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無原罪御宿の吸血鬼 ヴァンパイア・イン・イマキュレート・コンセプション 悪女と呼ばれた記憶喪失の女は、凶悪吸血鬼の血を宿して新生する  作者: ごっこまん
1.χαῖρε, κεχαριτωμένη

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007 やっと心からホッとした

 二人きりで良かった。今の褒め殺しを誰かに聞かれたら、恥ずかしくて死んじゃう。


 エリーが真っ赤な顔を隠す一方で、ヘーゼルは思いの丈を伝えられてすっきりした面持ちだ。


「じゃ、おんぶしたげっから。ほれ」


 と、向けられた背中に、エリーは遠慮よりも驚きが勝ってしまった。


 正面からだと正装の神官といった風体のヘーゼルだったが、背面は仙骨まで晒すか晒さないかくらいまで大胆に露出されていた。もはやお馴染みのトラ縞模様もしっかりとある。


「それ、寒くない? 背中」


「あーね、へっちゃら。この辺、外と比べりゃ湧き水のおかげで暖けえし。それにこの方が何かと便利だしな。あのコートだって別に自分にゃ邪魔なくらいで、人に着せるつもりで温めておいただけだし。ほら、早く」


「い、いいよ、悪いよ。暖かいんなら、私も歩くから……」


「つってもよお、外と比べりゃマシってだけで、寒さ冷たさは変わんねえんだぞ。おまけにここら一帯、どこもかしこも水浸しなんだぜ。自分みてえに鍛えてねえと結構体力持ってかれっぞ」


 いやあ、でも。エリーがうじうじ悩んでいると、ヘーゼルの背中がズズイと迫り、


「自分、体力にも自信あんだよね」


 と、自ら五つ目の好印象ポイントを女にアピールしてきた。


「それに身体、結構(あった)かいって、村のガキどもにも評判良いんだな、これが」


 エリーの遠慮が揺らぐ。もたもたしている間も、ヘーゼルの地肌から薄く湯気が昇っているのがわかる。見るからに温かそうで、六つ目の誘惑には抗えなかった。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 近くで見ると、背中の所々が赤く腫れているようだった。


「背中赤いけれど、どこかで打ったの?」


「んん?」


 ヘーゼルに思い当たる節がある。


 エリーを見つけたときのことだ。軽い崖崩れの音がして、瓦礫が直撃すると直感したヘーゼルは、気絶するエリーの盾になった。


 案の定、いくらかキツいのが落ちてきた。


「な、何ダロー。ワカンネー」


 だが、ヘーゼルは頑丈だった。


 瓦礫が当たった瞬間こそ痛打だったが、風化した脆い石塊(いしくれ)にすぎない。大体、厚手のコートが鎧となって衝撃を和らげてくれていた。


 今は騒ぐほどの痛痒も感じず、説明も面倒だったのでとぼけることにした。


 どう聞いても何か隠している口調だったけれど、本人が平気そうなのでエリーも気にしないことにした。


 エリーはヘーゼルの首に腕を絡めて、その背中に密着する。ほんの少し、ヘーゼルの痛みがぶり返す。


 滑らか、柔らか、さらりとした汗でしっとりと貼りつく肌の下に、逞しさも宿している。その上評判と豪語するだけあって、溜め息が出る温もりだ。打撲の炎症が余計に温かい。


 それに、大型犬じみているとは感じたが、彼女の香りまで大勢のイヌと暮らしている人のもののようだった。


 身を寄せ合うイヌの群の真ん中にエリーがいるイメージが、ダメ押しで温もりを彩るよう。


「ありゃ。へへ。エリー、ひんやりして気持ちい」


 エリーを背負って、ヘーゼルは軽々と立ち上がる。ホッとする背中の広さと体温、それに、おぶさって伝わる、自分とは違う他人の揺らぎ。


 うつらうつら、目蓋が重くなる。


「何だが眠たくなってきた」あくびが漏れた。


「早えーよ。赤ちゃんかよ。寝たらガチで死ぬぞ」


「はっ」いけないいけない。エリーは頭から眠気を振り落とす。何か眠気覚ましになることを……。


 そうだ、歌っていれば頭が冴えるはず。


 一度決めてしまうと、自然とメロディが口をついた。どこで覚えたかもわからない曲。しかし、少し悲しげで、慈しみ深く、心地良い旋律で……。


 唄が呂律ほろほろ、ほつれていく。


「いやそれ子守唄じゃね!? やめろよ、余計眠くなっぞ!」


 ヘーゼルにぴしゃりと叱られた。「しゃーねえなあ……大人でもいけっかな?」


 ザブザブとその場で跳ぶ。背負い直すにしては結構跳ぶなと、エリーがうとうと思ったときだった。


「うっし。しっかり掴まってろよ」


「え」とさえ挟む間もなかった。


 ヘーゼルが膝を曲げたかと思うと、力を溜めて全力でジャンプした。水柱を上げ、エリーに悲鳴さえ残させず、あっと言う間に廃聖堂の屋根を超える。


 霧を切る風に、眠気など吹き飛ばされた。ヘーゼルの首にしっかり腕を回さなければ振り落とされる。落ちる。怖い。エリーの絶叫を、ヘーゼルの「ィヒャッホーゥ!」と陽気な掛け声が上塗りする。


 身体が、ふわ、としたのも束の間。


「え、え、嫌だ! 嫌――!」


 死にもの狂いの絶叫が落ちていく。今度は逆方向から風を感じるのに、また逆風だ。錯乱したエリーが、ヘーゼルの首を絞めるほど抱きつく。


 落ちる。崖。死――。僅かに残った記憶の大部分を占める心の傷が、容赦なく抉られた。いきなり霧が分かれて、水面が見えた。


 着水の水柱も、廃聖堂の屋根を超えた。


 水飛沫を浴びて「ひゃー、気ん持ち良いー」とか一人だけ満足するバカの両頬を、びしょ濡れで涙も紛れたエリーは思い切り挟んで潰した。


「にっ、二度とっ! 二度としないで! おねおねおおお願いだからあ!」ドッドと心臓が苦情を訴えて、胸をドンドン叩いている。


ぐぉ()ぐぉぶぇごほ(ごめんなさい)……」


 目覚ましが覿面(てきめん)に効きすぎたので、落ち着くまで一休みしてから出発した。


 退屈しのぎに、ヘーゼルがここに来た経緯を話してくれた。


 アルデンスとエレクトラと名乗る二人。姉のスペイを助けてくれた礼に、義兄がこっそり崖へ通したこと。


 目が覚める話題もちゃんとある。


「え、じゃあヘーゼル、おばさんになるってこと? へえー」


「いーや! 絶対ぇ姉ちゃんって呼ばすからな! 何だよ、にやにやすんなよ!」


「いやあ、つい、素のヘーゼルなんだな、って思うと」


「ンなこた今は良いんだよ!」


 話を戻す。


 それから、連絡を受けて、大慌てで様子を見に来たこと。


 何か思い出せそうか。そう問うヘーゼルに、エリーは申し訳なく、首を横に振る。


「そっか。その、自分が言うことじゃねえ気がすっけど、慌てるこたねえよ。何なら、思い出せるまで面倒見るからさ。姉ちゃん夫婦も……今はバタバタしてっけど、歓迎してくれっと思うし」


 身体でエリーを背負っているだけではない。ヘーゼルは心の荷物も分かち合ってくれようとしてくれる。背中にもう少しだけ、体重を預ける。無意識に、さり気なく頬擦りもして。


「ありがとう。その気持ちが嬉しい」


 廃教会を出て、二人は霧と浅瀬に沈んだ廃墟街を行く。立ち枯れた樹木。澄んだ水面ギリギリまで繁茂する水草の蔓を、ヘーゼルは滑るような足取りで、足の甲で切りながら進んでいった。


「ねえ、ヘーゼル」エリーが聞く。「ここって、本当にどういう場所なの?」


「護律協会の禁域」


 ごりつきょーかいのきんいき。さっぱりわからない。


「うーん、大雑把にしか説明できねえんだけど――」


 むかし、ここは豊かな森と平原の広がる伯爵領だった。それなりに栄えていた領地だったらしいが、何代目かに跡を継いだ領主は“教授”とあだ名される変人で、露術(アンスロ)吸血鬼(ヴァンパイア)の研究に没頭していたという。


「吸血鬼……」


 エリーは更に強くヘーゼルを抱き締める。にわかに血が騒ぐようだった。


 多くの記憶が欠落している中で、吸血鬼が実在することは知っていた。だからこそ、今、自分たちがいる場所の様相が静かに豹変したように錯覚する。


 朽ちた街並みに目を向ければ、かつての生活の残滓が見え隠れする。


 朽ちた壁の向こう側はダイニングだろうか、テーブルに器や枯草の一輪挿しが残されている。


 路地裏に打ち捨てられた棒木馬は、きっとこの街の男の子たちの良い遊び相手だったのだろう。


 在りし日の光景を想像すると、その想像図の裏に怪物の影が潜んでいる気がして、エリーは臆病風に吹かれてしまった。


「あ、すまねえ。ビビらせちまったか?」ヘーゼルはからりと笑いのけた。「大丈夫だって。もし奴らが潜んでたって、こんだけ水浸しだったら迂闊に襲って来れやしねえよ」


「そう、なの?」吸血鬼と水。さっぱり結びつかない。


「おう。護律協会だって露術(アンスロ)の使い手ばっかだろ?」


「あんすろ……?」


「見せてやれりゃあ一発なんだけどなあ。自分、できねえから」切なさが垣間見えた。「でもま、自分にゃこの腕っぷしがあっからな! 万が一襲われたって、自分がガツンとぶちのめすから安心しなよ!」


 気休めでもそう断言するヘーゼルが、エリーには心強い。


 心強いのだが【呆れた大言壮語だ。憐れ過ぎて、いっそ滑稽だな。ぶち殺してやろうか】。ふふっ、ふふふ……。肩を揺らして涙が出るほど、エリーの腹の底から笑いがこみ上げる。中々笑いが止まらない。


「そんなにおかしいこと言ったっけ」と困惑するヘーゼル。


「ううん」エリーは首を横に振る。「おかしくない。おかしくないと思うんだけど……うふふっ」


「あー! さては、勝てるかどうか疑ってんだろ!」


「違うの。ふふ、何て言うか【やっと心からホッとした】気がして。あはは……何、何だこれ、ふふっふ」


 エリーの笑いがうなじをくすぐって、しかめっ面のヘーゼルもまた見守る者の笑みに変わった。

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