019 やんなっちゃうよ
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容赦ないなあ。やんなっちゃうよ。
元崖上の見張り、今や囚われの中年男は、心でぼやきながら足を口へ突っこんだ。
護律官に氷漬けのまま放置され、あわや凍死寸前のところで、人狼の女に助けられた。その後は護律協会の拠点に連行され、身ぐるみ剥がされ、尻の毛まで調べられ。
今はこうして、仲間と標的の同行者の死体と一緒に空き部屋に閉じこめられて、柱に縛りつけられている。
身重の妻を待たせている男が受けて良い仕打ちではない。
なので、ここらでお暇といこう。
護律官の尋問が終わり、男への注意が途切れたところで行動開始。腕より足の拘束が甘い。足首関節を外し、ブーツの中を滑らせて、縛縄から抜け出す。抜けたら、関節をはめ直す。
柔軟さを活かし、足の指で差し歯を抜く。歯根に極細の剃刀を仕込んでいた。
後は落とさないように、焦らず、根気強く腕の縄を切る。
腕一本さえ自由になれば、後は早い。が、あまりがさごそと音を立ててもいけない。護律官の不審を買えば、これまでの苦労が水の泡になる。
この建物には今、男の他に三人しかいない。急いで拘束を解くのは全員が一か所に集まったとき――隣はキッチンか、朝食を作る気配が伝わった。男に食事が回るとしても、全員が食べ終わった後だと決めつける。
チャンスは朝食の時間。そこで一気に蹴りをつける。
賑やかな食卓の隣室で、黙々と残りの縄を切る男。
計画通りに拘束を解くと余裕ができた。部屋を物色するが、死体以外は何もない。柱に打たれた釘を抜けば使えそうだが、音でバレる。装備は服ごと持ち去られてしまっている。ちなみに今の服装は、詰所の泊まり着である。
キッチンが騒がしくなった折を見て、みぞおちに拳を埋めた。えずいた男が指先大の小さな筒を吐く。それに仕込み剃刀の歯を方をつけて握りとし、即席の護身具を作った。
護律官相手には気休めにもならない武器だが、あればあったで使いようはある。
窓から出るか。いや、キッチンに勝手口があるのだろう。直接外に出る気配――エリーが炒め玉ねぎを冷やしに出る気配――があったと思い直す。玄関側の地形は連行時に把握したが、この部屋の窓の外は男にとって未知の光景だ。
堂々と玄関から出てやろう。
結論に従い、ドアノブに手をかけた瞬間だった。
「“入るな”……!? ふざけるのも大概になさい!」
扉が跳ね開けられ、いるはずのない四人目と鉢合わせたのは。
「……あら? お騒がせしました。ところで、どちら様……?」
剣幕が緩んでも、殺し屋である男さえ怯むような眼光を向ける乙女。だがむしろ、男にとっては慣れた目つきであった。それに何故か、文字通り小便臭い。
女の手首を捩じり極め、廊下へ踊り出る。
†
「きゃっ!? いきなり何を……放しなさい!」
「これが何だかわかるなら大人しくしろ!」
「ひっ!?」
キッチンの隅で怯えていたエリーとヘーゼルでも、異変を察知できた。二人とも気が逸り、キッチンを飛び出した。
ミキの構えた背中が目に飛びこんだ。
「イーリャ!」
吠えるヘーゼルに「二人とも下がってね」とミキが止める。普段の余裕に緊迫を添えた声だ。
ミキの肩越しに、見知らぬ修律士……イーリャを拘束し、喉元に何か鋭い物を当てた中年男が見えた。男は焦りを顔に出し「俺って本当に間が悪い」と後悔を声に滲ませている。
「お、おい!」男の声が震えている。「動くなよお前ら……特に護律官! あんたは特にだ! 違和感覚えたらすぐ、こいつの喉を切るぞ! こっ、こんなのでも、頸動脈くらい一発だからな!」
男の手に小さな剃刀が握られていた。その刃がグッと、イーリャの首肉に埋まるほど強く押しつけられる。「ひっ……ひっ……!」恐怖一色の表情で、イーリャは浅い呼吸に喘いでいる。
「わかった。わかったよ」ミキは両手をだらりと挙げる。「もう一度、話をしようか」
「もう全部話した! 俺はもう降りたんだ! だから帰る! あんたらの露術の効力範囲外まで、この子は預かる! それまで全員、ここを動くな!」
修律士が懇願するようにミキに目配せする。ミキは深呼吸した。
「恐れ多くもそちらのご令嬢は、ジキニア公国連邦大公陛下より、栄えある旧ラムシンケ伯爵領再開拓の任を賜った、ゲセカ卿のご息女であらせられる。卿はこの地の開拓の功を挙げた暁には男爵位を賜る御方である。すなわち貴殿の刃は、不遜にも我が連邦の未来に向けているものと心得よ。それでもなお畏れぬならば、覚悟したまえ」
厳粛な語勢に狼狽した男だが、やけくそ気味に踏み止まった。
「言っただろう! もう任務なんて知らん! この子も、そこの標的だって、金輪際、誰も殺したかないんだ! そもそもこの任務だって、引退した俺の知ったことじゃない! それなのに間が悪いばっかで! 金払いも良いし、これっきりでもう付きまとわないって約束だったから!」
激高する男の腕の中で、イーリャのくぐもった悲鳴が悲痛だった。
任務、そして自分を標的と呼ぶこの男――エリーは彼が捕虜だとようやく気づいた。
「待ちなさい」エリーがミキの背後から声を張る。「あなたの狙いは私でしょう。その人は無関係よ。人質なら私にしなさい」
「うるさい!」
思った反応と真逆で、エリーはうろたえる。
「お、俺をバカにしやがって……あ、あんただって露術を使えるじゃないか! その手には乗らないからな!」
そうだった。エリーが露術の使い手だと証言したのは、この男でなければおかしい。加えて記憶喪失のことも伝わっていないようだ。エリーは食い下がる。
「で、でも触媒? が、要るんでしょう。私、今は持っていないわ。露術なんて使えない」
「だとしても、一瞬でも刃を離した隙に、そっちの護律官がどうだってできる! 俺にはわかっているんだ!」
「エリーさん、余計なこと言わない」ミキが早口で諭す。「ヘーゼル、エリーさん見てて」
ヘーゼルはエリーに声をかけてなだめ、肩を掴んで引き寄せる。ミキが続ける。
「そもそも、そちらのご令嬢も修律士の端くれでね。彼女が露術を使えないとでも思っているのかい?」
男が瞬く間に愕然とするも「いや! できない! 私できないです!」悲鳴めかして「助けて、教官!」とイーリャが叫び、男はひしゃげた笑みを返した。
心が折れていては、たとえ触媒があろうとも水滴一つ浮かべやしない。
「だとさ護律官! どうした! 黙ったままなら痛い目見せてやる!」
エリーの介入で、中年男の呼吸が乱れている。本来標的でしかないエリーが、自分の隙をこじ開ける罠にさえ見えるほどの疑心。粗末な剃刀を握る手は力んで震えており、今にもイーリャを裂きそうだった。
(まずいね。錯乱している)
ミキが歯を噛む。露術で男を無力化することは造作もない。しかし、今の男なら意識が落ちる前にイーリャを道連れにできる。ヘーゼルは万全ではない。
さすがに見逃すしかないか。しかし、イーリャの無事を保証してくれる材料がない。
【
ミキが考えていると、にわかにイーリャと男が目を奪われたように背後を見ていた。
直後に床が揺れる。
ミキの背後で、ヘーゼルがどうと倒れていた。
倒れたヘーゼルを、見下ろすようにたたずむエリーが、口元を拭って振り返る。
「ざまぁねえな。拝露教徒」
振り向いた口と目を血に濡らし、アルフレッド・ヴァルケルが凶笑する。
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【地名について】
ラムシンケだかラムシングだかごっちゃになってますが、実際作中ではごっちゃになってしまったという地味な設定です。旧地名のラムシンケが訛って、新地名のラムシングになりましたとさ。




