023 イーリャという娘 1/2:首輪
脱走者の簀巻きと血抜きを済ませ、気絶したイーリャを待機室に運んだ後。
キッチンで一悶着あった。
目も合わせてやるもんか。エリーはむくれて、うろたえるヘーゼルからずっと顔を背けていた。
「エリー、なあ、何で怒ってんの。自分、何かしたか。何で無視すんの。悪かったとこ言ってくれよお。わかんねえんだよお。機嫌直してくれよお」
ヘーゼルに泣きつかれても、エリーは頬をぷくと膨らませて、つんと無視した。
何がどうして、今回の人質騒動が一件落着したのか。アルフレッドに訊いても【知るか】とだんまり。
ヘーゼルに訊いて事実関係を整理する内に、エリーは愕然とし、間もなく焦げつくような怒りを覚えた。
(終わり良ければ総て良し。じゃないのよ。人様をだしにして、何勝手にギャンブルしとんじゃい。私の身体はチップか遊技台かってのよ)
今朝の出来事の裏側が明るみになるにつれ、エリーがヘーゼルを心配する気持ちが、尽く裏切られていった。
(アルフレッドもヘーゼルも最低。信じらんない。今朝、私がどれだけ心配したかも知らないで。私の心配返してよ。無理なら肉団子返して。アルフレッドはさっさと出て行って。ミキさんはへらへらしないで)
「ご歓談中のところ、恐れ入るけれども」
しばらくその様子を微笑ましそうに見守ったミキが一声。
「さっきの騒ぎはエリーさんを中心に回ってたから、イーリャへの釈明は任せたよ」
ヘーゼルの身勝手がどうでも良くなるほどの衝撃が、エリーの脳天に直撃する。
(何で私がっ……!?)
反発も束の間だった。
言われてみれば、イーリャはエリーの尿を被り、その怒りが原因で脱走中の捕虜の人質となった。その捕虜も元々エリーを追う殺し屋の一味である。
何よりイーリャが最後に目撃したのは、アルフレッドの演技とはいえ、吸血鬼と化してヘーゼルに危害を加えるエリーの姿だ。
(イーリャさん、どうか悪夢だと思っていてください。私にとっても悪夢です)
良いようにミキの手の平で転がされて悔しい。ままならない身の上が情けない。強くなりたい。
しかし、エリーがいくら願ったところで、今は朝。空に願いを叶えてくれそうな星がない。
渋い顔をしていると、ミキがウザ絡みしてきた。
「勘違いならごめんだけれども、まさか被害者だからって『私悪くないも~ん』とか開き直って、アタシたちの負うリスクは知らんぷりかい?」
「言われなくても立場は弁えてます……!」
私そんなぶりっ子口調じゃない! エリーは歯ぎしりした。
「なら良いけれども」
くつくつと笑うミキは、どう見ても愉しんでいる。
この人はこの人でエリーの気も知らない。いよいよ尻を蹴ってやろうか。
「エーリーイー」
「んもう、赦してあげるから黙って」
イーリャへのお詫びを考えるのに、まとわりつかれるのは邪魔だった。
「うおお、ごめんなエリー……!」
雑に赦したら赦したで、ヘーゼルはエリーの膝に泣きついて邪魔になったけれども。
(まあ、頭を撫でてなだめてあげるくらいなら、考えながらでもできるし)
さて、そんなことより、イーリャへの釈明と謝罪。この難題をどうやっつけようか。
(正直に打ち明けるのが一番よね……)
イーリャが乱暴にキッチンの扉を開けたのは、そのときだった。
思わずエリーは背筋を正して、膝に手を押しつけ――とばっちりでヘーゼルの頭を股下に押しつけてしまった。
「もがーっ!?」
「わ、ごめん!」
イーリャが胡乱な目つきでエリーたちの方を見てきた。よく見えていないのか、目をすがめていた。
イーリャは見るからに疲れている。やや乱れたシニョンの髪、徹夜明けの如く据わった目つき。少し前傾の背筋が気怠そうに、修律士の祭服を着崩している。
無言でキッチンを睨み回すイーリャに、ミキが手を挙げて迎えた。
「や、おはおうイーリャ」
その名を耳にするや否や、ヘーゼルは肩を弾かせるように慌ててエリーから離れ、何故か食卓の下に隠れた。
「ご覧の通り全員無事だけれども、さっきの夢じゃないよ」
「ちょっとミキさん!!」
段階刻め! こっちにも心の準備があるのに! このちゃらんぽらん!
けれども、イーリャは心ここにあらずといった風体だった。
デリカシーのない雑な説明にも微動だにせず、眼球だけが疑わしくキッチンを見渡している。
「イーリャ、はいこれ」
ミキが気安く差し出したのは、何故かイヌの首輪とリードだった。
「要るかと思って」
気を利かせたように振る舞うミキだが、ふざけているのかとエリーは言葉を失った。
ところが、首輪とリードを目にした途端、イーリャは微かに目の色を変えた。
イーリャが首輪一式をミキの手から奪い去る。
必死で、切実で、それが彼女を現実に繋ぎ留める役割を持っているかのよう。
「ヘーゼルも当然無事だから」
「……まあ、無事なら。はい」
ぼんやりとだけれども、イーリャは納得したらしい。
首輪が特別なのか、イーリャが大らかなのか、それともミキへの信頼が篤いのか、エリーにはわからないけれども、それにしても、命の危機を前に取り乱していたのが嘘のように切り替えが速い。
「それはそうと」
正気を取り戻したイーリャが怪訝そうにエリーへ向く。
人殺しでもしていそうな、鋭い眼光。
いや、如何な本職でも、ここまで露骨な眼力は身に着けられないだろうし、身に着けたところで隠すことも覚えるはずだ。
イーリャはその過剰に鋭い目つきを、むしろ更に凝らした。
言葉が悪いけれども、ガンを飛ばされている。
顔が近い。カタギの距離じゃない。凍りつきそうな息を浴びながら、エリーはじろじろと見られた。
「ああその子、目が悪いだけだから。そこんところ、ね?」
目が悪い。それだけで人の目つきは、ここまで荒むものなのか。
ミキが手を合わせて気を配ってくれても、生きた心地がしない。
イーリャを最も精神的に追い詰めたのはアルフレッド、つまりイーリャから見ればエリーなのだ。
服なんか特に念入りに品定めされている気がする。
「イーリャ、その人はエリーさん。エリーさん、こちらの方はイーリャ・コシノヴァ嬢」
「よ、よろしく、お願いします」
やがて、イーリャは得心いったように顔を離した。
「お初にお目にかかります。ご紹介に与りました。私、イーリャ・コシノヴァと申します。ようこそ、我がラムシング村へ」
目つきと距離感に反して、イーリャの声音は言葉遣いに似つかわしく淑やかだった。
とても直前まで呆然自失だった人には見えない。
(目が悪くて助かった……?)
エリーの緊張が少しほぐれた。
「……それで、あなたはどうしてこちらに? まさか、お一人で森を抜けていらしたのですか?」
「は、話せばとっても長くて、その上とっても複雑なんですけれども……」
「はあ」
積もる話に興味はないらしく、あからさまに面倒臭そうにされた。
どうしよう。謝るきっかけが掴めない。
「……えっと、あの」
「教官。無事なら、ヘーゼルはどちらに? 先ほど、声が聞こえた気がしたのですが」
興味が失せたのを隠さず、イーリャはミキに尋ねる。
忘れていた。イーリャは尿のことをヘーゼルのせいだと思いこんでいる。
「やっ、違っ……」とエリーが止める間もない。
「テーブルの下に隠れてがたがた震えているよ」と無慈悲にミキが答えてしまった。
食卓の下から「若隠居!」と渾身の抗議。
当の若隠居は思い出したように「おしっこは済ませたよね?」と卓の下のヘーゼルに訊く。
「左様ですか」
無機質に呟くイーリャは、ダン! と食卓を叩き、その手を支えにしてゆらりと屈む。
その下で縮こまった人狼の姿を拝む。
「見ぃつけた」
その手には首輪と、揺れるリード。
冷たい悦びに中てられたヘーゼルの悲鳴が、短く上がった――。
「ああ、やっぱりこの首輪とても似合いますね。もう、ヘーゼルったら、悪戯三昧な上に心配ばかりかけて、いけない子なんですから。やんちゃしちゃ、めっ! ですよ。……やっぱりヘーゼルには私が手ずから躾けを施してあげないといけませんね。乱暴者でお行儀の悪い人狼娘なんか、お父様が村から追放しちゃいますもの。教官もそう思われますよね」
ミキが生返事する。
(……何を見せられているのかしら)
エリーは呆然と、死ぬほど可愛がられるヘーゼルを眺めていた。
【新年】
あけましておめでとうございます。




