017 診療録
食後の片づけはヘーゼルに任せ、エリーはお茶を飲んでくつろいだ。
対面で、ミキが羊皮紙に羽ペンを走らせている。
「何を書いているんですか」
「エリーさんの診療録、みたいな物」
わざわざエリーに料理を頼んだのは、記憶の状態を確かめるためだったらしい。
料理を作る手際を通して作業記憶を測り、食材名や器具名から意味記憶、エピソード記憶は殺し屋の尋問内容で、ついでに下ネタという概念の理解度でプライミング記憶というものも、ある程度わかる。
今のところ、意味記憶の一部とエピソード記憶以外に、これといった欠落は見られない。
エリーの知らない世界の話だった。
「エリーさんは崖から落ちたし、妊娠初期だから本当は家事労働をさせたくなかったんだよ。けれども、抱えている問題が山積みだったし、一個ずつクリアするためにどうしても必要だったのさ。無理を聞いてもらってごめんね」
感心するエリーに「ちなみに下ネタどうこうは嘘だよ」と要らぬ茶目っ気を暴露する。「と言うより、アタシ自身がプライミング記憶の定義を今一つ理解できていないだけだよ」
「ミキさんは、お医者様でもあるんですか?」
エリーの素朴な問いに照れたように、ミキはペンをインク壺に差し、曖昧に頬杖をついた。
「これまでに知識を活かして病人や怪我人を癒したか、って意味なら、違うね。ただの下手の横好き」
「でも、妊婦さんのお世話を」
「妊娠と出産は間違っても病気じゃないよ。命懸けではあるけれど。だから、どっちかっていうと助産師かな。アタシの感覚だと」
多才だ。思わず声にしてしまい、ミキが調子に乗って「もっと言って」とせがむ。
「カルテかカラテか知らねッスけど、日誌も忘れちゃダメッスよ若隠居」
食器洗いを終えたヘーゼルがポットからお茶を注ぎ、二人のおかわりも注いで席に着く。ミキは腰に手を当て、ふんぞり返った。
「たわけた弟子め。日誌なんかアタシにかかれば瞬殺だよ」
食卓の脇から日誌を取り、左団扇で仰ぐミキ。
さすがミキさん。ここぞで決めるがモットーなだけある。
エリーの感心をよそに、ヘーゼルが日誌をひったくって、内容を見せてきた。ペラペラとめくるページには「異常なし」の報が目立つ。
最新の内容は「異常あり。混迷を極めるため、詳細は後日記す。執筆者:ミキ・ソーマ」
余白が清々しい。
「ミキさん、これはさすがに……」
「何だい? 間違ったこと書いているかい?」
「どう見ても手抜きスよね」
「そうとも。合理化とも言うね。アタシはそう言ってくれた方がエレガントで好きだよ」
「若隠居」項垂れて、ヘーゼルは頭を掻いた。「普段は本当にのどかなもんだし、見逃してもらってッスけど、今日ばかりはちゃんと書かねえと……」
「バカ言っちゃいけないよ」
とんでもない、とばかりにミキは声を大にする。日誌を取り返し、指し棒代わりに振るう。
「エリーさんの正体に、置かれた状況、体調、殺し屋たちの目的その他色々。調べ物だらけで人手も時間も、いくらあっても足りないくらいなのにさ」
「そ、それはそうかもしんないスけど」
「じゃあ君、仮に、仮にだよ。日誌なんかにかまけて重大な事実を見落としたせいで、エリーさんが危機に陥っても、遵法には代えられなかったってえ言う訳かい」
何でちょっとべらんめえ調になっているんですか。エリーは心の中で突っこんだ。
「うう……そ、そう言われちゃ、弱いッスよ」
「どうしても気になるなら君、書いてみたまえよ。手、出して」
ポンと、ヘーゼルに日誌が託される。
「ええ、自分、字下手……」
「今のさ、君、ひょっとして、勘違いならごめんだけれど、字が下手なことと、エリーさんの命、天秤にかけるってえ意味かい。まあ本当? 嫌だねえエリーさん今の聞きました? この子ったら血も涙もござぁせんよ」
ヘーゼルが半泣きでおろおろしている。エ、エリー、自分、全然そんな。
「わかってるから、大丈夫よ。……もう、ミキさん、やめましょうよ。大人げない」
「まさか。アタシは至って真面目だよ。ヘーゼルも良い加減、文字の読み書きに向き合わないといけないんだからね。愛の鞭さ」
「だからって」この人時々信じられないくらいカスになるな……。
「うう、良いッス、エリー……。自分、頑張るッスから……」
タメ口の切り替えすら間に合わないほど切羽詰まったのだろう。エリー相手にもたどたどしい敬語のままだった。
「そうだよ。日々勉強。良い機会だからやってごらん」
「お手本がこれじゃあねえ……」内容といえば「異常なし」ばかりの日誌を見るエリー。
「何か言ったかい」
「いいえ」含みをたっぷり持たせて、エリーはお茶を飲んだ。
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