022 捕虜脱走 3/3:ピースサイン
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エリーの一言で男が激高し、事態が緊迫したときにさかのぼる。
ミキの指示に従い、エリーを下がらせながら、ヘーゼルは耳打ちした。
「アルフレッド、聞こえてんだろ」
ヘーゼルは切り札を握っていた。
ヘーゼルが思い返していたのは、そこから更に前の出来事。今朝のベッドの中での一戦前のことだった。
東の空が白む頃にヘーゼルは目を覚ました。
腕の中で、生まれたままの姿のエリーが眠っている。
凍えていた身体が温もりを取り戻している。これで一安心。エリーが目を覚ますまでもう一寝入りしようと決めたとき。
エリーの頭が割れ、血が止めどなく流れた。
エリーが危ない。
エリーの意識を呼び覚ますよう、ヘーゼルは何度も肩を揺さ振り、エリーの名を呼んだ。
「おはよう、人狼の小娘」
胸の中から見上げる瞳は、血に染まっていた。
アルフレッドの覚醒に警戒するヘーゼルだが、アルフレッドは身じろぎするでもなく、大人しく口だけを動かした。
「こいつはエリーの命を奪った傷だ。今まで親切で塞いじゃいたが、血が足りなくなってきやがった」
ヘーゼルの心臓が締めつけられるようだった。わかりやすい反応だと、アルフレッドは内心でほくそ笑んでいたことだろう。
「今すぐ血を補給させろ。テメエ、人狼ったって血が薄いだろ。臭いでわかる。それで間に合わせてやっても良いぜ」
「……何企んでやがんだ、てめえ」
警戒し凄むヘーゼルと対峙し、アルフレッドはリラックスしている。
「テメエには見所がある。血を吸うにしても、一言断ってやろうってだけだ。……おい何だその目は。大事な大事なエリーちゃんがどうなっても良いってのか? え?」
ヘーゼルは怒りながら答えに窮した。
表裏のないヘーゼルは、悪党にとって恰好の獲物だ。
アルフレッドのようなずる賢い者が少し弱点を小突けば、思った通りの反応を返してしまう。
こうして言い争いをしている間にも、エリーの頭の傷は開いていく。血がエリーの額を伝う。ただ派手に見えるだけで、取るに足らない量の血が。
「……わかったよ。吸わせてやる。ただし、絶対にエリーを助けろ」
善良なエリーの面影も消え去る、凶悪な笑みが応えた。
「ああ、約束してやる。だが、ただで血をもらっちゃあ、テメエの泣き寝入りだ。だから賭けと洒落こもう」
「賭けだあ?」
アルフレッドの提示する勝負は次の通り。
「テメエがオレの吸血と責め苦に耐える。その間、エリーの身体を汚さずに済ませられたら、テメエの勝ちだ。オレが勝てば少し多めに血をもらう。テメエが勝てば、願いを一度だけ聞いてやる」
どこまでが嘘でどこまでが本気か、わかったものではない。
アルフレッドはエリーをわざと傷つけて、脅迫に利用している。
それに、エリーを汚さないという条件。これが釈然としなかった。アルフレッドの食べ方が汚いから、血で汚さないよう気をつけろという意味だと勝手に思った。
ヘーゼルがあれこれ考えても仕方がない。考えるのは苦手だ。
何より母子の命にかかわる以上、血を与えるのはやむを得ないことのように思えた。
ミキに助けを求めるという手もある。しかし、大声を出そうものなら、アルフレッドがどう動くのか予想できなかった。
(エリーを助けるついでだ)
ヘーゼルは賭けに乗った。
迂闊だった。
ヘーゼルは、汚すことの真意を、その身をもって思い知らされた。
力自慢が力負けし、一方的にもてあそばれる屈辱を味わわされた。
チビだった頃以来の無力感は、成長したヘーゼルにとっては、その成長を根底から覆す、実存の危機だった。
耐え難い快感を耐え、抱え難い情欲を抱え、死んでも声は聞かせない。ヘーゼルの精神の戦いが始まった。
アルフレッドに耳元で淫靡な睦言を囁かれようが、エリーの顔で言われても響かない。
エリーの顔が常に脳裏をよぎったおかげで、ぎりぎりのところでヘーゼルは踏みとどまれた。
エリーの目覚めが遅かったら。ミキが起こしに来るのが遅れたら。ヘーゼルは、エリーに手を出してしまったかもしれない。
それからは、とにかくエリーから離れることだけを考えた。余韻に溺れそうになる度に、頭を壁にぶつけて気合いを入れた。
そんな独りよがりな自傷行為でさえ、エリーは自分の痛みのように分かち合ってくれた。
エリーの共感がヘーゼルを踏みとどまらせて、エリーを汚す前に劣情は鳴りを潜めていく。
仮眠室で休んでいる間に何をしたかなど、アルフレッドには知る由もない。
ある意味、ズルい勝ち方だ。
少なくとも、ヘーゼルは確かにアルフレッド吸血との責め苦に耐えたのは事実だし、エリーを汚すどころか逆にヘーゼルが浄化されたのだから。
手元に残ったのは、アルフレッドに一度だけ言うことを聞かせる権利だ。
苦労して得た賞品である。謝らせるために使うのは、勿体ない。
怪物が見せた気紛れなのだから、次がある保証もない。使いどころは慎重に選ぶべきだ。
今がそのときだ。
「負けたら言うこと聞く約束だろ。イーリャを助ける方法はねえか」
【……オレは負けてねえ】
二人の間に挟まって、エリーは会話に置いてけぼりだったけれども、不穏な一言の後、アルフレッドはこうつけ加えた。
【テメエが勝手に勝った気でいるだけだろうが】
傲慢な吸血鬼にしては、妙に態度が軟らかかった。
エリーは増々ついて行けなくなった。勝ち負けとは何のことか。エリーが眠っている間に、どのような取り決めがあったのか。
「エリー、アルフレッドと変わってくれよ」ヘーゼルが言う。「大丈夫だ。信じてくれ」
流されるまま、凶悪な吸血鬼に身を任せるのは、たとえヘーゼルのお願いでも怖い。
(流されるだけでも忍耐が要る……)
ミキの言うことは正しかったと、エリーは思い知る。
†【
現在。ヘーゼルは捕虜を気絶させ、組み敷いていた。
おあつらえ向きに捕虜は糸を持っている。拝借して縛っているところだ。
アルフレッドが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あとな、テメエ、これは賭けに見合わねえ願いだ。釣り合い取らせろ。後でオレの言うことも聞いてもらうからな」
「うげえ、後出しずりぃ」
口喧嘩の最中に、アルフレッドはミキの首を放した。
手の平に密集していた牙は融けて、血に混ざっていく。
手の平から、流出させた自分の血を体内へ戻していくと、滑らかなミキの首筋が露わとなった。
首を絞めているとき、手から溢れた血の量に比して、ミキの傷は不自然なほど少なく、浅い。
ほんの一か所だけ、小さな刺し傷が残っており、血が細く流れているに留めていた。
絞首と血の糸から解放され、ミキは一息ついて肩を回した。
「いやあ、さすがは吸血鬼。擬態上がりの演技力は役者顔負けだね」
「胤族だ。……にしても、よくわかったもんだ。オレにその気がないことが」
アルフレッドは男に恐れを植えつけため、口上にも歩様にも首絞めにも大仰な演出を加えた。
ミキには露術で反撃する猶予があったはずだ。
アルフレッドを相手に無抵抗のままでいる女とも思えない。
であれば、本心を見透かしていたとしか考えられなかった。
ミキはへらへらして言う。
「水臭いなあ。アタシたち、お互いに腹の底をよく知った間柄じゃないのさ」
「ゲロ飲ませ合ったこと言ってんならぶっ殺すぞ」
再び手の平に牙を生やしたアルフレッドに対し、ミキは今度こそ露術を展開し牽制する。
忌々し気にアルフレッドは舌を打ち、牙を納めた。ミキも鷹揚に水を引かせる。
「そうそう。アタシを倒したかったら出直すことだね」
「へっ。こんなことなら殺してやりゃ良かったぜ」
「そんな気なかったくせに……ふふふ」
「だから何でオレの本心がわかったか訊いてんだよ。これ以上笑い者にすんなら、もう宿主に身体を返すぞ」
ミキが思い出し笑いを堪えつつ、理由を語る。
「君さ、人と獣を助ける……みたいなことを言っていたよね」
「それでか?」
意外そうに眉を上げるアルフレッド。ミキはおかしそうに首を横に振る。
「それで君が全員の注意を引いている後ろでね、床に倒れたはずのヘーゼルが、呑気にピースサインなんか送ってきたんだよ」
アルフレッドは渋い顔で唾を吐く真似をした。
延々と引き笑うミキをよそに、今回の立役者ヘーゼルは男を糸で縛り終え、“入るな”の部屋へ引きずっていく。
「こいつ簀巻きにしようぜ。じゃねえと安心できねえって」
ヘーゼルがぼやく。ミキが片手を挙げて応えた。
「わかったよ。何か使える物を見繕ってみるよ。……それで、それよりもさ」
さんざっぱら笑って、ミキは仮面の下を拭った。アルフレッドに尋ねる。
「君こそさ、芝居に乗じてアタシを殺れたよね? 正直アタシには賭けだった訳だけれども、どうしてみすみすこの好機を逃したのかな?」
アルフレッドはヘーゼルを一瞥し、痛いところを突かれたように顔をそっぽに向けた。
(どうして、だと……)
そもそもアルフレッドは、エリーを孤立させるつもりだった。
現状考え得る最善の状況は、エリーがアルフレッド以外に頼るものがない立場に追いこむことだ。
護律協会の監視下から離れるために、何もアルフレッドが全力で逃げる必要はない。エリーが自ら離れるように促せば良い。
そのために、徹底的にエリーを厄介者に仕立て上げる。良心の呵責に苛まれるような事件を起こせば、自ずとエリーは自分を追い詰める。
そういう甘い女だと見立てていた。
護律官たちの猜疑心を煽る。エリーは誰にも歓迎されていない。加えて、いつ処分されるかもわからない。
そう思い知らせた上でミキとヘーゼルを始末し、後戻りできない状況を演出する。
すると、エリーは孤立無援になる。生き残るためには、アルフレッドに依存せざるを得なくなり、二度と護律協会を頼ろうとは考えないだろう。
心など後からいくらでも蝕める。時間をかけてエリーを心の底から絶望させ、操り人形に仕立てれば良い。
アルフレッドは真の自由を手に入れる。
ヘーゼルとの賭けは、計画の嚆矢だった。
日中の活動は夜よりも体力を消耗し、意識を保つのも億劫だ。それをわかっていてか、この詰所の窓はそう多くないものの、開けるなら開いている始末だ。
そのおかげであまり自由には動けず、打てる手もそう多くなかった。
だが、蓋を開いてみれば何だ。
こう転ぶか、普通。
(何が賭けだ! んなもん律儀に守る気なんざ更々なかったってのによ!)
はらわたに通わせた血が煮えくり返る。
(素直に謝罪にカード切りゃ良いものを、温存するわオレを虚仮にするわ! 最悪だ!
コイツらマジで、一朝一夕でガチガチに連携してんのは何なんだよ! 時間がねえから一朝一夕っつーんだよバカが! 何の冗談だよ!
人狼娘といい拝露教徒といい、どいつもこいつもポッと出の小娘一人相手に、常軌を逸した覚悟決めてんじゃねえよ!
人誑しっつってたなあ、あの殺し屋! 的中させてんじゃねえよ!
おまけに宿主自身も、下手を打てば自刃を仄めかすド短気ブスときた!
胎のガキのことまで忘れやがって、バッカじゃねえの!
こんなざまでどっちか一人でも殺してみろ!
宿主が孤立したところで、全力でオレの足を引っ張りやがるに違えねえ!
でけえ事故でも起きねえ限り、孤立策はジリ貧だ!
どいつもこいつも寄ってたかってオレの計画をパアにしやがって! クソが!)
「何なに? 黙っちゃって、可愛いね。恥ずかしい理由なのかい? 青春かい? 思春期なのかい?」
ミキが愉快げにアルフレッドの周りをちょこまかと動く。
(コイツ、まさかオレの勝ち筋をわかってて、潰しやがったのか……!?)
仮面の下は窺い知れない。
アルフレッドは鼻で嗤って誤魔化し、不敵さを取り繕った。
「ダビデがサウルの上着の裾を切ったんだよ」
苦し紛れの言い訳だ。どうせ、この時代の人間は理解できない。本心を託しても構わないだろう。
「誰と誰って?」
「これだから不勉強はよ」
殺せる相手をあえて見逃し、寝込みに忍びこみ、その裾を切るに留めて、いつでも殺せたことを証明する。
今回の気紛れは、立ちはだかる問題を皆殺しにし、自由を得るまでのロードマップの再確認にすぎない。
状況さえ整えば、アルフレッドはミキを殺せる。今はその確認ができれば充分だ。
状況と運が味方につくまで、精々コイツらの紐帯を利用させてもらう。
今はその方が、遥かに多くの血の収穫が見込める。
にやつくミキの視線に気づき、アルフレッドは“入るな”の部屋に運ばれていく男の方へ足を向けた。
「オヤジの血は趣味じゃねえが、コイツなら足腰立たねえくれえ吸っても構わねえだろ。それくらいの働きはしたつもりだぜ」
ミキは腰に両手を当てて「口が利けるくらいで勘弁してやってよ」と、冗談めかした。
アルフレッドが部屋に消える直前、ミキは「アルフレッド」を呼び、引き留める。
首の刺し傷が痒いらしく、ポリポリと掻きながら。
「ありがとうね」
立ち止まってもアルフレッドは振り向かなかった。
「オエッ……。テメエ、まだ酒が抜けてねえぞ」
捨て台詞を残して、捕虜のいる部屋に姿を消した。
簀巻きにした捕虜を収容したヘーゼルは、アルフレッドとの入れ替わり際に、悲し気な子守唄を耳にした。
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