021 捕虜脱走 2/3:今日がテメエの命日だ
豹変したエリーに、男とイーリャが硬直する。
口をわななかせて、イーリャが上ずり叫ぶ。
「そ、んな……ヘーゼル……いや……いやあああ! ああ……」
絶叫の途中で限界を迎えて、イーリャは失神した。
ふっと脱力した人質に刃が入らぬよう、男はイーリャの身体を支える。気絶した人間は男の手に余った。
一気に余裕を失う中で、男は直前まで対立していたことなど忘れて、ミキを頼るような視線を送る。
しかし、この場で頼れるはずのミキでさえ、思わずたじろいでしまう事態だった。
「こんなときを狙って出るなんて、嫌らしい吸血鬼だよ」
対して、アルフレッドはこの場の生命全てを見下げて、悠然と両腕を広げて宣った。
「主よ、あなたは人と獣とを救われる」
失神したイーリャから剃刀を離して、男はミキにぶれぶれの刃先を向けた。
「なあ、おい……護律官! ど、どういうことだ! 一体こりゃ、何が起きてんだ!」
「教えてやるよ、食用種」
アルフレッドが出しゃばった。胸に手を当て、恭しくお辞儀をする。
「アルフレッド・ヴァルケル。テメエらが“標的”と呼ぶコイツの身体を借りている、胤族だ」
「いん……ぞく」
「吸血鬼の自称だよ」
ミキの補足と共に、男の脳裏で一夜を共にした仲間たちの死体がよぎる。
(まるで、血を吸われたようだとは思っていたが……まさか。護律官ではなく、こいつだったのか!?)
会話を装いつつ、こっそりと、ミキが短剣に手を忍ばせる。
が、手が柄に届かない。
糸がミキの手に絡み、引いていた。天井から滑車で吊るすように、アルフレッドの手から赤い血の糸が伸びている。
(しまった)
ミキが舌打ちする。
銀糸を縫った手袋は、調理の際に外したままだ。吸血鬼に対して素肌を晒してしまった。
「動くな。ふざけた仮面しやがって」
アルフレッドは愉快そうにイーリャを指す。
「今、露術を使うのをためらったなあ? あの小娘がただじゃ済まねえなら、しょうがねえよなあ?」
思い出したかのように、男は人質を抱き直す。
「腑抜けんじゃねえよ半端野郎が! しっかり女の魂握ってろや! 刃を離すんじゃねえ! それでも殺し屋かボケ!」
理不尽な叱責に、男は反射で背筋を正してしまった。
「よく思い出せ。テメエはここから逃げたいだけだろう? だが、露術を使われちゃたまらねえ。人質は抑止力だ。この拝露教徒をよぉく見張ってろよ。コイツの露術が狙うのは、オレか、それともテメエかわかんのか? 予言者様よお?」
「耳を貸すんじゃない。君、よく考えたまえ」
ミキの声を、アルフレッドが掻き消す。
「黙ってねえで答えろ! その頭は飾りかハゲ!」
「吸血鬼の誘惑に耳を貸しちゃいけない」
「建設的な提案だろうがボケが!」
言い争うように説得してくる二人の狭間で、思考が揺さぶられた男は、自然と剃刀をイーリャに当て、力を込めていた。
この吸血鬼――アルフレッドの言うことには一理ある。
何が何だか理解できないが、少なくとも彼の登場で、この場の勢力図が一気に塗り替わった。
逃げるなら、この機に乗じる他はない。
後は、タイミングの問題だ。
アルフレッドは満足感を味わうように、ゆったりと頷いた。
「……つー訳だ。今日がテメエの命日だ、ミキ・ソーマ。テメエには実験台になってもらうぜ」
アルフレッドは手の平を爪で裂き、流れる血から無数の牙を生やした。
ギチギチと牙のひしめく手を結んで、開いて、ミキに正面切って一歩踏み出す。
「露術も使えねえ女一匹。一皮剝いちまえば、テメエは無力なんだよ。散々思い上がりやがって」
血の糸はミキの腕を捻り、軽々と吊るし上げる。
腕から肩にかけて、自重がミキを責め苛む。
しかし。男が思い直す。男は悪い予感に囚われていた。
(この怪物の方に乗って、本当に俺は助かるのか)
事態が進行する最中、男は言い知れない違和感の正体を探らずにはいられなかった。
「咎は悪しき者に向かい、その心の内に言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。彼は自分の不義が表されないため、また憎まれないために、自らその目でおもねる」
アルフレッドが意味のわからない句を唱える。ミキへ詰め寄るアルフレッドの姿は、嬉々とした悪鬼のようだった。
無数の牙の生えた手が、護律官たる女の首に添えられ、徐々に絞められていく。
「その口の言葉は邪と欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。彼はその床の上で邪な事を企み、善からぬ道に身を置いて、悪を嫌わない」
首を裂き、穿つ牙。首を絞められた護律官が苦悶に喘ぐ。
アルフレッドの手の隙間から鮮血が溢れ、白銀の祭服を染めていく。
銀糸に触れた血が焦げ、身体中から煙が昇る。
ミキの細く手折られそうな引き入れ声が、宙吊りになって床を掻く靴の音が、聞く者の心を掻き乱す。
足掻く靴底が床に擦れ、奇妙な振り子の円弧を刻んでいく。
粛々と進む処刑を前にして、男は恐れに呑まれる脳を遅々とさせながらも、考えた。
(護律官が倒れた後、俺はどうなる)
確かに男は護律官から逃げたかった。逃げたいに決まっている。
だが今、見届けている光景は、追う者の最期なのか。
追う者が、より邪悪な者へ引き継がれていく過程にすぎないのではないか。
人質を守る護律官。吸血鬼を守る男。
唯一吸血鬼に対抗できる護律官は、吸血鬼の手で殺されつつある。
護律官がいなくなった後、人質と男は吸血鬼にとっての何になる。
三つ巴になっていやしない。
気づいた瞬間、人質はおろか噴き出した冷や汗すら置き去りにする速さで、男は背を向けていた。
アルフレッドの昏い威圧感に呑まれて、状況を読み違えた。
今この場は、護律官に従わなければ全滅する局面だったのだ。
(それを、言葉巧みに唆されてしまった!)
男は前のめりになって、両腕で空を掻くように逃げる。
今頃外は朝日が燦燦と降っている。吸血鬼は外までは追えない。
(精々、俺が逃げるまで、護律官を貪るのに夢中になっていろ!)
アルフレッドが逃げる男の背を見送る。
「これで満足か、オオカミ女」
自嘲気な嘆息と共に、アルフレッドが呟いた。
その刹那、男の首筋に、獣の荒い息遣いが迫る。
「ひっ!?」
男は直感的に脚を滑らせ前後に開脚し、迫り来る気配から身をかわす。
頭上を見上げた一瞬、獣の瞳と視線が交差した。
人狼の巨体が男の頭上スレスレを飛び越して、壁に激突する。
鼻面を打って悶絶する人狼を置き去りに、男は身軽に体勢を戻し、一心不乱に逃げ走った。
「な、何だ。何で」人狼の娘は吸血鬼の餌食になったんじゃ!?「何がどうなって……!?」
混乱しながらでも、男の身体に染みついた動きで逃げに徹する。
玄関が見えた。人狼が背後に迫っている。男は走りながらボビンを吐いた。外側からドアノブを縛れば時間稼ぎになるはずだ。
ドアノブに手をかける。押しても引いても開かない。
血の糸が、ドアノブに雁字搦めにされていた。
「――ッ!」
男の小物じみた笑みが玄関に圧し潰された。
背中から衝突してきた人狼と玄関の間に挟まれて、ミシミシと背骨がきしむ。
一瞬の不意を突かれた出来事で、男に抵抗する暇もない。男はずるずると崩れ落ち、すぐさま、ヘーゼルによって羽交い絞めにされた。
男は薄れゆく意識の中「何て、間の……悪……」と言い残して、絞め落とされた。
捕獲劇はあっけなく終幕。ヘーゼルが盛大に息をつく。
「てめえどうせなら最後まで責任持てよ!」
「サービスしてやったってのに贅沢言うんじゃねえよ。第一、オヤジ狩りの注文は聞いてねえ」
意識の手前でエリーは、二人の口喧嘩を何とも言えない気持ちで傍観していた。
思い返しても、アルフレッドがヘーゼルに従った理由に、目星すらつけられなかった。
【こぼれ話】
アルフレッドに解釈違いを起こしかねない内容ですが、次で説明入ります。




