005 絆の芽生え 5/6:やっと心からホッとした
エリーが落ち着いたので、今度こそ出発する。
退屈しのぎに、ヘーゼルがここに来た経緯を話してくれた。
†
崖道の麓にある古びた教会。それを改造した関門、その詰所でのことだった。
ヘーゼルは詰所をせわしなくうろついていた。
ヘーゼルの耳がピクッと動く。まただ。渓谷の方から異音が聞こえる。顔だけ音の方角に向ける。
最初は何かが転がり落ちる鈍い音。これは落石か。
今度は鏨にハンマーを当てて採石するような甲高い音。こっちは、村の誰かが電話線の点検でもしているのか。
(んな予定あったっけか。……あ、いや、また連絡聞き流しちまったか? それともド忘れか?)
ここ数日、ヘーゼルは度々上の空になっていた。
何しろ、大好きな姉の臨月ど真ん中。こうしている間に生まれていてもおかしくない。
ヘーゼルは、村とは名ばかりの開拓地に住んでいる。
人員、物資、計画には遊びが乏しい。親族の出産とはいえ、私情を優先する余裕はあまりなかった。
よりにもよってそんな大事な期間に夜番が回ってくるとは。
家族全員で一大イベントに臨みたかった。生まれる瞬間を逃すと決まった訳ではないが、どうしても気持ちが浮ついてしまう。
だからといって仕事をおろそかにするほど幼くはないつもりだったが、発散のあてもない不満は募る一方。詰所をうろつく足運びが乱暴になっていた。
今となっては電話の前に陣取って、甥っ子か姪っ子かの誕生報告を待っていなければやっていけない。
そんな折に、崖の方から異音が聞こえた。
あそこは村に通じる直通回線が通っている。電話線が切れるかどうかしたら、ヘーゼルもキレてしまいそうだ。
電話が鳴った。呼び鈴一打で受話器をもぎる。その日の物憂さを綺麗さっぱりチャラにしてくれる響きだった。
「生まれた!?」
開口一番、誰何を飛ばして送話器にかぶりつく。
「男の子? 女の子?」
わくわくを隠せないヘーゼルの声量に電話口の人物はたじろいだ。
電話相手は咳払い一つで持ち直し、苦笑交じりに『ロバートだ』と名乗る。姉婿だ。
『その声はヘーゼルだな? まだ生まれていないぞ。陣痛は来たが、どうも本番のやつとは違うらしい』
いよいよか。心が逸る。
「義兄さん? な、な、今日、生まれそう?」
『さあな。今日かもしれないし、一週間後かもしれない』
ヘーゼルは途端に冷めた。何だこの姉婿。煽ってんのか。
「そスか。じゃ」と電話を切ろうとする。
『待て待て、おい! まだ切るな! もしもし!?』
切る寸前で、渋々受話器を耳に戻す。
「何スか」
『ああ良かった……ヘーゼル、ソーマ護律官は?』
ヘーゼルは背後をチラ見する。
そこそこ立派な祭服を着て、仰々しい仮面を着けた不審な女がご機嫌でいた。
ソーマ護律官はデキャンタだらけの机に突っ伏し、目を回しながら杯を傾けている。
チラッとでも、見るに堪えない。それに離れていても酒臭さが漂ってくる。
ヘーゼルはうんざりした。
「しこたま飲んで、くだ巻いてる」
電話を待つ間ずっと、ヘーゼルはこの飲んだくれ、もとい護律官ミキ・ソーマの絡み酒に悩まされていた。
「そーんなすぐ生まれる訳ないよ~」
とか、
「心配したってお産は早まんないよ~」
とか、あろうことかミキときたらヘーゼルの気が気でない様子を肴に飲んでいたのである。
それも、ヘーゼルの気持ちをちゃんと理解した上でだ。性質が悪い。
ゲラゲラと笑い物にしながら飲む酒は、さぞ美味かったことだろう。
「そんなカリカリしてると、赤ちゃんが生まれる前におばさんになっちゃうよ~?」
なんてからかわれたときには、さすがのヘーゼルも額に青筋を浮かべた。
「いーや絶対姉ちゃんって呼ばすんで!」
立場の差なんざ知るかとばかりに怒鳴ってやった。
なのに、この酔いどれは懲りるどころかヘーゼルの反応を待ってましたとばかりに、やんややんやと囃してはまた爆笑する。
思うつぼだ。思い出すとまた鬱陶しい。ヘーゼルは歯ぎしりした。
『ヘーゼル?』
ロバートに呼ばれて、ヘーゼルは気を取り直した。
「何でもねッス。で、義兄さん、若隠居に何か用スか?」
背後で酔っ払いが「店仕舞いれーしゅ」と陽気に叫ぶ。
禁域に誰も通さないよう夜通し見張るのが詰所での仕事である。完全に職務放棄だ。
だが、いちいち口うるさく指摘しても聞く耳を持たないアホなので、真面目に相手をするだけ損だ。
ロバートも半笑いで『違う』と否定した。
『ヘーゼル、ソーマ護律官に勘付かれないように聞いてくれ』
ただならない雰囲気で語る義兄に、ヘーゼルは耳をそばだてる。
『訳あって、よそ者二人を崖道に通した』
ヘーゼルは声もなくわなないた。
『ソーマ護律官にバレないよう、禁域を抜けるのに手を貸してやってくれ』
「は!? ちょ、何やって……!?」
『おい、声を抑えろ!』
空いた手で咄嗟に口を塞ぐヘーゼル。声が大きすぎた。
こっそりと、酔っ払いの方へ振り向く。
すぐそばで、ミキが仁王立ちしていた。
雲と雷雨を模した銀仮面が、いつの間にか額を突き合わせる距離に迫っている。
ランプの光を背負ったミキの影が、ヘーゼルに重く落ちる。
ヘーゼルはミキよりずっと背が高い。
だが、ヘーゼルは今、壁掛け電話にかぶりつくために前かがみになっていた。
馬上の人以外から見下ろされるのは久し振りで、気圧される。
表情が読めない。
ヘーゼルは生唾を呑む。
「おしっこ行くの!」
酔っ払いは朗らかに宣誓して詰所を後にした。千鳥足でドア枠に肩をぶつけていた。
(助かったあ……)
ヘーゼルは深いため息をついた。そのまま、焦る心を抑え、早口で受話器に囁く。
「村の奴らならまだしも、何勝手な真似してんスか。そこ、ガッツリ立ち入り禁止ってわかってるッスよね。言い訳なら聞くッスけど」
『ああ、もちろん説明する』
受話器を耳に当て直して「ふーん。で? 早く」とヘーゼルが先を促す。
『スペイに陣痛が来たとき、助産師は出払ってた。初産で、俺たち夫婦の知識は浅い。パニックになりかけていた俺たちを助けてくれたのが、さっき言った通りすがりのよそ者二人だったんだ』
事情が変わった。
「大恩人さんたちじゃないスか!」
『その大恩人さんたちが、のっぴきならない事情を臭わせて、先を急ぐと言って聞かなかったんだよ。お前、俺の立場で引き止められるか?』
普通なら「引き止める」と答えるべきところだった。
あの崖道の真下には手つかずの廃墟街が広がっている。
護律協会の定める禁域、立ち入り禁止区域だ。
そもそも件の崖道自体、宿直交代の用に間に合わせて掘りっ放しにしたままの道だ。補強も何もない悪路である。
立ち入り禁止云々を抜いても危険。ヘーゼルの身内贔屓や恩などは問題にもならない。
しかし、ヘーゼルは「無理!」と即答した。
規則とか責任とか安全確保とかの複雑に絡む事情をあーだこーだこねくり回すよりも、単純明快な恩返しのルールに従う方が、ヘーゼルの性に合っていた。
『だろう?』
ロバートはしたり声で言った。
『ならせめて、エスコートした方がご安全ってもんだろ』
「でもそれなら」
義兄さんがやりゃ良いじゃん。と口にしかけた台詞を呑む。
劣悪な道とはいえ、地元の者なら内緒で使っている。
急用なら仕方がない。ああそう、気をつけなよ。そんな調子で、身内には甘い監視体制だった。
ロバートも例外ではない。エスコートならお手の物だろう。
しかし、ロバートには今、臨月の妻がいる。ヘーゼルの姉だ。
その姉に、ヘーゼルの代わりに……でもないが、付き添ってくれている。
ロバートが離れる訳にはいかない。
となれば、バーンズ家の私的な恩義のため、タブーに目をつむる以上、ヘーゼル・バーンズにお鉢が回ってくるのは当然の帰結だった。
「貸し一つッスよ」
『助かる。お客人は男女の二人組。名前はアルデンスとエレクトラ・ブラン。女っぽい男と痩せた女だ。今頃崖道だろうから、様子を見』
ブツッ、と通話が途切れる。
「んお。もしもし?」
無音。返事がない。
通話に必要な電力が尽きたのだろう。ヘーゼルは受話器を戻した。
遅れて鏨とハンマーの甲高い音がした。
(まさか今ので電話線切れた……訳ねえよな)
発電が不安定なのも、蓄電が心許ないのも、今に始まったことではない。
特に冬季は水車が使えない。手回し発電、脚漕ぎ発電、あるいは家畜に滑車を走らせる。
村側が気づいてくれない限り、如何ともし難い不具合だ。
そもそも、こんな片田舎に電話回線や蓄電池なんて高級品があること自体、ご立派に過ぎるくらいだった。
肩をすくめて、ヘーゼルはポールハンガーから毛皮のコートをなびかせて、袖を通す。
勢いをつけた拍子に翻った袖が何かを弾き飛ばした。
同じポールに掛けてあった防寒帽だ。
その防寒帽は、妙にゆっくり落ちるように見えた。
何か、とんでもない見落としがあるような気がする。
「……んん?」
そうだ、電話がかかる前に聞いた、何かが落ちる音。
義兄はよそ者に崖の道を教えた。
今頃崖道を通っているという二人組。
何かが落ちる音は、人が滑落する音だったのではないか。
じゃあ、鏨を打つ音は。
何か固定しようとしている。例えば、ロープを結ぶ金具とか。崖下りに丁度良い具合の。
(……片方落ちて、無事な方が助けに降りようとしてんじゃね?)
ヘーゼルは青ざめて、かすれた引き入れ声で絶句した。
偶然、便所のミキが嘔吐する声が重なり、耳が腐るような不協和音が響く。
(ヤバい)
準備を急ぐ。その間、ヘーゼルは心の中で何度もそう呟いた。
旅人のどっちかが雪庇を踏み抜いたのかもしれない。
詰所に来る途中で雪庇を見かけた覚えはない。
だが、何しろヘーゼルは上の空だったし、通い慣れた道だから雪庇を意識したこともない。
だが、よそ者なら別だ。よそ者に雪庇と道の見分けがつかなくても、おかしくはない。
ポールハンガーから更にショルダーバッグをひったくった。
ローチェストの引き出しを片っ端から開け放ち、見つけた救急箱をバッグに詰める。
開け方が乱暴だったおかげで、小瓶が引き出しの奥の方から転がって現れた。
滑らかな琥珀色が瓶の中で揺らめいている。度数も値段も高そうな蒸留酒入りの小瓶だ。
当然それも失敬した。消毒になら使えるだろう。
窓の木戸を少し上げる。雪を押し退ける感触。開いた隙間から夜の冷気が忍び寄った。
暗闇の中で、雪の白さが窓明かりの形に浮かんでいる。
吊り台からランプをぶんどる。
手計だが、油の残量は充分だ。
部屋の照明から火を移す。
詰所を出たがる足を引き返させて、急ぎ足でヘーゼルは便所に寄り、ノックする。
「崖の見回り行くんで! じゃ!」
ほとんどチェックポイントを素通りする足取りで、ヘーゼルは颯爽と駆けて行った。
「ボエ……おねが……待っ……背中、背中さすって、ちょ、ヘーゼル……ヘーゼ、ルしゃ……ん、ぉろろ」
酒飲みの見る悪夢が具現する便所から、助けを求める独り言が吐き捨てられていた。助ける者は誰もいない。
ヘーゼルは走りながら行動指針を立てる。
崖上の方は無事。仲間の救助を試みているかもしれない。
命綱を用意しているのか。周到だ。ならこの際、冷静に事を進めていると信じてしまおう。
すると、怪我人――落ちた方の救助が最優先。
一刻一秒を争うのは、谷底の廃墟街方面だ。
獣のように姿勢を低くし、ヘーゼルは更に速く走った。ランプの残光が夜に尾を引いた。
†
エリーは十中八九、エレクトラだろう。
だが、禁域には事前に聞いた以上の人数が侵入している。
助けた女性がもしも別人だった場合、エレクトラが二人になってしまう。
かと言って、エリーがエレクトラ本人だった場合、かけ離れた呼び名をつけるのも格好がつかない。
それでヘーゼルは咄嗟にエリーを「エリー」と呼ぶことにしたのだった。
「本音を言やあ、詰所に一旦連れてってやった方が良いんだけどよ」
ヘーゼルは申し訳なさそうに言った。
しかし、義兄ロバートからは、誰にもバレないようによそ者を通すように言い含められている。
村から禁域を抜けた先、かつ安全な場所となると、あの酔いどれミキがいる詰所しかない。
そこに移したら、どうしたって規則違反がバレてしまう。
あの酔いどれは質の悪いことに、どれだけ酔い潰れたとしても全部覚えているタイプなのだ。
身の安全に代えられないのはわかっている。だが、それはそれで後が良くない。
捜索が終わるまで酒臭い詰所の中であの酔いどれに軟禁されてしまうのだ。
さすがにそれはエリーが可哀そうだ。
「ああ、ブタ箱ってそういう……」エリーは納得した。
ヘーゼルは一人の村人として、エリーを第一に考えてくれたのだ。
エリーの身に覚えのない恩返しという点で、気が引けるけれども。
それよりも聞き捨てならないことが一つ。
「ていうかヘーゼルって、おばさんになるの? へえー」
「いーや! 絶対ぇ姉ちゃんって呼ばすからな! 何だよ、にやにやすんなよ!」
「いやあ、つい、素のヘーゼルなんだな、って思うと」
「ンなこた今は良いんだよ! ……ほら、今ので何か思い出せそうか?」
そう問うヘーゼルに、エリーは胸が苦しくなって、首を横に振った。
エレクトラ、そしてアルデンス。それが自分たちの名前だと言われてもピンとこない。
「そっか」
ヘーゼルはへにゃりと笑った。
「その、自分が言うことじゃねえ気がすっけど、慌てるこたねえよ。何なら、思い出せるまで面倒見るからさ。姉ちゃん夫婦も……今はバタバタしてっけど、歓迎してくれっと思うし。禁域に入っちまったことも、謝ったらみんな許してくれるって」
ヘーゼルはエリーを背負っているだけではない。心の重荷も分かち合ってくれようとしてくれる。
背中にもう少しだけ、体重を預ける。無意識に、さり気なく頬擦りもして。
「ありがとう。その気持ちが嬉しい」
廃教会を出て、二人は霧と浅瀬に沈んだ廃墟街を行く。
立ち枯れた樹木。澄んだ水面ギリギリまで水草の蔓が繁茂している。
ヘーゼルは滑るような足取りで、水と水草を足の甲で切りながら進んでいった。
「ねえ、ヘーゼル」エリーが聞く。「ここって、禁域って言ってたけれども、どういう場所なの?」
「禁域は……禁域だよ。護律協会の禁域」
ごりつきょーかいの禁域。さっぱりわからない。
「うーん、大雑把にしか説明できねえんだけど――」
むかし、ここは豊かな森と平原の広がる伯爵領だった。
ただ、その何代目の領主を、“教授”とあだ名される変人が継いでしまったことから妙なことになる。
教授は、露術や吸血鬼の研究に没頭していたのだ。
「吸血鬼……」
多くの記憶が欠落している中で、吸血鬼が実在することは知っていた。
怪力を誇り、変幻自在で、闇夜を支配する怪物。
エリーは更に強くヘーゼルを抱き締める。
にわかに血が騒ぐようだった。
今、自分たちのいる場所が、静かに豹変したような気がする。
朽ちた街並みに目を向ければ、かつての生活の残滓が見え隠れする。
朽ちた壁の向こう側はダイニングだろうか、テーブルに器や枯草の一輪挿しが残されている。
路地裏に打ち捨てられた棒木馬は、きっとこの街の男の子たちの良い遊び相手だったのだろう。
在りし日の光景を想像すると、その想像図の裏に怪物の影が潜んでいる気がしてくる。
「あ、すまねえ。ビビらせちまったか?」
ヘーゼルはからりと笑いのけた。
「大丈夫だって。もし吸血鬼が潜んでたって、こんだけ水浸しだったら迂闊に襲って来れやしねえよ」
「そう、なの?」
吸血鬼と水。さっぱり結びつかない。
「おう。護律協会だって露術の使い手ばっかだろ?」
「あんすろ……?」
教授の話にも出ていたが、聞いたことがあるような、ないような名前だった。
「見せてやれりゃあ一発なんだけどなあ。自分、できねえから」
ヘーゼルの声に切なさが垣間見えた。
「でもま、自分にゃこの腕っぷしがあっからな! 万が一襲われたって、自分がガツンとぶちのめすから安心しなよ!」
気休めでもそう断言するヘーゼルが、エリーには心強い。
心強いのだが【呆れた大言壮語だ。憐れ過ぎて、いっそ滑稽だな。ぶち殺してやろうか】。
「ふふっ、ふふふ……」
肩を揺らして涙が出るほど、エリーの腹の底から笑いがこみ上げる。中々笑いが止まらない。
「そんなにおかしいこと言ったっけ」
困惑するヘーゼル。
「ううん」エリーは首を横に振る。「おかしくない。おかしくないと思うんだけど……うふふっ」
「あー! さては、勝てるかどうか疑ってんだろ!」
「違うの。ふふ、何て言うか【やっと心からホッとした】気がして。あはは……何、何だこれ、ふふっふ」
エリーの笑いがうなじをくすぐって、しかめっ面のヘーゼルもまた見守る者の笑みに変わった。




