010 首輪の外れた猛獣
客間が神妙な静けさに包まれる。方々の別室から届く賑やかさが、一層と夫婦の負い目を際立たせる。
エリーは知らず、膝に置いた手を握り締めていた。
「時代さね」
ベア院長がぼやく。
「禁域と大層な銘を打っちゃいるが、所詮はだだっ広いだけの事故現場。それも大昔のさ。誰も真面目に取り合っちゃなかった」
他方、現実の脅威は枚挙に暇がない。
大地震から国境地帯を分断する霊髄壁。自然現象による意図しない鎖国状態で物資、食料が逼迫。自活経済に移行を急いでいるが、壁を始め各地に散発的に隆起する霊髄鉱脈の影響で、寒冷化は加速度的に進んでいる。
また、四大貴族吸血鬼ラスヴァンが連邦との協定を反故にし、元々良好ではなかった人類・吸血鬼間との関係も冷えきっている。
混乱の世にあって、露術使いは引く手数多である。
護律官、鞘女、吸血鬼狩人、育苗家、操舵士……栄華極まる将来を蹴ってラムシング村に赴任した物好きが、ミキ・ソーマだった。
しかし、赴任の実態は左遷だ。
にもかかわらず、村からは不思議と文句一つ出なかった。禁域への恐れが、長い歴史の内に希釈されたためだ。
加えて、前述の大地震に伴う地殻変動で、禁域は自然の要衝に守られる形となった。
これまで城壁の全方位から求められた監視は、今や二方向からのみで済む。村側からの監視は村人の目で間に合うし、谷側はそもそも寄りつく者すらほとんどいない。監視業務の負担が減ったことも、侮りを加速させる要因となってしまった。
風化した事件よりも、今直面している飢えや貧乏の方がよっぽど恐ろしい。
今や禁域は中の脅威を封じる物ではなく、外に教訓を伝える史跡になり下がってしまっていた。
「わしらが形ばかりの見張りを立てて、村人をなあなあで通したって、誰が責められるもんかね」
憎まれ口っぽい言い草だが、暗にバーンズ夫妻やイーリャを擁護するつもりでなければ出ない話だった。誰に聞かせるつもりか、はぐらかすように手元に落とされたベア院長の目が、厳格な雰囲気を和らげている。
「……まるで、嵐のような一夜だったんですね」
許されて気が緩んだか、思わずという風にイーリャが他人事めかして呟いた。その記憶を失ったエリーにしても、同意見だった。
(記憶を失う前の私たち、何をしたかったの)
慌ただしい一夜に偶然居合わせた旅人の、小さな救急劇。
バーンズ夫妻の力になれたことは、空っぽのエリーにとっては誇らしいことだ。今のエリーでは真似できそうにないが、実際にこの手で二人を救えたのなら、自分にもいつかできる。希望が持てる。
口ずさんでいた唄があったこと。村の好きなところを三つ探していたというのも、今のエリーと繋がって、地に足を着けた安心感をもたらした。成長の喜びとはまた別の、自分自身の厚みが増す心強さがあった。
「それにしても」
イーリャが眉間を揉む。
「残雪深い夜の森の強行軍。村に到着したかと思えば、止まり木を発つように去ってしまう。それも、暴力を臭わせてまで、強引に……全く無軌道です。悪ふざけにも程があります。本当に何をしに来たのでしょう」
イーリャの言う通り、エレクトラとアルデンスの言動全てが不可解だった。
アルデンスは、おまじないを教えてくれた。命を賭してまでエリーを守ってくれた。だが、今聞いた話のアルデンスは、まるで別人だ。その豹変ぶりを受け入れていたという過去の自分自身にさえ、他人の空似を疑いたくなる。
意味がわからない。ミキの破天荒さを笑えないくらいだ。
【ギャハハ、こりゃ傑作だ】
血潮に仇敵の含み笑いが乗る。
【主は御腕を以て力を揮い、心の思いの驕り高ぶる者を追い散らし――】
善意が裏目に出た、って言いたいの?
【権力ある者を王座から引き降ろし――】
関所を離れたのが失態だった、って言いたいの?
【卑しい者を引き上げ――】
誰が卑しいですって。引き上げた? 私を、あんたなんかが?
【飢えている者を良いもので飽かせ――】
飢えたままでいれば良いのよ。
【富んでいる者を空腹のまま帰らせる】
「黙って!」
頭を万力で挟むかの如き荒々しさで耳を塞ぎ、エリーは絶叫した。ベア院長を除く室内の他三人が驚いた。
「中身が騒いだね」甘草を嚙みながら、老練にベア院長が言う。
「エリー様、気を確かに。吸血鬼に身体を明け渡してはいけません」
イーリャが触媒のペンダントを握る。バーンズ夫妻が身を寄せ合い、ロバートが庇う。
【ハハハ、随分と愉快な演目だったみてえだ。テメエら揃い踏みで役者ときてる。被りつきで観てえもんだ。チケットはどこで売っている? まだ千秋楽には間に合うか?】
「うるさい!」
イーリャが身構える。窓から差す光の枠の中で、エリーは手の平を見せて、無害を伝えつつ息を整える。
「……すみません、驚かせて。聞こえてない……ですよね。こいつ、外に出られないからって、また訳のわからない言葉で皆さんを侮辱して……もう大丈夫です」
警戒する一同を、ベア院長が不愛想に鼻で笑い飛ばす。
「首輪つきの猛獣にビビッてんじゃないよ、若造ども。しゃんとしな。おどおどしたってつけ入られるだけだよ」
不動の長老の言葉は懐深く、若者たちの動揺が凪ぐ。だが、アルフレッドは違う。
【ほう。お嬢ちゃん、好い女じゃねえか。こん中じゃ随分マシな方だ】
良い加減、黙りなさいよ。
【なら、首輪の外れた猛獣が他にいるとしたら?】
「……ちょっと待って、何それ」
「また中身の声かい。いちいち反応するのもやめな」
「院長さん、猛獣なら他に野放しのがいるって、アルフレッドが……」
今日初めて冴えて、ベア院長は目を見開いた。
「吸血鬼の戯言です。反応するなと院長先生も」
イーリャの耳打ちさえ振り払い、ベア院長は前のめりになった。
「面白いじゃないかい。言ってみな、吸血鬼の小僧。ただし……」
院長の両拳にナックルダスターがはめられていた。荒々しく突き合わせた銀の合金が火花を散らす。
「つまらん話聞かせたらただじゃおかないよ」
「……だそうだけれど、アルフレッド」
血の流れの底から、愉快に嗤う声が浮かぶ。【良いぜ。ただし、テメエがオレの代わりに伝えろ。一言一句違わず、復唱してな。ミスったり改変したりしたら、その時点でもう黙る】
アルフレッドの出した条件を断っておいてから、エリーはたどたどしく伝書鳩の役に徹することにした。
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【泣き言】
3年間社員と会ってない社長(謎給与配りおじさん)のポカで業務上無関係なワイが方々頭下げるとかいうクソイベ引いたので慰めて欲しい。




