021 ピースサイン
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エリーの一言で男が激高し、事態が緊迫したときにさかのぼる。
エリーを下がらせながら、ヘーゼルは耳打ちした。
「アルフレッド、聞こえてんだろ」
ヘーゼルが思い描いていたのは、今朝のベッドの中での一戦前。東の空が白む頃に目覚め、エリーの頭が割れる瞬間を目にしたときのことだ。
エリーが危ない。意識を呼び覚ますよう、何度も肩を揺さ振り、エリーの名を呼ぶ。
「おはよう、人狼の小娘」
胸の中から見上げる瞳は、血に染まっていた。アルフレッドの覚醒に警戒するヘーゼルだが、アルフレッドは大人しく口だけを動かした。
エリーの致命傷を塞ぐには血が足りず、今すぐ補給したいこと。ヘーゼルは人狼の血が薄いため、それで間に合わせても良いこと。
ヘーゼルは見所があるから、一言断ってから血を吸うと決めたこと。
そして、余興。ヘーゼルが吸血と責め苦に耐え、エリーを汚さずに済んだなら、叶えられる限りの願いを一度だけ聞くという賭け。
ヘーゼルにしてみれば、どこまでが欺瞞かわかったものではない。
アルフレッドはエリーを傷つけて脅迫しているだけかもしれない。それに、エリーを汚さないという条件が釈然としなかった。
だが、母子の命にかかわる以上、血を与えるのはやむを得ないと思えた。ミキに助けを求めても、今の不安定な情勢がどう傾くのか見当もつかない。
エリーを助けるついでとばかりにヘーゼルは賭けを承諾した。
迂闊だった。
ヘーゼルはその賭けに乗って、汚すことの真意を思い知らされた。
力自慢が力負けし、一方的にもてあそばれる屈辱。チビだった頃以来の無力感は、成長したヘーゼルにとっては、その成長を根底から覆す危機であり、また試練でもあった。
耐え難きを耐え、抱え難きを抱え、叫び易しを善しとせず、それでも、ヘーゼルは間一髪で恥辱を忍んで賭けに勝ってみせた。
アルフレッドが淫靡な睦言を囁こうが、エリーの顔がヘーゼルの意地を支えたおかげだった。
苦労して得た賞品である。謝らせるために使うには勿体ない。使いどころを慎重に選ぶべき気紛れ。
今がそのときだ。
「負けたら言うこと聞く約束だろ。イーリャを助けてくれ」
【……オレは負けてねえ】
置いてけぼりのエリーでも、不穏さを感じる一言の後、アルフレッドはつけ加えた。
【テメエが勝手に勝った気でいるだけだろうが】
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「あとな、テメエ、これは賭けに見合わねえ願いだ。釣り合い取らせろ。後でオレの言うことも聞いてもらうからな」
「うげえ、後出しずりぃ」
口喧嘩の最中、アルフレッドがミキの首を放す。あれほど密集していた牙は融けて、血に混ざっていく。
手の平から、流出させた自分の血を体内へ戻していくと、滑らかなミキの首筋が露わとなった。首絞めの手から溢れた血の量に比して、傷は不自然なほど少ない。ほんの一か所だけ、小さな刺し傷が残っており、血が細く流れている。
血の糸から解放され、ミキは一息ついて肩を回した。
「いやあ、さすがは吸血鬼。擬態上がりの演技力は役者顔負けだね」
「胤族だ。……にしても、よくわかったもんだ。オレにその気がないことが」
男に恐れを植えつける演出に、口上にも歩様にも首絞めにも大仰な手間をかけた。ミキには露術で反撃する猶予があった。
無抵抗でいる女とも思えない。
ああ、とミキが受けて、思い出し笑いしながら理由を語る。
「人と獣を助ける……みたいなことを言っていたよね」
「それでか?」意外そうに眉を上げるアルフレッド。
ミキはおかしそうに首を横に振る。
「それで君が全員の注意を引いている後ろでね、床に倒れたはずのヘーゼルが、呑気にピースサインなんか送ってきたんだよ」
延々と引き笑うミキをよそに、ヘーゼルは「こいつ簀巻きにしようぜ。じゃねえと安心できねえって」とぼやく。アルフレッドは渋い顔で唾を吐く真似をした。
「あー……それよりもさ」さんざっぱら笑って、ミキは仮面の下を拭った。「今の、芝居に乗じてアタシを殺れたよね? 正直アタシには賭けだった訳だけれども、どうしてみすみすこの好機を逃したのかな?」
アルフレッドはヘーゼルを一瞥し、痛いところを突かれた顔をそっぽに向けた。
アルフレッドにとって、現状考え得る理想の環境は、エリーの孤立だった。
護律協会の監視下から抜け出すために重要なのは、徹底的にエリーを厄介者に仕立て上げ、護律官たちの猜疑心を煽ること。あるいは、エリー自身が勝手に傷つくように仕向けて、この環境から自ら離れさせること。
受動的であれ、自発的であれ、エリーを追いこむことが肝心だった。
エリーは誰にも歓迎されていない。いつ処分されるかもわからない。
そう思い知らせた上でミキとヘーゼルを始末し、後戻りできない状況に追いこむ。
すると、エリーが生き残るためには、アルフレッドに頼るしかなくなる。心の底から絶望させ、アルフレッドに依存させるシナリオでもって、アルフレッドは真の自由を手に入れる。
ヘーゼルとの賭けは、計画の嚆矢だった。
日中の活動は夜よりも体力を消耗し、意識を保つのも億劫だ。そのおかげであまり自由には動けず、打つ手もそう多くなかった。
だが、蓋を開いてみれば、まさかこう転ぶとは。
何が賭けだ! んなもん律儀に守る気なんざ更々なかったってのによ!
素直に謝罪にカード切りゃ良いものを、温存するわオレを虚仮にするわ! 最悪だ!
にしてもコイツらマジで、一朝一夕でガチガチに連携してんのは何なんだよ! 時間がねえから一朝一夕っつーんだよバカが! 何の冗談だよ!
人狼といい拝露教徒といい、どいつもこいつもポッと出の小娘一人相手に、常軌を逸した覚悟決めてんじゃねえよ! 人誑しっつってたなあ、あの殺し屋! 的中させてんじゃねえよ!
おまけに宿主自身も、下手を打てば自刃を仄めかすド短気ブスときた! 胎のガキのことまで忘れやがって、バッカじゃねえの!
こんなざまでどっちか一人でも殺してみろ! 宿主が孤立したところで、全力でオレの足を引っ張りやがるに違えねえ! でけえ事故でも起きねえ限り、孤立の道はジリ貧だ!
どいつもこいつも寄ってたかってオレの計画をパアにしやがって! クソが!
「何なに? 黙っちゃって、可愛いね。恥ずかしい理由なのかい?」
ミキが愉快げにアルフレッドの周りをちょこまかと動く。
コイツ、まさかオレの勝ち筋をわかってて、潰しやがったのか……!?
仮面の下は窺い知れない。アルフレッドは鼻で嗤い、不敵さを取り繕った。
「ダビデがサウルの上着の裾を切ったんだよ」
苦し紛れの言い訳だ。どうせ、この時代の人間は理解できない言葉に、本心を託す。
「誰と誰って?」
「これだから不勉強はよ」
殺せる相手をあえて見逃し、寝込みに忍びこみ、その裾を切るに留めて証拠とする。
今回の気紛れは、皆殺しから自由を得るまでのロードマップの再確認にすぎない。
状況さえ整えば、アルフレッドはミキを殺せる。今はその確認ができれば充分だ。
状況と運が味方につくまで、精々コイツらの紐帯を利用させてもらう。今はその方が、遥かに多くの血が見込める。
にやつくミキの視線に気づき、アルフレッドは死体置き場に運ばれていく男の方へ足を向けた。
「オヤジの血は趣味じゃねえが、コイツなら足腰立たねえくれえ吸っても構わねえだろ。それくらいの働きはしたつもりだぜ」
ミキは腰に両手を当てて「口が利けるくらいで勘弁してやってよ」と、冗談めかして言った。
アルフレッドが部屋に消える直前、ミキは名を呼び、引き留める。首の刺し傷が痒く、ポリポリと掻きながら。
「ありがとうね」
立ち止まってもアルフレッドは振り向かず「オエッ……まだ酒が抜けてねえぞ」とだけ言い捨てて、部屋に姿を消した。
簀巻きにした捕虜を収容したヘーゼルは、入れ替わり際に、悲し気な子守唄を耳にした。
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【年の瀬】
良いお年を!




