013 吸血鬼の安楽椅子推理 4/4:富む者は空腹のまま帰った
この時代に殺人は難しい。
やるからには、標的以外には目もくれず、徹底的に行為そのものを秘匿する必要がある。
理路整然とした解説を聴くほどに、現にエリーの身にふりかかっている災難の理不尽さが浮き彫りとなっていく。
やるせない。
「……そんなに制約があるのに、何でまだ殺し屋なんかが生き残っているんですか」
殺人根絶が切実に謳われているのなら、いっそ時代の流れに埋もれて消えてしまえば良い。
(それか――)
腹いせにエリーが邪なことを考えていると、ベア院長が鼻息を漏らした。
「知りたかないね、人の業の深さなんざ」
ベア院長の忌々しそうな口振りが、全てを物語っているようだった。
一人殺せば簡単に決着がつく事柄などありふれている。
たとえ殺人がどれほどの難業になろうとも、心の陰には常に血塗られた欲望が潜んでいる。
(――殺し屋同士で殺し合って、消えてくれたら良いのに)
現にエリーもこう考えたのだから、人の欲望が潰えることはない。
敵国、商売敵、恋敵、愚弄、侮辱、復讐心、単に虫の居所が悪かっただけ……。
どれだけ根絶に腐心しても、ありとあらゆる状況で、殺人は最後の手段として残り続ける。
「しかし、依然として内通者の問題が残っています。……ですよね」
行き詰った雰囲気を読み、イーリャが歯噛みする。突如、思い浮かんだ可能性に目を見開く。
「いけません! 捕虜をここに置いては……!」
扉がノックされた。
「キャスパーでございます。お嬢様、火急の事態です」
嫌な予感が拭えないまま、イーリャが素早く部屋へキャスパーを招き入れる。
「手短に」
「曲者が牢を破りました」
さしものベア院長さえも顔中のしわを伸ばして驚いた。
「抜かりましたか……!」
イーリャが地団駄を踏む。
捕虜の収容はキャスパーに任されていた。
疑惑渦巻くエリーの目が、キャスパーにも向けられる。
彼なら簡単に捕虜を逃がせたはずだ。
迅速な報告も、主従というポーズを取るためにしか見えなかった。
【富む者は空腹のまま帰った。だが――】
アルフレッドは疑念に振り回されるエリーを観て愉しんでいる。混乱と猜疑心を蔓延させる戯言が、いよいよ真実に迫る力を得た。
血の流れが喜色さざめく。
【――富む者が面目を潰されて、黙ったままな訳ねえだろうが】
「現在、臨時雇いの方々には、水面下で屋敷内の見回りを命じております」
キャスパーだけが冷静だ。
「また、僭越ながらライトール様に曲者の追跡を依頼しました。此度の越権、如何様にでもご処分ください」
遊牧民は一時的にラムシング村に滞在中の異分子である。異なる集団の者との交渉は、村の代表を担うコシノフ家の者の領分だった。
一瞬、イーリャが安堵を浮かべ、すぐさま威厳のある表情へ引き締まる。
「いえ、よくやってくれました。キャスパー」
馬術の申し子で、嗅覚と聴覚に優れた遊牧民、ライトールは追跡に適任だ。キャスパーの判断は、限りなく彼女の意に沿うものだった。
「しかし、これで内通者の手引きに、疑いようがなくなりましたね……」
仮の主人は気苦労を顔から拭って、椅子に背を預けた。一息だけつき、席を立つ。
「バーンズご夫妻、証言くださってありがとうございます。そして、お詫びを言わせてください。奥様のお産を目前にして、本来みなさんの拠り所である屋敷に不穏分子の侵入を許してしまったのは、当家の不徳の致すところです。不在の父に代わって謝罪申し上げます。申し訳ございません」
エリーも慌てて席を立ち、勢いこんで頭を下げた。
「違います。私がみなさんを巻きこんでしまったせいです。ごめんなさい」
「や、やめてくれ!」
ロバートが立って椅子を倒しかけた。
「エレクトラさんがやった訳じゃないだろう! それにお嬢様に頭を下げさせちゃとあっちゃ、お館様に大目玉を食らってしまう!」
「下がらぬ頭は無価値です」
「いや、時と場合と相手を選んでくれって話で……」
「であれば時を改めて。緊急事態につき、これにて失礼いたします。エリー様、それと院長先生は、今しばらくお付き合いくださいませ」
今は心労が心配です。イーリャがさりげなくエリーに耳打ちする。
「ヘーゼルの体調のことは、ご家族に伏せておきます」
エリーは目礼した。
イーリャたちと部屋を去る間際に、エリーはバーンズ夫妻に向き直る。
「心配事を増やしておいて、こんなこと言って良いのかわからないけれど……無事に生まれるように祈っています」
「大丈夫さ」
スペイはロバートの太い首に両腕を巻きつかせる。
「あたしにゃ、あんたと、アルデンスさんと、この人がついてる」
大の男が嬉し恥ずかしで赤面する。
(羨ましいくらい好い夫婦ね)
お見舞いの言葉をかけたエリーが逆に元気をもらえるなんて。
できれば、この人たちを信じたい。
「……またお見舞いに来ます。そのときは、ヘーゼルのお話を聞かせてくれませんか?」
夫婦は気安く約束を交わしてくれた。
イーリャ、キャスパー、ベア院長を含めた四人が場所を移す。
「ヘーゼルの部屋へ」
イーリャに従い、キャスパーがベア院長の手を取って、急がず案内する。
「脱走した曲者が、内通者にどこまで話したかわかりません。ヘーゼルは彼らの恨みを買うだけのことをしている上に今は無防備です。修律院行きの予定は変更です。見張りも兼ねて看病に参りましょう」
ヘーゼルを一番に考えるイーリャも、エリーは信じたい。
何より、厳しくもエリーを対等に扱ってくれた人は、イーリャが初めてなのだ。
(うーん……私、いくらなんでも芯がなさすぎ。自分が情けない)
周りの一挙手一投足、一言一句全部にいちいち怯えて、人を疑ったり信用したり……。もううんざりだ。
(記憶と一緒に人を見る目も忘れたんじゃないかしら)
殺される心配以前に、このままでは誰も彼も疑りすぎて心が持たない。
内通者がいれば、動かぬ証拠が必ずある。それが露呈するまで、深く考えるのはやめよう。ここは一旦そう割り切ってしまうことにする。
エリーは二階から吹き抜けの下に目を光らせた。
忙しなく行き交う人々の前で、したたかに立ち回れと、己に命じる。
「見舞いに行く前にだね」
ベア院長が足を止めて、懐から一握りにも満たない袋をエリーに渡す。
「中身を見んじゃないよ」
「何ですか、これ」
袋を揉んでみた手応えは、種のような物が詰まっている感じがした。
「それにションベンぶっかけな」
エリーは凍った。「しょん……?」
「ソーマの小娘の言付けだよ。さっさと済ましちまいな」
あ、ああー。そう言えばミキさん、何でか、おしっこにすごく拘ってたっけ。今朝の騒動で台無しになっちゃったけど。
(いや、何で協会ぐるみで私のおしっこ欲しがってんのよ!)
「とっとと出しに行きなバカたれ!」
まごついていると年季の入った雷を落とされた。
老婆の迫力にエリーは背筋をビンと伸ばし、しゃっきり返事をして、イーリャを連れて手洗いに急いだ。
それからしばらくして、ラムシング村に警鐘が鳴り響くことになる。




