001 絆の芽生え 1/6:交わり蕩け落つ記憶
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
――ルカによる福音書 1章28節
二人で、一つになっていく。女が一方的に吸われていく。
どこまでも広がる薄暗がりの中で、望まない秘め事に巻きこまれている。
女は抜け殻のようになり、組み伏せられて、男と結ばれつつあった。
吐息を甘くかけ合う距離。嗅がれ、舐められ、口食みの痕を残すような深い情を交わし、血管にじわりと、望まない多幸感が染み渡る。
女の内側が味わい尽くされていく。女の形が、尋常な人間では知り得ない深さで暴かれていく。
本当の意味で一つになり得ないからこそ、熱烈に求める、一方的で絶望的な営みで。
だが、男の独りよがりな行為に、女自身の色香が否応なしに咲いていく。
女はそれが恥ずかしく、許し難く、心の底に怒りの澱を積もらせていく。
なのに、逆らえない。
逆らうのを、どこかでためらっている。
切実さと切迫。男の不慣れな手管に余裕がないからそう感じたのか、それとも女の焦りが男への情念にすり替わっているのか。
わからない。考える余裕がない。犯されているのだ。
涙を堪える女。相手は、見知らぬ男。
【この香り……覚えがあるぜ】
見知らぬ男は愛撫の口を離し、女の柔肌に唾液の糸を名残らせて、脈拍のように囁く。
男は軽薄に鼻で嗤った。
【テメエの血縁を、どっかで食っちまったらしい】
女の頸動脈を、男の牙が食い破る。
激痛。熱く溢れる血液。女は叫びたかった。なのに喉が強張り、声を出せない。
恐れ、恥辱、拒絶、そして、甘美。この嗜虐を秘め事と認める自分自身が後ろめたかった。
声を出せば後ろめたさを忘れて、快楽に耽溺しそうで恐ろしかった。
女は口を固く結び、耐える。
惨めだった。女の身体も、女の尊厳も、知らない内に略奪し尽くされて、痩せさらばえている。
結んだ口さえわなないて、たまらず嬌声を発してしまった。
嬌声が男を増長させ、行為を激しくさせると知っていたのに。
だから女は、心に麻酔をかけるため、子守唄を口ずさむ。
歌い終えたら全部、済んでいますように。
叶わない願いだとわかっていた。
それでも、淡い期待に寄せて、引き泣いた旋律を途切れ途切れに紡いでいく。
歌い出しから間もなくのことだった。
ふとすると、男の責めが止んでいた。
血糊の糸を引いて牙が離れる。
女を苛んだ指が、女の目尻に浮かべた涙を静かに拭い、乱れた前髪を無造作に整えた。
思案気な男の溜め息が首筋をかすめる。
【どうして知っている?】
解せなさそうな声色だった。
男の赤い影が、水に垂らした血のように、薄暗がりに融けていく。
†
「おい。……なあ。おいって、お姉さん」
滔々とした眠りの底から、女は揺り起こされた。
目を開くと、ランプの淡い光を受けて、暗闇に強面が浮かび上がっていた。
卑猥な夢を見ていた。そう疑う余裕などない。
靄が濃く降りていて、ランプの光がこもっている。まるで狭いシーツの中で、二人きりで密着しているような息苦しさ。
率直に言って、夜這いに遭う寸前に目を覚ましたような。
女は悪寒に襲われた。
対して強面は呑気に片笑み、鋭い歯を覗かせる。
「良かった、気がついたスね」
言葉に偽りはなく、強面は安堵した面構えだった。
けれども、その微笑一面にトラを彷彿とさせる縞模様がいかつく浮いている。
その瞳孔は獣のようで、ランプの光を集めてギラついていた。
悪寒がいや増し、女の背筋が凍った。
「ん? どうしたんスか震えて。……あ、寒いスよね」
誰だろう。わかるはずがない。
寝ぼけた女の目でも、一目で初対面とわかる人相だ。
しかも、相手は四つん這いで自分に迫って、逃げ場を塞いでいる。
「ちょーっと待ってくださいスよー……」
もぞもぞと強面が上着を脱ぎ始めた。女の上で。
女の自己防衛本能が一基に目覚めた。恐怖で心が決壊する。
「きゃああぁぁぁー!」
「うおああぁー!?」
女が上げた悲鳴は、起き抜け一番の雄鶏顔負けに良く響いた。何故だかトラ縞の強面の方も心底たまげて、女と競い合うように叫ぶ。
何が何だか、女の理解が追いつかない。とにかく生きた心地がしない。
双方絶叫合戦が膠着して、しばらく経った。
どうにもこうにも転ばなくなった末、女が先に強面へ一発、強烈なビンタを直撃させる。雷鳴のような音が響く。
「ぁおぶん⁉」
強面がよろめいた隙を突いて、女は全身を使って強面を押し退ける。
バランスを崩した強面は、滑稽に叫んだかと思えば、ピエタ像の台座から転げ落ちてしまった。ジャブンと盛大な水柱が上がる。
勢いつけて、女は身体を起こす。叫びすぎて息が苦しい。空気が靄を含んでいるせいか余計に。
身震いを治めるように身を掻き抱くと、コートの袖が千切れてしまった。
見れば頑丈そうな生地はどこもかしこもズタズタだ。片や半袖、片やノースリーブ。その上、背中は肌着まで裂けて地肌を曝け出している。
悪寒がちっぽけに感じるほどの羞恥をぶちまけられて、女の顔が燃えるほどに赤くなる。
(こいつか!? こいつだ! こいつにされたんだ!)
女の中で、夢での出来事が現実にパチリとはまる音がした。
女は台座の上から、強面をキッと睨み下ろす。
ずぶ濡れの強面がイヌみたいに頭を振って髪を乾かしていた。
「ペッペッ……いちちち……うええ、酷え。びしょ濡れだあ。んもー、何もぶたなくたって良いじゃないッスかあ」
強面は叱られた子どものようにブー垂れていた。
髪まで濡れて型が崩れたせいか、強面だと思っていた顔は妙にへんにゃりしている。
そのくせ、ランプが漏れないようにしっかりと水平を保つという、器用な倒れ方をしている。
余裕を感じさせる仕草だ。余計に腹が立つ。
「う、動かないで!」
女の声は裏返っていたが、へんにゃり強面はビクッと目をつむり、首を縮めた。
「私が良いって言うまでそこでじっとなさい、この勘違いの色狂い夜這い野郎!」
起き抜けの渇いた喉で女は罵った。強面に差した指が怒りに震える。
誰が女の敵かハッキリと指し示してやっているというのに、へんにゃり強面は「え? え?」と忙しく辺りを見回した。
最後に「まさか」と言いたげな顔で自分を指して「ええ……?」と首を傾げた。
とぼけている。舐められている。
舐め……夢に見た光景が不意によぎる。思い出すとまた恥ずかしくなる、あの行為。
頬に触れると、汗ではないぬめりが残っていた。おぞましい。血が沸騰する。
「嗅いで舐めたわね!? この変態!」
「お、起こそうと思って……」
「本当に舐めてんじゃないわよ! ナニを起こす気だったのよ!? ちょっとでもそこから動いたら、さっきのくらいじゃ済まさないから、覚悟しろこの助平!」
女は華奢な拳を振り上げて強面を威嚇した。
威嚇は捨てネコ以下の迫力しかなかったものの、へんにゃり強面はたじろいだ。
「に、にしても人のこと変態だの助平だの……」
へんにゃり強面自身の独り言から、いよいよ話の筋を理解したらしい。強面が見る見る赤面へと変わる。
「いやいやいや!」慌てて顔の前で手を振って「自分、女ッスから!」
「黙りなさ……へ?」
思っていたのと違う球が返って、女は戸惑った。
女は強面のことを今の今まで男だと思いこんでいた。
髪はソフトなフェザーモヒカンにウルフカットを合わせた活発なスタイル。目つきが鋭く、顔中びっしりと埋めたトラ縞模様は入れ墨だろうか。ワイルドな印象が全身からむんむんと立ち昇っている。
何より、強面の身長は一般的な男と比べてもかなり高い。
けれども、女と言われてみると確かに、男にしては声が高い方である。
逆立てた髪も今はぐっしょりと降りていて、第一印象ほどの威勢は感じない。それに毛皮のコートの下には祭服を着こんでおり、銀糸刺繍の繊細さから女物の雰囲気がした。
男にも、女にも見える。
女は微妙な表情で固まった。
固まっている内に、強面は水辺からのっそりと上がり、近くの瓦礫の山に上陸した。
「それに自分、お姉さんを助けに来たんスよ! 崖から何か落ちる音が聞こえて……見に来てみりゃ、嫌な予感が当たってんだから。恩に着せる気はないッスけど、ありがとうって言ってくれたら嬉しいなあ、なんて」
言葉の半分も、女には届いていなかった。
「やー、でも、あんな高いとこから落ちたのに、目立った怪我がないのは奇跡ッスよ……」
「崖から……落ちた?」
へんにゃりした強面の言うことを小さく復唱した瞬間、女は頭痛に襲われた。
天地が繰り返し入れ替わる。目が回る。硬い岩に身体を苛め抜かれた記憶がフラッシュバックする。
私を庇ってくれたあの人は、無事なの?
過呼吸に呑まれる寸前に、男の身を案じるだけの良心が残って、女はどこか安心した。
の、だが。そこから先に、心が進まなかった。
何も思い出せない。
女の追憶の先に、無窮の虚無が立ち塞がっている。
崖から落ちた恐怖や苦痛、“あの人”を案じる心が急速に萎えていく。
目に映り耳に聞こえ肌に感じる全てが空虚な作り物に見えてきた。
――あの人って?




