柘榴宮2/2
タリスは人目を忍んでブリジットを柘榴宮内の私室へ連れこんだ。
密談。タリスは露術で扉を凍らせる。
ブリジットがひざまずき、報告を奏上していく。
報告を聞く内に、タリスは耳を疑い、愚弄された気になって反論を挟む。しかし、ブリジットは食い下がって報告を続ける。
タリスの目は血走り、見開き、歯ぎしりした。手近にあった水差しを取る。
「ブリジット」喉の震えを堪えて、タリスが呼ぶ。「面を上げなさい」
ブリジットの顔面に水を浴びせる。水差しの口から滴る残り水が尽きるまで、頭頂に垂らし続ける。
「叔母、上……」
「無礼者」
タリスに威圧され、ブリジットが首を縮める。ブリジットの顔から顎へ水が伝い落ち、水溜りに無数の波紋を生んだ。
ブリジットが視線をタリスの足元に泳がせる。タリスが苛立ちを露わに、しかし歩み寄るのを装って、踵を鳴らした。
「大公妃と呼べ」
水が冷たい。ブリジットの震えが止まらない。
「露術の行使は許さぬ。妾が良いと言うまで濡れておれ」
護律官――水を自在に操る露術師にとって、濡れネズミとは未熟さの代名詞であり、屈辱であった。
ブリジットは沙汰を待つ。屈辱を味わうのも畏れ多く、生唾を呑む。タリスは勝手に喚こうとする口を強いて抑制し、声を静めた。
「二度は命じぬ。妾が下した命令は唯一ぞ。ジキニア大公、その血筋の安寧を真に守れるのは、我らカー家を置いて他にない。その威信、一族郎党の身命。我がジキニアの、真の栄光に比べるべくもない。全てを賭してでも、我が命を遂行せよ」
「し、しかし……申し上げました通り、私は叔母……っ大公妃殿下の……!」
ブリジットの浴びた水が冷気を帯び、肌に髪に、産毛の一本にまで霜が降りる。ブリジットが声を詰まらせ、ガタガタと震える。
「くどい。世迷言を繰る暇があるならあの者らを追え。立ちはだかる者あらばカーの“嵐”を知らしめよ。直ちにだ。……それとも、諍いの種をこの世に残すつもりか」
底冷えする空気が、ブリジットの息を白くする。眼球表面の粘膜が凍結し、虹彩を、瞳孔に霜を侵食させ、ブリジットの視界が白んでいく。
「……露術の行使を許可する」
許しが下りるや、ブリジットが霜に命じる。霜は瞬時に昇華した。霜は温かな湯気となり、寒暖差でブリジットがえずいた。
首を絞めて息を整えるブリジットの前に、タリスが膝を折る。タリスは息を荒げて上下するブリジットの肩に、そっと手を置いた。
先の冷淡さが嘘のような、姪を頼るような目。儚い目だ。
「ブリジット、あなたが頼りです。どうか、よろしくお願いします」
その豹変が恐ろしく、ブリジットは吐息とも平伏ともつかない返事を漏らした。タリスが弱々しく微笑みを含め、袖からザクロをブリジットへ差し出した。
「食事がまだでしょう。出立の前に食べていきなさい」
春のような中庭で、女官たちが和気あいあいとザクロを食べ、ときに戯れで隣の女官に「あーん」と食べさせる。
一方、底冷える妃の部屋でブリジットは、申し訳程度にその実を一口含んだ。
味なんてしなかった。
「……行って参ります」
「次は、良い報告を期待します」
「はっ」
ブリジットが部屋を辞し、一人静まり返る中、タリスは卓に着いて半端に残ったザクロを裂いた。
深い紅玉色に艶めく、粒立ちの良い果実。タリスはそれを一つまみもぎり、口にした。
プチプチとした歯触りの後、甘酸っぱい果汁がジュワッと広がる。果実が思わぬ弾け方をして、口から赤い汁がツツ……と垂れた。
(あと少しだった……)
咀嚼する間が手持ち無沙汰だった。ザクロをもぎり、卓に置く。
あと少しでだった。あと少しでだったはず。あと少しでだったはずなのに。
――タリス様。
タリスの脳裏に、彼女の顔が浮かぶ。
儚く、色が薄く、鳥籠に閉じこめていなければ雪と共に春の景色に解けてしまいそうな女。
その女が禁域で、エリーと名付けられたことを、タリスは知らない。
「あと少しあと少しあと少し……」
ぶつぶつとタリスは呟いて、卓に並べたザクロの実を、固く握った拳で一心不乱に押し潰していく。
「あと少しあと少しあと少しいいいぃぃぃいああああぁあぁぁぁあっ!」
タリスが苛立ち、思わず振り上げた拳を、血溜まりの様相と化した卓に叩きつける。
タリスの顔に、服に、床に……ザクロの果汁が無秩序に飛び散った。
タリスは卓に突っ伏して、咽び泣いた。
「赤ちゃん……私の……私たちの赤ちゃんがやっと私の元に……なのに、なのにあの子……あの子が……!」
春の陽気を先取りした箱の中庭で、ザクロの赤い果汁を口の端につけた女官たちが、みちりと新しいザクロを裂いては、赤く染まった指先で果肉を千切り、指ごと舐って堪能していた。
女官たちは束の間、憂さを忘れたように言葉を交わし、笑い、うっかりザクロを袖に、胸元に、膝元に、敷物にこぼし、鮮烈に赤い果汁を飛び散らせる。
「どこだ……薄汚い、裏切者が……!」
†
扉を挟んで、ブリジットがタリスの狂態を背に浴び、耐えていた。
(お労しや、叔母上……)
ブリジットは足音を殺してタリスの私室から離れる。
内々にとはいえ懐妊を発表したあの日以来、タリスの憔悴は抑えがたい域に達している。
とはいえ、腹心を相手の気安さがあったとしても、何もかもを代償にするようブリジットへ求めるなど、常軌を逸している。
(しかし……何だ、この違和感は)
確かにタリスは、普段よりも取り乱している。
以前のタリスではないと覚悟して臨んだブリジットだが、依然としてタリスの飴と鞭の使い所は適格だった。
叔母の正気を、今の対面で測りきれなかった。消化不良で胸焼けする。
(いや、いずれにしても、腹は決まった)
タリスの正気は、誰にも保証できない。ふとした弾みに、タリスが判断を誤らないとも限らない。たった今、そう思い知らされた。
ならば、今後、いかにタリスの命令であっても、その是非はブリジット自身が評定する。
ブリジットはカー侯爵の娘である。その責務は、ジキニア公国連邦の安寧を守ることにある。
タリスの意思がジキニアの利益に反するならば、またその意思がタリス自身の首を絞めるものならば、ブリジットはあえてその意思に反しよう。
ブリジットの独断で万事上手く決着すれば、連邦は安泰。ブリジットが処分されれば良い。
万が一、その独断で連邦を傾けてしまおうものならば、潔く反逆者の烙印を受けよう。
左肩のペリースに触れる。カー家の家紋に、“嵐”に誓う。
ジキニアに栄光あれ。
†




