002 絆の芽生え 2/6:きな臭さ
強面が心配そうに、女の顔色を窺ってきた。
「あの、大丈夫スか? どっか痛いスか?」
強面に声をかけられるまで、どれだけ呆然としていたのか。いつの間にか距離を詰められていた。
無防備だったことはもう、どうでも良い。それどころではない。何も思い出せない。
「何にもない」
女は口を押さえた。恥ずかしい。本音が出た。それを言うなら「何でもない」じゃないの。
(そうよ……きっと混乱しているの。その内思い出せるはず……)
強がったり慌てふためいたりと忙しくする女に、強面は一瞬だけきょとんとした。
けれども、まあ良いか。とばかりに強面はパッと微笑みに切り替わって、殴りかかるような勢いで右手を出してきた。
女は思わず目を閉じる。痛くない。何も触れてこない。恐る恐る薄目を開く。
強面の右手には、トラに似た縞模様が指先にまで刻まれていた。
「ヘーゼル・バーンズ。スペイ姉ちゃんの妹分ス。お姉さんのお名前は?」
凶暴な風貌とは裏腹に、柔らかく開かれた手の平は上向きで、肘が伸びている。右肩を前に出し、腰を捻って、構え直さなければ女を襲うのはおろか近寄ることさえ難しそうな姿勢だった。
全身を使って無害をアピールして、手を握り返されるまでひたすら待つつもりらしい。
手と強面を見比べる。にっこりとして、温かそうな手だ。
恐る恐る、女は手を握り返す。その優しさに繋がっていないと、今にも自分が消えてしまいそうな気がした。
「えっと、私は――」
名乗り返そうとした瞬間、喉に石が詰まったかと錯覚した。
私は――。その先がどうしても出てこない。
思い出すも何も、何てことないはずなのに。
名前が出てこないなら、苗字から。苗字は――。
嫌な汗がどっと流れる。
私の名前は――。
あれ? もしもし? ヘーゼルの声が、遠くに聞こえた。
先程まで当たり前に女の内側にあったはずの心が、身体から蒸発していくようだ。手足の感覚が覚束ない。
靄が束の間、晴れていく。
その先に現れた景色――聖堂の廃れ具合は現実離れしていて、舞台の書き割りのように見える。床は一面水浸し。屋根や椅子だった物が瓦礫と混ざり、小島となって浮かんでいる。
そして振り仰げば、顔の欠けたピエタ像が無言で女を見守っている。
聞こえてッスか?
目眩を堪えて、女はヘーゼルに視線を戻す。
ヘーゼルは女を案じる表情をしていた。ヘーゼルの小さな瞳にランプの淡い光が反射している。
澄んだ瞳は鏡となって、呆然とする女自身の相貌を映していた。
そうだ。私は、私はちゃんと、ここにいる。
「私は――」
ヘーゼルの瞳に映っているのは、痩鱚で蒼白な頬だった。
冷たく青い瞳、肩あたりにかかるアイスプラチナの髪は長く洗っていないせいか、ごわついて酷い有様だ。
初めて見る、みすぼらしい他人の顔。
それが女自身の顔だとは、信じられなかった。
「――ここ、どこ……ですか」
やっと口をついた声は、女の意に反して、名前より先に場所のことを尋ねていた。
本当に知りたいことを訊けなかったのは、なけなしの強がりのせいだった。
自分の名前すら憶えていない。初対面のヘーゼルにそんな弱みを見せるのが、とてつもなく恐ろしいことのように感じた。
スン、と鼻を鳴らしたヘーゼルが、わざとらしいほどにこやかに握手を迫ってくる。
「やだなあ、崖の下って教えたトコじゃないスか。お姉さん、足を踏み外したか何かで落ちちゃったんスよ」
「どこから」
へらへらするヘーゼルに、女は冷水のような声を浴びせた。
ヘーゼルが戸惑った。
「どこ……って、そりゃあ、崖の上から」
「そんなとこ知らない!」
女は牙を剥いて訴えた。
ただならない雰囲気に、ずっと握手を待っていたヘーゼルの右手が、僅かに下がる。
「お、お姉さん……?」
崖から落ちた? そんなことはわかっている。崖の下だと言うなら、崖の上から落ちたに決まっている。
けれども、どこから?
どんな場所から落ちたかが、全く思い出せない。
そもそも、今がいつで、自分がどこからどのような目的で来たのかも。自分が何者なのかも。
知っていて当然のことを思い出そうとすればするほど、女の正気がゴリゴリと削られていく。
「わかんない……何も、わかんない……」
女は虚ろに潤んだ目を回し、今にも崩れそうな、道化た作り笑いをひくつかせた。
正体不明の女。自分が本当にここにいるのかどうかも怪しい気がしてきた。
ヘーゼルの瞳に映った顔は本当は幻で、それとも今の女は別人の目を借りて覗き見している幽霊なのかもしれない。
自我の危うい両肩が、目覚ましいほどガッシリと掴まれた。
「ちょ、ちょっとたんま! 一旦たんま!」
有無を言わさない語気で、ヘーゼルが迫る。
「何かものすっごい訳アリな臭いがするッス! 無理ッス! 自分、無理ッスよ!」
あまりに強く掴まれたせいで、両肩に指が食いこんだ。
「い、痛い」
自分を見失ってはいられないほど痛い。とんでもなく力が強い。
無理にこじ開けた隙を突くように、ヘーゼルがまくし立ててくる。
「自分バカだから、難しい相談とか無理ッス! それにこんな寒い所、長話にゃ良くねッスよ! 風邪引いちゃいまスって!」
女は呆気にとられた。威勢よく何も解決できないと宣言されている。この人は一体、こんなに必死そうにしてまで、何が言いたいのだろう。
「とりあえず、温かい所で、頭の良い人と話をするまで、ウジウジ悩むのは後回し! 良いッスね!」
女に反論の余地はないとばかりに決めつけられた。
欲しかった言葉と違う。もっとこう、女の不安を全部蹴散らしてくれるような、スカッとする……とまではいかなくても、何かしら糸口を掴ませてくれるような言葉をかけて欲しかった。
それなのに、今のは何だ。子供騙しも良いところだ。
(なのに、こんな子供騙しが、何でこんなに安心するの)
真剣だから、だろうか。何もできなくても真剣に助けようとしてくれているから、ヘーゼルの子供騙しが誠実だと感じる。
勢いに押し負けたと言えばそれまでだけれども。
(信じて良いのかな)
とはいえ、意見の一つも出さないまま流されるのは別問題なので、女は口を挟みかけた。
けれども、女に言い聞かせるヘーゼルは真剣そのものだからか、元の強面に戻っている。
口答えだと思われたら嫌だ。
女は毒にも薬にもならない反論を呑み、洟をすすった。
沈黙。説得が平行線になりそうだった。
ヘーゼルが少し困った顔をした。
「弱ったな……」ガキがヘソ曲げたときみてえだ。「どうすっかな……そんじゃあ……。あ、そーだ! お腹減ってないスか? スープとかお茶とかなら、詰所ですぐ出せっから。な?」
「スープ……」
湯気の立つスープとお茶を思い浮かべると、控え目に女の腹が鳴った。
恥ずかしい音が聞こえなかったように、ヘーゼルがくしゃっと笑いかけてきた。
女は恥を堪えて、あくまで渋々従う風に装って、ぎこちなく頷いた。
「よっしゃ、決まりな」
ヘーゼルは女の萎えた両肩をパンッと軽妙に叩いた。
元気づけようとしてくれたようだけれども、力加減が迷惑なくらい間違っていて女はよろけた。
人の気も知らず、ヘーゼルは胸を張って腰に手を当てニコニコしている。
女は苦笑いで応える。
しかしすぐにヘーゼルは渋い顔をして、頭を掻いた。
「ただ……こんな啖呵切っといてダサいんスけど、今すぐ連れてく、って訳にゃいかねーんスよねえ……」
それはないんじゃない? 女は言いかけた文句を呑みこんだ。
口まで運ばれた餌をお預けされた気分だったけれども、ここで変に口答えして、見捨てられでもしたら、いよいよどうすれば良いかわからなくなってしまう。
「どうして、ですか? 早く助けて欲しいのに」
ヘーゼルは胸一杯に鼻で息を吸い、言いにくそうに目を泳がせる。観念して女を見据える。一瞬だけ相好を崩し、再び強面に引き締まった。
「崖を通るのは男女二人組って聞いてたンすけど、これ……きな臭いスね」
ヘーゼルが鼻を空に向けて、しきりに嗅いだ。
「やっぱり。人の臭いも、血の臭いも、聞いてた人数よりずっと多いぞ」




