018 予測不能、制御不能 5/6:横取りされちゃ迷惑なんだよ
熱にうなされるヘーゼルのために、冷水に浸したタオルを絞る。額に乗せ、温くなったら絞り直す。
エリーとイーリャで手分けして看病し、ヘーゼルの全身の汗を拭いていくと、ヘーゼルの寝息は穏やかになっていった。
タオルの交換の合間に、エリーは枕元の横に置かれた物をチラッと見た。
ナイトチェストの上に銀細工が供えられている。
ウマの意匠を緻密な草花模様で囲って彫ったそれは、狗人の護符だという。
多分、ライトールの物だ。ライトールと出会ったとき、骨細工の間にきらめく物が揺れるのを、エリーは目にしていた。
ライトールがヘーゼルの快気を願って置いて出たのだ。
ライトールからは手酷い歓迎を受けたエリーだけれども、この護符は先の仕打ちにそぐわないほど繊細だ。
ヘーゼルの尖った耳が、ぴくりと動いた。
「ダメです。まだ寝ていませんと」
焦るイーリャの声で、エリーは物思いから引き戻された。
不調を押してヘーゼルが起きようとするのを、やんわりと押し戻そうとしている。
ふらつく額から濡れタオルが落ちた。ヘーゼルは額を重そうに支えて俯いた。吐息もまだ熱っぽい。
「ああ、ヘーゼル良かった、気がついたのね」
エリーもヘーゼルの肩に手を添える。
「ヘーゼル、急に倒れたんだよ。もの凄い熱。まだ休んでなきゃ……」
ヘーゼルは、看病する二人の手に手を重ねる。
「助け……呼ばれた……遠吠え、聞こえ……」
ヘーゼルは意識が朦朧としていた。うわ言は取り留めもなく、熱にうなされたような響きだった。
エリーとイーリャの手を押し返せないほど衰弱しているのか、ヘーゼルなりの手加減なのか、判然としない。
「ライトール……森で、吸血鬼と……」
エリーとイーリャは驚いて、顔を向き合わせた。
ライトールは捕虜の追跡に向かっている。殺し屋一味の潜伏が疑われるミルズの森方面に向かうのは自然だ。今の今まで意識を失っていたヘーゼルが、その行き先を知っているとは思えない。
ライトールが去り際に一声かけていたとしても、今のように現在地まで言い当てられるとは考えにくい。
そして、吸血鬼とも言っていた。
「アルフレッド、あんたまた何かやったの?」エリーが拳を憎い相手に見立てて、叩いて尋ねる。
【違えに決まってんだろバカが。ちったあ頭使え。ここ来たの昼間だぞ。森だか山だか知らねえが、そう簡単に方々手を回せりゃ苦労しねえよ】
「違うなら……」やっぱり、ヘーゼル、悪い夢でも見たの?
ヘーゼルは起きていられなくなり、くずおれるのをエリーは咄嗟に支えて寝かしつける。
けれども、ヘーゼルは「急がねえと……ライトール……」とうわ言を絶やさない。
ヘーゼルが口惜しそうに、エリーの袖を引く。
「猟銃の、悪ガキ……!」
エリーの背筋が凍えた。
兄弟の無邪気な笑顔、歳相応に照れ臭がる様子、たった一瞬の交流が脳裏に溢れる。
そのとき、外で警鐘が鳴った。乱れ打ち、カンカンとでたらめに鳴り響く。
「規定にない点鐘パターンです」
イーリャが窓を開き、屋敷前の広場を見下ろす。
「何事ですか!」
響き渡る声が、広場に集まった者たちの耳目を集める。
「コシノフのご息女か! 火急故非礼を許せ!」
物見櫓に登って鐘を点いていたのは、狗人だった。
櫓の下には気の立った狗人たちが集結し、点鐘を止めようとする村人たちと静かに睨み合っていた。
「お嬢様!」村人から声が上がる。「こいつら勝手に警鐘を!」
「森に煙が上がってんでさ!」
イーリャが地上から顔を上げて森の方に向いた。ミルズの森から、細い白煙が確かに昇っている。
「何てこと……至急消火に……」
イーリャが小声で手順をまとめていく。焦りを抑え、軽はずみな指示を呑む。
「必ず指示は出します! 後になさい! ……スプリグリ族の方々! 客人であるあなた方が当村の警鐘を鳴らすほどの事態とは、いかなるものでしょう!」
「スプリグリが長、バルケティルの息ライトールと息女ラライが祖霊に襲われている! 貴村の者も共にあると遠吠えにあった! 露術使いに救助を願いたい!」
どくん、とエリーの血が胸を打った。
イーリャが更に問う。
「祖霊の数は!」
「一体! 他三体を討ったとも!」
「確認できるだけで四体も……?」
広場の村人たちが騒然とする。イーリャもうろたえる。それでもその声は決然と、朗々と広場に響き渡った。
「私が対処します! お客人方は案内を! 院長先生、エリー様、後をお願いします」
部屋を飛び出すイーリャ。
「キャスパー、ウマを持ちなさい!」
緊迫した声が吹き抜けに響く。
チリ、とエリーの胸元が熱くなった。訳もわからないままエリーも立つ。ヘーゼルの手を握る一方、足は外に出ようとしていた。
足だけが言うことを聞かない。アルフレッドが裏から勝手に動かしている。エリーは抵抗した。
「待って待って! アルフレッド、どうしたのよ!」
【邪魔すんな! オレたちも行くんだよ! 大人しく言うこと聞け!】
「ああもう私が走るから! あんたが勝手すると階段踏み外すわ!」
心底意外そうなアルフレッドだったが、素直に主導権を明け渡した。
エリーはヘーゼルに「任せて」と言い残す。
ヘーゼルは険しい表情をふっと和らげ、気絶するように再び眠りについた。
ベア院長に一礼し、イーリャを追うが、部屋を出てすぐ背中にぶつかった。
「痛っ、すみません」
「いえ……」
よろめくイーリャを咄嗟に支える。イーリャから向こう側が騒がしかった。
「ええい放せ! わしが成敗してくれる!」
今朝顔を合わせた老人が血相を変えて暴れるのを、ロバートが取り押さえている。
体格で遥かに勝るロバートだが、老人も腕に覚えがあるらしく手こずっていた。
老いているにしては体捌きが様になっているおかげで、ロバートは手加減に苦慮しているようだった。
「祖霊だろうが吸血鬼だろうが、このわしが蹴散らしてやる! 銀を寄越せ! 銀を!」
ロバートがこちらに気づいて通路を空けた。顎をしゃくって、構わず行けと暗に伝えてきた。
イーリャの後に続いて階段を降りつつ、アルフレッドに訊く。
「それで、祖霊って何?」
【血穢だ!】
(説明になってないってば!)
「吸血鬼化した動物の総称です」
自分へ訊かれたと勘違いして、イーリャが答える。
「森の中に吸血鬼がいる……ヘーゼルはライトールの危機を正確に察知していました」
「イーリャさんが向かうのはわかります。アルフレッド、どうしてあんたまで」
【真っ昼間から騒ぐ向こう見ずだぞ! 倍々ゲームで食い扶持なんざ、あっと言う間に尽きちまう! 横取りされちゃ迷惑なんだよ!】
「こんなときまで食べ物の心配な訳!?」
「エリー様は屋敷でお待ちください」
振り返らず、イーリャが玄関を跳ね開ける。エリーが食い下がる。
「どうしてですか?」
「教官からの命令です。エリー様のお身体はまだ不安定な時期です。流産の心配がある方を、荒事に巻きこめません」
【いいや、行け!】
血が命じる。
【今朝の体たらくを見たろ! こいつこそ荒事に向いてねえ!】
「だったらせめて、ベア先生も一緒に」
「院長先生は最後の守りです。歯痒いですが、屋敷内の治安も怪しい今、先生を動かす訳には参りません」
【テメエが行け! 後はオレが蹴散らしてやる!】
どうする。内外の声に挟まれたエリーは頭を回転させた。
話は終わったとばかりにイーリャはウマを待つ構えで、村人たちに指示を下していく。
「残る吸血鬼は最低でも一体。私が先行して討伐し、最低限の安全を確保します。討伐後、森狩りを挙行します。吸血鬼を排除しつつ、消火にかかれるように準備を整えなさい。足りない物資は当家より放出いたします……」
村人が慌ただしく行き交う中、血管の中ではアルフレッドが【行け行け】と怒鳴って煩わしい。
(考えろ、考えろ……!)
エリーは煩わしいものを全て意識から遮断し、集中した。考えている間も、イーリャが次々と指示を飛ばして、段取りが手際よく決まっていく。
ライトールの救助なら狗人たちも同伴するはずだ。人手を集めて吸血鬼に対処して良いのか。
アルフレッドは倍々ゲームと言った。駆けつけた仲間が敵に回ると、取り返しがつかなくなる。
あのアルフレッドが助けに行きたがっている。それがこいつにとって得だからなのは充分わかった。
私も、あの兄弟を助けに行きたい。
(利害が一致しているのに何を迷っているの、私)
考えが迷走する。
記憶を失った心細さ。知らない罪を裁かれる理不尽。殺せない世相で殺される恐怖。行動はおろか意思さえままならない身体。護律協会の監視。駆除、処刑へのカウトダウン。
村人の疑念に満ちた視線。
居座り続ける追手たち。
村人たちを信じたいのに疑ってしまう自分自身の弱さ。
エリーを守ってくれたヘーゼルは、無理がたたって倒れてしまった。
イーリャは公平さをこじらせて、目が怖がっているのに死地に赴こうとしている。
エリーを助けるため、谷底に跳んだアルデンスは、勇敢なだけじゃない。死ぬのが怖かったに決まっている。
優しい人たちばかりが我慢している。エリーと、エリーの味方ばかり、執拗に我慢を強いられている。
(ミキさん……こうなるとミキさんにも何かあって欲しい……えーと……あ、禁酒してる!)
†
大くしゃみ。ミキはせっかくの拾い物を落としかけた。
間一髪で持ち直し、ホッと胸を撫で下ろす。
渓谷の崖肌に生えた灌木に、千切れたミサンガが引っかかっていた。
白髪を編んだもので、銀の留め金があしらわれている。何かの紋章も刻まれているようだが、銀が黒ずんでいる上に年季が入っているようで、意匠は定かではない。
磨けば光るだろうか。
ミキは楯を足場にし、水の噴射の力を借りて、崖道へ上る。
ラムシング村へ帰ろう。
†
何でアルフレッドばっかり偉そうなの。
何でそんなやつに、理不尽なんかにばかり従わされなきゃいけないの。
私は悪いことをしたい訳じゃない。人を助けたいとか、自分を守りたいとか、普通のことでしょ。それの何がいけないの。
――常識外れな相手は案外楽ですよ。どんな対策を試しても咎められませんから。
コシノフ邸に到着した際、イーリャにかけられた言葉。それが浮かんだ瞬間、エリーの頭を締める何かが、ふと解けたようだった。
じわりと湯が脳の隅々に染み渡るような開放感。酒を伴わない酩酊に似た浮遊感で、頭の中が澄み渡っていく。
(……そっか。私、嫌ってほど、たくさん我慢してきたんだ)
その閃きはエリーにとっては天啓であり、アルフレッドにとっては計算外の始まりだった。




