006 どんなに嫌いなものでも、好きになる方法
「臭い、って。そんなのでわかるの?」
女はヘーゼルに尋ねた。人より耳と鼻が良いのが自慢だと、彼女は得意げに答える。が、すぐに困惑を表して、
「聞いてた話と違うんスけど」
ま、仕方ねーか……。諦めの溜め息と共に呟く。
他にも遭難者がいるなら、助けに行かなければならない。ヘーゼルは女に二つ提案した。
この廃教会で待っているか、一緒について来るか。
捜索に自分を伴うのは足手まといではないかと女は思ったが、本音を言えば、今ここで独り取り残されると頭がどうにかなってしまいそうでもあった。
見るからに狼狽した女を見かねて、ヘーゼルは譲歩してくれたのだろう。意思決定を女に委ねてもくれた。
気遣いに甘えてはいけない。ヘーゼルの迷惑になる。
一方で、ヘーゼルに気を許しても良いのか、心細さ故の疑念も首をもたげている。
沈黙。ヘーゼルはぽやぽやした顔で、気長に返事を待つ姿勢だ。女はもたもた答えあぐねている。余計に気遣わせるのが心苦しい。いや、ヘーゼルが善人と決まった訳ではないなら、別に居心地の悪い思いをしなくても良いんじゃないか。
頭を悩ませて、ふと、頭痛の火花が弾け、同時に女の脳裏に声が蘇った。
――どんなに嫌いなものでも、好きになる方法があります。
記憶の声に誘われて、情景が目蓋に浮かぶ。確か、焚火もなく、震える身を寄せ合って毛布を被り、お互いを温め合った暗夜のことだった。その声は、優しく諭しているのに、妙に無理のある裏声で、ある教訓を確かに授けてくれた。
――それの好きなところを三つ、挙げてご覧なさい。すぐに気持ちは変わらないでしょうが、じわじわと効果を実感できますよ。
あのとき、私は何を嫌がったっけ。
「やっぱ、ここで休むのが良さげッスよね」
体調を気遣うヘーゼルの声で、女は我に返った。今のは、私の記憶だろうか。相変わらず自分が何者なのかはわからない。けれど、記憶の中のあの人が、女の背中を押してくれているような気がした。
「好きなところ、三つ……」
「え、何スか?」
今は、その後押しに応えよう。それだけでも充分前向きだ。女は意を決した。
「ヘーゼルさん」
「呼び捨てで良いッスよ」
「あなたは、私を助けに来てくれた人で……」
一つ目を口にし、そこから指折り数えようとして、続きが出なかった。
ヘーゼルが面食らっている。
困らせてしまったか。焦りの裏で、記憶の中の声が、硬直した思考を解きほぐす。――何でも良いんですよ。どんなにくだらないことでも。
もう、思いついた順に言ってしまおう。
「えっと、……強面だけど愛嬌があって、耳と鼻が良い人。だから、善い人だと思う」
「え、ええー? 何スかあ、もおー、いきなりー」
べろん、と舌を出して、デレデレと頭を掻くヘーゼルは、もう悪人には見えなかった。
大丈夫、きっと、私はヘーゼルを好きになれる。
女は決心し、それでも遠慮がちに同行を希望した。
「それと、頑張って丁寧な言葉遣いにしようとしてる」オマケの四つ目はすんなり見つかった。
「え、あれ? わかる?」
すっとぼけた返事がおかしくて、女は苦笑した。
「うん、顔に出てる。もう肩肘張らなくて良いから、普段通りのヘーゼルを見せて」
「そう言ってもらえると、ありがたいッスけど」
女は頷く。ヘーゼルも頷き返し「じゃ、そうすっかな。いやあ、下手って言われるわ、肩が凝るわで何も得しねえんだよな、さっきのしゃべり方」
女は苦笑し「私も一緒に行って良い?」と訊いた。
「ああ、良いぜ。改めて、ここを出るまでよろしくな」とさばさば右手を差し出す。今度こそ女は応えて、二人で握手を交わした。
すごいおまじないだと、女は噛み締めた。弱気を一刀両断の下にする、名刀のような効き目がある。
ヘーゼルの手から、頼もしさが伝わった。
ただ、少しすっきりしないらしく、ヘーゼルが口を曲げた。女をどう呼んで良いか、わからない。
「ああ、そうだった。でも弱ったな。名前がわかんねえと、ちょっと不便だし……」
ヘーゼルは思案する。
恐らく、この女性はエレクトラ・ブランだろう。しかし、今、この禁域には、思っていたよりも大勢の人間が迷いこんでいる気がする。もし人違いだった場合を考えると、彼女をエレクトラと呼ぶのは後々ややこしくなるかもしれない。逆に本人だったら本人だったで、本名からかけ離れた仮称を付けるのも面倒そうだ。
うん、適当に愛称をでっち上げよう。
「とりま、当分の間、エリーって呼んで良いか?」
「エリー」女はその響きを口の中で転がした。名前が自我に染みていく。「……うん、何だか、そう呼ばれてた気がする」
「決まり。じゃエリー、とりあえず温かい格好にしなよ、な」と仮称エリーの身なりを指す。爪先から肩まで、破れていない部分を見つける方が難しいズタボロ具合だ。
「自分のコート着せたげたいとこなんだけど」ヘーゼルが毛皮のコートを脱ぐと、水滴が辺りに散った。「うひ、びしょ濡れだ。こりゃダメだわ」
「ご、ごめんなさい、私」ビンタして突き落として。
「うんにゃ、こっちも迂闊だった」
へにゃりと舌を出して困り顔で笑うヘーゼルは、大型犬じみている。いざ好意的であろうと心がけてみると、エリーの目にはそう見えるから不思議だ。
濡れたコートを着直すのは具合が悪く、ヘーゼルはそこらの瓦礫の上に広げて干した。
「一緒に来んのは良いけど、護身用の何か持ってんの?」コートの裾を広げながら、ヘーゼルが問う。
エリーはボロボロの衣服をまさぐる。ナイフの鞘はあるが、肝心の中身がない。困った。返事を濁していると、ヘーゼルはベルトからホルダーを外し、ナイフを貸してくれた。
「良いの?」
「全然オッケー。てか、いざってとき、むしろ邪魔だし」
「ありがとう」
ナイフを預かる。信用の証のようで、エリーの胸が温かくなった。気づかれないように気持ちだけ抱き締めて、刀身を抜く。
刃の樋は、銀で鋳潰されている。何気なく小指で撫で、切っ先を爪弾き、ヘーゼルにランプの光を当ててもらいながら刃の角度を変え、親指の爪に対し刃を直角に軽く当てて、爪の表面を削る方向にスライドさせてみる。
動かない。研ぎが行き届いている。それに、冷たく光る刃だ。
「何か、すげえ手際良くね?」
「そうかしら?」
鞘に納め、辛うじて残ったベルトに下げる。
「なあ、それより、自分もさっきのやって良い?」
「さっきの?」
「何か唐突に褒めるやつ」
おまじないを客観的に言語化されたことと、これから褒め殺すぞという宣言の恥ずかしダブルパンチ。エリーは腕を前にして「いい! いい!」とバタバタ交差させた。
「エリーは可愛い! 自分の姉ちゃんくらい美人!」
「ひええ! お願いやめて!」
「崖から落ちたのにピンピンしてっから丈夫! 寝起きで自分をぶっ飛ばすガッツ! 初対面の自分を褒めてくれた! 楽にして良いって気を遣ってくれた! えーと、えーと、……偉い! それから……」
「もう良い! 三つ! 三つで充分なの!」
コートが要らないくらい、身体が熱くなった。
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【勝手に宣伝】
今回紹介した「どんなに嫌いなものでも、好きになる方法」は、西畑保さんという方が奥様から教わって実践されている方法だそうです。
ノンフィクション「35年目のラブレター」の主役でもある西畑さん。文字の読み書きができないことを隠しながら生きた方ですが、定年後に一念発起し夜間学校に通学なさって奥様にラブレターを書けるようにまでなられました。
非常に良い本です。笑福亭鶴瓶さんが主演で映画化もされています。これをお読みのあなたも、是非一度手に取ってみてください。




