003 絆の芽生え 3/6:どんなに嫌いなものでも、好きになる方法
「臭い、って。そんなのでわかるの?」
女はヘーゼルに尋ねた。まるで野生の獣だ。
「人より耳と鼻が良いのが自慢なんスよね」
ヘーゼルが得意げに、だがすぐに困惑した顔に戻る。
「てか聞いてた話と違うんスけど……。うぅー……ん……?」
溜め息と共に呟く。ヘーゼルが腕を組んで考えこむ。
……長いわね。
「あの」
「……いや、それだとさすがにブタ箱コースか?」
(ブタ箱!? え、私!?)
女の絶望が顔に出る。
「ああ、違うッス違うッス。脅かしてごめんッスよ。こっちん話だから」
ヘーゼルは女に二つ提案する。
「これから他の遭難者も探しに行くッスけど、本当なら先にお姉さんを安全な所に連れてくのが良いんスよ。だけど、ちょっと訳あって難しくってッスね……。だから、この廃教会で待っててもらうか、それか一緒について来てもらうか。どっちが良いスか?」
待っている? この何か化けて出てきそうな場所で? あり得ない。独り取り残されると頭がどうにかなってしまいそうだ。
(けれども、ついて行くのは足手まといにならないかしら)
ヘーゼルが気遣ってくれているのはわかる。甘えてはいけない。遭難者を探すと言っていたのだ。同じ遭難者らしい女まで連れて捜索するのは、どう考えてもヘーゼルに負担をかけてしまう。
それに、この期に及んで女はまだ迷っていた。
ヘーゼルにどこまで気を許しても良いのか、わからない。そもそもヘーゼルが善人と決まった訳ではない。
なら別に、余計に気遣わせたところで、何も女が気を揉むことはないのではないか。
考えがぐるぐる回って前に進まない。
沈黙。ヘーゼルはぽやぽやした顔で、気長に返事を待つ姿勢だ。
(ど、どうしよう……)
頭が痛くなるまで悩んでいると、ふと、頭の中で火花が弾けた。
女の脳裏に声が蘇る。
――どんなに嫌いなものでも、好きになる方法があります。
記憶の中の声に誘われて、とある情景が目蓋の裏に浮かぶ。
確か、焚火もなく毛布を被り、お互いを温め合った暗夜のことだった。女はその人と、震える肩を寄せ合っていた。
声の主は優しく諭しているのに、妙に無理のある裏声で、女は思い出し笑いしてしまいそうだった。
――それの好きなところを三つ、挙げてご覧なさい。
――すぐに気持ちは変わらないでしょうが、じわじわと効果を実感できますよ。
あのとき、私は何を嫌がってたっけ。
「やっぱ、ここで休むのが良さげッスよね」
気が逸れていた。体調を気遣うヘーゼルの声で、女は我に返った。
(今のは、私の記憶……)
少し思い出しだところで、相変わらず自分が何者なのかはわからない。
けれども、記憶の中のあの人が、女の背中を押してくれているような気がした。
「好きなところ、三つ……」
「え、何スか?」
今は、その後押しに応えよう。それだけでも充分前向きだ。
「ヘーゼルさん」
「呼び捨てで良いッスよ」
「あなたは、私を助けに来てくれた人で……」
一つ目を口にし、そこから指折り数えようとして、続きが出なかった。
ヘーゼルが面食らっている。
困らせてしまったか。焦りの裏で、記憶の中の声が、硬直した思考を解きほぐしてくれる。
――何でも良いんですよ。どんなにくだらないことでも。
もう、思いついた順に言ってしまおう。
「えっと、……強面だけど愛嬌があって、耳と鼻が良い人。だから、善い人だと思う」
「え、ええー? 何スかあ、もおー、いきなりー」
べろん、と舌を出して、デレデレと頭を掻くヘーゼルは、もう悪人には見えなかった。
(大丈夫、きっと、私はヘーゼルを好きになれる)
女は微かな手応えを感じた。
「それと、ヘーゼルって、頑張って丁寧な言葉遣いにしようとしてるわよね」
オマケの四つ目はすんなり見つかった。
「え、あれ? わかる?」
すっとぼけた返事がおかしくて、女は苦笑した。
「うん、顔に書いてある。もう肩肘張らなくて良いから、普段通りのヘーゼルを見せて」
「そう言ってもらえると、ありがたいッスけど」
女は頷く。ヘーゼルも頷き返した。
「じゃ、そうすっかな。いやあ、そう言ってもらえっと助かるぜ。下手って言われるわ、肩が凝るわ、言い回しを考えながらしゃべると頭が痛いわで何も得しねえんだよな」
女は苦笑し「私も一緒に行って良い?」と改めて訊いた。
「良いぜ。ここを出るまでよろしくな」
改めてヘーゼルはさばさばと右手を差し出した。今度こそ女は手を握り返す。
すごいおまじないだ。女はその効き目を噛み締めた。
(さっきまで勇気が出なかったのに、あっと言う間に打ち解けちゃった)
ヘーゼルの手が、頼もしく握り返してくれている。
ただ、少しすっきりしないらしく、ヘーゼルが口を曲げた。
「でも弱ったな。名前がわかんねえと、ちょっと不便だし……」
ヘーゼルは思案する。
「エレ……ああいや、違ってっと後々面倒だよなあ……」
何の話かしら。
「うん、適当に愛称をでっち上げちまおう。とりま、当分の間、エリーって呼んで良いか?」
「エリー」
女はその響きを口の中で転がした。名前が不思議と耳に馴染み、女の意識に違和感なく溶けていく。
「……うん、何だか、そう呼ばれてた気がする」
エリーは薄く微笑んだ。
「決まり。じゃエリー、とりあえず温かい格好にしなよ、な」
ヘーゼルは仮称エリーの身なりを指す。
爪先から肩まで、破れていない部分を見つける方が難しいズタボロ具合だ。
「自分のコート着せたげたいとこなんだけど――」
ヘーゼルが毛皮のコートを脱ぐと、水滴が辺りに散った。
「――うひ、びしょ濡れだ。こりゃダメだわ」
言われてみれば、エリーが目覚めたとき、ヘーゼルは上着を脱ごうとしていた。
エリーの姿を見かねて、貸してくれようとしていたのだ。
せっかくの厚意を、変態と断罪して無下にしてしまった。
「ご、ごめんなさい、私」ビンタして突き落として。
「うんにゃ、自分も迂闊だった」
困り顔で笑うヘーゼルはへにゃりと舌を出して、大型犬じみている。いざ好きになろうと心がけてみると、強面がそう見えだすから不思議だ。
濡れたコートを着直すのは具合が悪く、ヘーゼルはそこらの瓦礫の上に広げて干した。
「一緒に来んのは良いけど、護身用の何か持ってんの?」
コートの裾をぴっちり伸ばしながら、ヘーゼルが問う。
エリーはボロボロの衣服をまさぐってみた。ナイフの鞘はあるが、肝心の中身がない。
困った。返事を濁していると、ヘーゼルはベルトからホルダーを外し、ナイフを貸してくれた。
「良いの?」
「全然オッケー。てか、いざってとき、むしろ邪魔だし」
「ありがとう」
ナイフを預かる。信用の証のようで、エリーの胸が温かくなった。
気づかれないように気持ちだけ抱き締めて、刀身を抜く。
刃の樋は、銀で鋳潰されている。何気なく小指で樋を撫で、切っ先を爪で弾く。
「ちょっと照らしてもらって良い?」
ヘーゼルはランプの光を当ててくれた。刃の角度を変え、反射させる。
親指の爪に対し刃を直角に軽く当てる。そして、爪の表面を削る方向にスライドさせてみた。動かない。
研ぎが行き届いている。刃は冷たく光り、エリーの心を鎮めてくれる。
「何か、すげえ手際良くね?」
「そうかしら?」
鞘に納め、辛うじて残っていたベルトに下げる。
「なあ、それより、自分もさっきのやって良い?」
「さっきの?」
「何か唐突に褒めるやつ」
おまじないを客観的に言い表されてみると、何て幼稚で恥ずかしいのだろう。
おまけに、これから褒め殺すぞという宣言。恥ずかしダブルパンチだ。
エリーは腕を前にして「いい! いい!」とバタバタ交差させた。
「エリーは可愛い! 自分の姉ちゃんくらい美人!」
「ひええ! お願いやめて!」
「崖から落ちたのにピンピンしてっから丈夫! 寝起きで自分をぶっ飛ばすガッツ! 初対面の自分を褒めてくれた! 楽にして良いって気を遣ってくれた! えーと、えーと、……偉い! それから……」
「もう良い! 三つ! 三つで充分なの!」
コートが要らないくらい、身体が熱くなった。
【勝手に宣伝】
今回紹介した「どんなに嫌いなものでも、好きになる方法」は、西畑保さんという方が奥様から教わって実践されている方法だそうです。
ノンフィクション「35年目のラブレター」の主役でもある西畑さん。文字の読み書きができないことを隠しながら生きた方ですが、定年後に一念発起し夜間学校に通学なさって奥様にラブレターを書けるようにまでなられました。
非常に良い本です。笑福亭鶴瓶さんが主演で映画化もされています。これをお読みのあなたも、是非一度手に取ってみてください。




