004 絆の芽生え①:きな臭さ
強面が心配そうに女の顔色を窺った。
「あの、大丈夫スか? 落ちたんだからそりゃ、どっか痛いスよね?」
女はどれだけ呆然としていたのだろう。
いつの間にか警戒する相手に距離を詰められていた。
けれども、そんなことはもはやどうでも良くなっていた。
「何でもない」
強がって取り繕う女に、強面は一拍だけきょとんとした。
すぐに微笑みに切り替わって、右手を差し出してくる。
「ヘーゼル・バーンズ。スペイ姉ちゃんの妹分ス。お姉さんのお名前は?」
ヘーゼルの差し出した右手にも、トラに似た縞模様が隅々にまで刻まれていた。
凶暴な風貌とは裏腹に柔らかく開かれた手の平は上向きで、肘が伸びている。
これ以上は女に寄れもせず、殴るのも難しい構えだった。
女が心を許してくれるときをひたすら待つつもりで、ヘーゼルは自ら一線を引いてくれている。
女も手を伸ばして、ヘーゼルに応えようとした。
その優し気な手に繋がっていないと、今にも自分が消えてしまいそうな気がした。
女が名乗ろうとしたのも、ヘーゼルに応えるのではなく、自分を保つためだった。
「えっと、私は――」
繋がる前に、切れる。
瞬間、女の喉に石が詰まったかと錯覚した。
私は――。その先がどうしても出てこない。
名前が出てこないなら、苗字から、いや、やっぱり名から。
思い出すも何も、何てことないはずなのに。
嫌な汗がどっと流れる。私の名前は――。
あれ? もしもし? ヘーゼルの声が遠く聞こえた。
先程まで当たり前に女の内側にあったはずの心が、身体から蒸発したように感じる。
手足の感覚は覚束なく、靄が薄まった先に現れた景色が全て舞台の書き割りのように映る。
高い天井、抜けた空。床一面は水浸し。
かつて整然と並んでいたであろう長椅子の列が乱れている。
かつて屋根だったであろう瓦礫が、小島となって浮かんでいる。
そして振り仰げば、顔の欠けたピエタ像。
聞こえてまス? 目眩を堪えて、女はヘーゼルに視線を戻す。
女を案じるヘーゼルの目があった。
ランプの淡い光すら反射する澄んだ瞳が鏡となって、呆然とする女自身の相貌を映していた。
そうだ。私は、私はちゃんと、ここにいる。
「私は――」
ヘーゼルの瞳に映っているのは、痩鱚で蒼白な頬だった。
冷たく青い瞳、肩あたりにかかるアイスプラチナの髪は長く洗っていないせいか、ごわついて酷い有様だ。
それが女自身の顔面だとは、にわかには信じ難かった。
「――ここ、どこ……ですか」
やっと這い出た声は、女自身の名前より先に場所について尋ねていた。
自分の正体より先に、それが朦朧と口をついたは、なけなしの強がりのせいだった。
「やだなあ、崖の下って教えたトコじゃないスか。お姉さん、足を踏み外したか何かで落ちちゃったんスよ」
「どこから」
へらへらするヘーゼルに、女は冷水のような声を浴びせた。
ヘーゼルが戸惑った。
「どこ……って、そりゃあ、崖を掘った道から」
「そんなとこ知らない!」
女は牙を剥いて訴えた。
ただならない雰囲気に、ずっと握手を待っていたヘーゼルの右手が、僅かに下がる。
「お、お姉さん……?」
崖から落ちた? そんな気はする。
しかし、どこから? どんな場所から落ちたかが、全く思い出せない。
そもそも、ここがどこなのかも、今がいつなのかも、自分がどこから来たのかも、わからない。
どんな理由で廃墟に来て、どうして廃墟で目を覚ましたのかも、わからない。
自分が何者なのかも。
知っていて当然のことを思い出そうとすればするほど、女が自身の実存を必死に削っていく。
「わかんない……何も、わかんない……」
女は虚ろに潤んだ目を回し、今にも崩れそうな、道化た作り笑いで頬がひくついた。
身元不明な女の頼りない両肩が、目覚ましいほどガッシリと掴まれた。
「ちょ、ちょっとたんま! 一旦たんま!」
有無を言わさない語気で、ヘーゼルが迫る。
「何かものすっごい訳アリな臭いがするッス! 無理ッス! 自分、無理ッスよ!」
両肩に指が食いこむほど掴まれる。
「い、痛い」
女が委縮する。自分を見失ってはいられないほど痛い。
この人、とんでもなく力が強い。
無理にこじ開けた隙を突いて、ヘーゼルがまくし立てる。
「自分バカだから、難しい相談とか無理ッス! それにこんな寒い所、長話にゃ良くねッスよ! 風邪引いちゃいまスって!」
女は呆気にとられた。威勢よく何も解決できないと宣言されている。
「とりあえず、温かい所で、頭の良い人と話をするまで、ウジウジ悩むのは後回し! 良いッスね!」
女に反論の余地はないとばかりに決めつけられた。
子供騙しも良いところだ。
けれども、女の今の心境で、このどん詰まりをどこまで解決できるというのか。
ヘーゼルの子供騙しの方が、よっぽど頼もしい。
意見の一つも出さないまま流されるのも不安なので、女は口を挟みかけた。
しかし、女に言い聞かせるヘーゼルは元の強面を取り戻すようで、言葉に詰まる。
女は毒にも薬にもならない反論を呑み、洟をすすった。
説得が平行線になりそうな沈黙だった。
ヘーゼルが少し困った顔で、慰めるように言う。
「弱ったな……どうすっかな……そんじゃあ……そーだ! お腹減ってないスか? スープとかお茶とかなら、詰所ですぐ出せっから。な?」
言葉に釣られて湯気の立つスープと茶を思い浮かべると、控え目に女の腹が鳴る。
腹の虫の気まずさを誤魔化すように、ヘーゼルがくしゃっと笑みを咲かせた。
女の顔が赤くなる。
女はあくまで渋々だと装って、ぎこちなく頷いた。
「よっしゃ、決まりな」
ヘーゼルは女の萎えた両肩をパンッと軽妙に叩いて元気づけようとしてくれた。
ヘーゼルは胸を張って腰に手を当て、爽やかな笑顔を女に贈る。
だが、決まりが良かったのはほんの束の間のことで、ヘーゼルは渋面で頭を掻いた。
「ただ……こんな啖呵切っといてダサいんスけど、今すぐ連れてく、って訳にゃいかねーんスよねえ……」
女にしてみれば口まで運ばれた餌をお預けされた気分だった。
しかし、直前より幾分かましな気落ち具合で、女は理由を尋ねる。
ヘーゼルは胸一杯に鼻で息を吸い、何か語りたがる目で女を一瞥する。
一瞬だけ相好を崩し、再び強面に引き締まった。
「崖を通るのは男女二人組って聞いてたンすけど、これ……きな臭いスね」
ヘーゼルが鼻を空に向けて、しきりに嗅いだ。
「やっぱり、人の臭いも、血の臭いも、聞いてた人数よりずっと多い」
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