019 最初の朝餐 4/4:意図しない籠城戦
「あーもう、夜のこと、何て書きゃ良いんだよ」
日誌執筆に挑んだものの、すぐにヘーゼルは頭を抱えて食卓に突っ伏した。紙面にミミズののたくった跡のような線。ヘーゼルが挑戦した証だ。
「書き方ちゃんと覚えてよね。早くアタシに楽させておくれよ」
ミキが茶々を入れるも、エリーの眼差しから軽蔑が伝わり、咳払いで誤魔化された。
「さて、それにつけても診療録だよ」
推定妊娠週数を書き留めたところで、ペンが止まった。
『悪阻が見られる。十七週の推測を、十二、十三週に修正すべきか。少なくとも安静に』
更に縮まった妊娠週数を目にすると、エリーの胸が重くなる。
アルデンスが父親だという夢に、いよいよ別れを告げないといけない。
理不尽だ。理不尽な説得力だ。
この羊皮紙に、エリーの身体についてが記されている。人間の身体とは、びっしりと詰まった文字の羅列でできているのではないかと思える緻密さだ。
けれども、これはエリーの全てではない。
「ミキさん。的外れなことかもしれませんけれど……」
「何かな? 言ってごらんよ」
「今朝の夢で、アルフレッドから聞いた話なんですけれど……」
アルフレッドが要求した血液の量と、要求する根拠のこと。そして、吸血鬼に含まれる始祖の血のこと。
重要に感じた話を、エリーは自分の見解と共に伝えた。
アルフレッドに妨害されないか冷や冷やしたけれども、どうやらミキに恐れを成したらしく、すんなりと打ち明けられた。
一通り話し終えると、ミキは両肘を食卓に突き、思案げに指を組んで顎を乗せた。
「おおよそ、筋は通っているね。アタシの予期したリスク要因とも概ね合致している。アルフレッドなりにエリーさんの身体に気を遣っているのも、あながち嘘じゃないのかもね」
嘘だと言ってもらえると期待していた。
アルフレッドの言ったことが全部本当なら、エリーの命は絶望的だ。
「ただし、嘘をつく余地を見つけちゃったよ」
俯けた顔を上げるエリー。ミキは姿勢をそのまま、指を一本立てた。
「一つ。エリーさんがアルフレッドを追い出したいように、アルフレッドもさっさと出て行きたい」
「出て行きたい? アルフレッドが、ですか?」
エリーの身体で好き放題してくれた吸血鬼である。水を克服したし、この状態を楽しんでいるようにしか思えなかったけれども。
ミキは「ちっちっ」と立てた指をぎこちなく振る。組んだ指を解けば良いのに。
「アタシの知る限り、吸血鬼が人間に寄生した事例はないよ。あっても表沙汰になってないんだよね」
何しろ、寄生した身体は人間のまま。吸血鬼が表に出ない限り、水はおろか銀も太陽も効かない体質を獲得できる。
この体質を獲得するメリットは計り知れない。誇張抜きで吸血鬼の悲願なのだ。
けれども、それなら何故、寄生の前例が見られないのか。
「思うに、吸血鬼側にその発想がなかっただけか、人間の身体の中に長く留まると、メリットを帳消しするほどのデメリットがあるんじゃないかな。それが何かまではわからないけれども」
アルフレッドの言葉を信じるなら、意図せず宿主が吸血鬼化するリスクが当てはまる。
「じゃあ、ミキさんも言っていたように、表沙汰になっていないだけかも」
「その可能性は極めて低いと見ているよ」
「何か理由があるんですか?」
「そうだとしたら、人類社会は今頃大混乱だからさ」
弱点のおかげで判別できていた吸血鬼が、怪しい点の一つもない隣人の中に潜んでいるとしよう。
吸血鬼の被害者は増える。しかし尻尾は掴めない。
そんなある日、ふとした弾みで寄生の事実が明るみになる。
今、お天道様の下で大手を振って歩いている知り合いが、吸血鬼を飼っているかもしれない。
世界中が疑心暗鬼に陥るほどの恐怖が解き放たれる。
史上最大規模の殺し合いへ発展するのは、想像に難くない。
「幸い、その手の不可解な吸血鬼被害は報告されていない。これが理由。それに、たとえ裏でこそこそ広がっていたとしても、混乱が起きていない以上、実態は案外地味そうな予感がするんだよね」
人類社会の混乱。
ミキの一言は予想だにしないスケールで、知らない間にエリーは息を止めていた。思い出したように息を継ぐ。
「つまり、アルフレッドは、出て行くための力を一刻も早く蓄えたいってことですね」
ミキが二本目の指を立て「ちっちっちっ」とぎこちなく振る。
気に入ったのかな、その仕草。
「そこでもう一つ。アルフレッドも出て行きたいのは山々だけれども、訳あって出て行けない可能性」
「チャンスがなかっただけじゃ……」ありませんか。
エリーの声が次第に小さく、途絶えていった。
(……違う。チャンスなら、いくらでもあったはずよ)
廃墟でエリーは、ヘーゼルに背負われていた。
あのときのエリーもヘーゼルも、今にして思えば隙だらけだった。
修律士の祭服に銀糸が縫われていても、潜伏状態なら火傷を負うことはない。
亜人の血を嫌厭するアルフレッドだが、ヘーゼルの血は何故か自発的に吸おうとした。ヘーゼルの体質であれば乗り移る見込みも立つはずだ。
殺し屋たちと遭遇したときにしてもそうだ。このときはおまけに、鳥人もいた。
鳥人の血は合わないと言っていたけれども、何も乗り移るだけが使い道ではない。
鳥人は、その翼にこそ価値がある。
鳥人の仲間が、あの場には二人いた。
どちらでも良いから一味の体内に潜伏し、鳥人に運搬してもらえば良い。そうすれば、即座に護律協会の支配下を離脱することだってできた。
禁域で小競り合いする暇があったなら、とっととエリーを乗り捨てた方が得だった。
なのに、そうしなかった。
天敵である護律官の目を盗んで脱出できるチャンスを、狡猾なアルフレッドが逃すとは思えない。
何故アルフレッドは、これらの好機をみすみす見逃したのか。
エリーの肉体に甘んじるのは血が足りないからだと、アルフレッドは言っていた。
単に血液不足が原因で他者の肉体に移れないというのは、よく考えればおかしい。
それでは、現に貧血のアルフレッドが、崖から転落して瀕死に陥ったエリーに寄生できたことに説明がつかない。
(アルフレッドは、嘘をついている)
あるいは、まだ何か隠している。
「多分、アタシもエリーさんと同意見だよ」
ミキが頃合いを見て口を開いた。今の話を診療録に書きこむリズムが耳に心地よい。
「おまけにもう一つ。何故アルフレッドはエリーさんの自我を残したか。間違いなく、快適な寄生生活で最も不要なもののはずだよ」
「不要なものって」
「ごめんごめん。あいつの立場から考えれば、って話ってことで一つ。結果的にエリーさんの意識が優勢だと吸血鬼の弱点を突けなくなっているけれども、このメリットを最初から知っていたかどうかで話が違ってくる」
「寄生のメリットを知っていたか……」
エリーはぼんやりと思い出した。
惨劇を目の当たりにして心が衰弱し、アルフレッドに身体を奪われたときのことだ。
「そう言えばあいつ、自分からヘーゼルのナイフに触って火傷していました。その後、水に触れるだけなのに、不自然なくらい慎重になっていた気がします」
「ふむ。銀と同様に水の弱点が残っていることを危惧していたと」
ミキが考えをまとめるように呟いた。
「だとしたら話は早いね。この状況は、アルフレッドにとっても異例……意図しない籠城戦なんだろうね」
「籠城戦……」
「吸血鬼の人体寄生は、アルフレッドにとっても未知の領域だった。だとすると余計な操作には慎重にならざるを得なくなる。下手に脳をいじってしまうと、どんな不利益が生じるか予見できなかったんだ」
脳は自我を司る部位でもある。そこに手を加えればエリーを操り人形にすることだってできる。
しかし、アルフレッドは手を着けなかった。
身体機能を保全するためには、その脳の統制が必須だ。
身体機能はともかく、脳機能はアルフレッドにとって未知の部位だった。
だからこそ、頭の傷を塞ぐのにさえ慎重を要する。失敗すれば後戻りができないので、気を抜けば傷が開くような、最小限の治癒に留めている。
「放っておけば死ぬところをわざわざ蘇生させたのは、身体機能を維持するのが負担だったからでもあるんじゃないかな。一時的にでも元の持ち主であるエリーさんの脳に、その仕事を押しつけた方が本人は楽だろうしね」
自分の生き死にを合理性から語られて、エリーは閉口した。
「ひとまず、アルフレッドは肉体の乗り換えを視野に入れてエリーさんを泳がせていたとしようか。けれども、いざチャンスが巡ってきても、何故かできない。焦るだろうね。結果、当面はエリーさんの身体でやりくりするしかなくなる。幸い、条件付きで弱点は克服できている。おあつらえ向きに人質も多い。すると、結論は……」
「……籠城戦」
一時的に、部分的に弱点を克服しても、胎児の命も、エリーを生き延びさせなければ台無しになってしまう。
エリーの生存はアルフレッドの生存戦略に欠かせなかった。
そうして生かしておいたエリーを有効活用するために出した結論が、血を備蓄し、脱出の糸口を掴むまで時間を稼ぐこと。
それが、アルフレッドの狙い。
「私、ずっと綱渡りで命拾いしてたんだ……」
ぞっとする話だ。採光窓の斜光がミキの銀仮面に差す。雷雲のレリーフを眩くきらめかせていた。
「そこにつけ入る隙がある、とアタシは見ているよ」
綱渡りの命拾いでも、奇跡が連発すれば、アルフレッドの思惑が前提から破綻している証左となる。
エリーの体内でアルフレッドがどんな影響を受けているのか。その解明が突破口となるかもしれない。
エリーにとって、そして胎児にとっても、一筋の光。
「ひとまず、情報の収集と整理だね。学生時代の伝手も当たってみようかな。仮説を立てて実証するのは、追々ということで。今は一緒に頑張っていこう」
心強い提言にエリーは目に光を湛えて「はい!」と力強く応えた。
同時に、それにしても。と思う。
ちょっと話を聞いただけでこれだけ考えられるミキさんって、何者なんだろう。
「あー、ダメだ! ……な、エリー、寒くねえか? 抱っこいるか?」
エリーをだしに日誌から逃げたヘーゼルは、返事を待たずにくしゃみをした。
「やだ、今度は風邪?」とエリー。
「起きてからずっと鼻詰まってるだけ。少し」鼻をこすって、啜るヘーゼル。
「エリーさんに移したら、ただじゃおかないよ」とミキ。
移す。エリーは嫌な予感を覚えた。
「あ……どうしよ。今朝の、その、あれで、口、くっつけて」
ヘーゼルはぽかんと口を開いた。
何もわかっていないヘーゼルに「それ、めちゃくちゃ移っちゃうやつ」だとミキは説明した。
「うわうわうわ、どどどどうす、どうすりゃ良いんだ若隠居」
青褪めたヘーゼルはいてもたってもいられず、ダイニングをわたわた小走りする。
ミキが席を立つ。「ダイコンとショウガ、残ってたかな」と食糧庫の方に行く。
「ハチミツと混ぜて喉渇くくらい呑めば予防できる、かな……? どうだろ?」
ミキが倉庫部屋の扉に手をかけ、開くと同時だった。
きゃあ! 待機室から何かが倒れる音と共に、悲鳴が届く。
思わずエリーは、走るヘーゼルを掴まえて抱き寄せた。
「ああ、もう交代の時間か」
平然と口にするヘーゼルが信じられなかった。
女性の悲鳴だったのよ?
ミキに半ば助けを求めるつもりで、エリーは声を荒げた。
「何ですか今の!」
「ああ、安心して。いつものことだからね」
廊下に出る方の扉に向かいながら、同じく平然とミキが言う。
出て、待機室の方へ声を張る。
「イーリャかい? 大丈夫? すごい音したけれど。良い加減、眼鏡を作りなよ。危ないよ」
「イーリャ……? 誰なの?」
「自分と同じ……や、一個上の修律士」
そう補足するヘーゼルは、何故か気まずそうな顔をしていた。
仮眠室の片づけが済んでいないからとかかな、とエリーは邪推する。発散した後に入られるのは嫌だよね。
「なんっ! なんっ! ですかっ! これっ! もう、嫌だ!」
待機室からヒステリックな怒号が轟く。
声圧に飛ばされるかと思い、エリーと、何故かヘーゼルも、お互いを抱き締め合った。
「こんなところに誰ですか! こんな物を置いて!」
「あらあら、無事かい? 検尿は……」
ミキの心配の矛先が間違っているのが、いけなかった。
「けん、にょ……おしっこ!? これ!? 嫌だ、何でこんな、無造作に!? 誰が……ああもう入ってしまったじゃありませんか! 汚らわしい! 何て酷い臭い……ヘーゼル!? ヘーゼルですね! あの駄犬! 今日という今日はただじゃおきません!」
「違うよ? イーリャ? 待とう? 汚れ広がっちゃうって」
湿った足音はミキの制止を聞き入れず、がっぽがっぽと真っ直ぐダイニングへ迫り来る。
「皆までおっしゃらなくて結構! どなたの検尿か存じませんが、貴重な検体を粗雑に扱う愚か者は、あれだと相場が決まっています!」
「いやあ、そうじゃなくってえ……」
別室の扉が、跳ね開けられる音で、壁が揺れた。
天井から煤が降る。
「どこに隠れているんですか! 出ていらっしゃい! コシノフ家の女を愚弄して、逃げられるとお思いですか!」
エリーの血の気が引いた。
「やっ……ちゃっ……たあ……」
ヘーゼルは激苦な顔をした。
「やっべえ」
「“入るな”……!? ふざけるのも大概になさい!」
隣室の扉が、跳ね開けられる。
二人で顔を見合わせて、キッチンの隅でガタガタ震えるしかできない。
二人は、すぐそばまで迫る審判の時を待つのだった。




