呼吸も忘れて、目の前で繰り広げられる悪夢に魅入られていた。
強大な祖霊を相手にして、あの血生臭い女はまるで赤子や雛を嬲るように虐待を愉しんでいる。祖霊は追い詰められるにつれて動きが雑に、やぶれかぶれとなっていく。その無様が女の不興を買い、ますます手酷い教鞭を打たれていく。
俺は、助からん。
直感させたのは、昼前にあの女を突き飛ばした記憶か。あのとき跳ねた泥が今、血飛沫の利子となって返ろうとしている。
児戯にかまける片手間に、女はライトールに色目を遣った。
「何故貴様のような者がここにいる、だったな」
慄然とする。思わず、敵なる祖霊に、その女の口を塞げと内心で祈った。
だが、女は目もくれず、祖霊を一撃で退ける。
「無学な者に恥をかかせるため世の知恵ある者が選ばれ、無力な者に恥をかかせるため世の力ある者が選ばれた。オレが強えからだよ!」
裂帛の邪気に中てられて、ライトールの腰が浮いて後ずさる。
ライトールの背後で滝が落ちてきた。突沸する水がけたたましく、背後を塞いでいた火の壁が一息に鎮火し、熱い蒸気の突風がライトールを振り向かせる。
「ライトール! こちらです!」
村長の娘、イーリャが呼ぶ。
祖霊が切り倒したシラカバ、その新鮮な切り株の数々から水が噴出している。シラカバは春先に猛烈な勢いで水を吸い、樹液が豊富になる。シラカバに負荷をかけるため露術での採水は厳禁だが、もう切り倒されてしまった後だ。露術の行使に何の気後れもなかった。
ライトールは一も二もなく、蒸気立ちこめる好機へ、一直線に駆けていく。棍棒を受けたときに足を挫いたらしく、足を庇いながらぎこちなく逃げる。
巻かれた尻尾を、アルフレッドが見送る。
「世話が焼ける……」
少し脅さなければ、ライトールは逃げ遅れそうな面構えだった。
さて、ちゃんと相手をしてやるか。アルフレッドが形だけ身構える。「……おん?」だが、少し目を離している間に、祖霊の抵抗が止んでいたことに今更気づいた。
音と声に気づいたのは、ライトールだけではない。
祖霊もまた、女に背を向けてライトールを追う。血を消耗しすぎた。女とはもう戦えない。戦えないが、逃げきるための血も足りない。貴重な供給源が逃げる。追わなければ。
蒸気の向こうから人の気配もする。全部吸う。吸って逃げる。吸いながら逃げる。
一心不乱に蒸気を抜けた先には、シャボンのレンズが重なっていた。
レンズを除く女――イーリャは、触媒を前に掲げ、水を練り、渦巻く氷の弾丸を祖霊に向ける。シャボンはスコープであった。
咄嗟に祖霊は鎮火した倒木に触手を伸ばす。
だが、ライトールが投げた古銭に触手を焼かれ、叶わなかった。
「めでたし、聖マトゥリ!」
ライトールのぐだぐだなヘッドスライディングに合わせて、イーリャは渦巻く弾丸を射出する。祖霊に着弾すると同時に「昇華!」と唱えると、氷は一気に気化し、祖霊の内側で膨張し、その肉体は四散した。
霧は水――水蒸気が飛び散った血に群がり、溶かしていく。消えゆく一頭が無数の細い悲鳴を上げて、やがて焦土と化した雪原は、ひっそりと静まっていった。
片手にも満たない血の塊だけが残っていた。
祖霊の成れの果ては、仔ウマよりも儚く鳴き、眠る仔トナカイを目指して這う。
もはや、独力で襲えるのは、この弱い命だけだ。
健気に這う祖霊の前に、巨大な足が立ちはだかる。それは祖霊をもてあそんだ恐ろしい女の足。遥か高みに見える顔は、もはや何の感情も浮かべていない。
祖霊は「お手」を思い出す。
なけなしの血液を擬態に回し、半透明で血管の浮いた未熟な蹄を、重たく持ち上げる。甘えるように鳴き、女の憐れみを買おうと、震える前脚で指を催促する。
「……延命してやっても良い、っつったよな」
女はしゃがんで、人差し指を垂らす。祖霊は跳んで触れようと躍起になった。
蹄と触れるか触れないかの高さで、人差し指は拳の中に畳まれた。
いくら祖霊が叫ぼうが、追い縋ろうが、届かぬ高みに中指がそびえ立つ。
「余生を楽しめたか?」
邪悪な高笑いに看取られながら、祖霊は最後まで慈悲を乞う。何故もっと下げてくれないのか訴える内に衰弱し、立てた指の違いも理解できないまま、やがて動かなくなった。
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