柘榴宮1/2
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ジキニア公国連邦は春を目前にしてなお寒く、人々は春を心待ちにしていた。
その厳寒の国の中でも、大公領ハービンジャーズスローンに熱気が絶えることはない。
同地は豊富な泉源を有する温泉地。その豊かな源泉は、先の地殻変動から劇的に湧出量を増している。
特に多くの湯が湧く大公の居城から城下町までは楽園と称されるほどで、同地は地熱の恩恵に浴し、温暖な気候に恵まれていた。
大公の居城の一区画に、柘榴宮――いわゆる後宮がある。
その日、柘榴宮の女官たちは、大公に献上するため、毛皮のマントを仕立てていた。
しかし、素材が悪い。
当初は良質な毛皮で、と話が進んでいたものの、大公陛下が待ったをかけたのだ。
「毛皮は国境に融通せよ。極寒の地で国難に立ち向かう彼らを差し置いて、湯の都に座する余が温もる? 余を虚弱と侮るか」
そこで大公陛下は、献上される予定だった毛皮に加えて、市井を圧迫しない程度に新しい毛皮を追加購入し、国境に赴任した者たちに下賜した。
となると今度は肝心のマントの素材をどう調達するかが問題だ。
大公陛下は代わりに、前線から廃棄予定の毛皮製品を献上するように求めた。
「各々、余に忠を尽くした証をここに示せ」と。
大公陛下の勅命は国境のみならず貴族諸侯にまで伝わり、そのご意向に感銘を受けた諸侯からも毛皮が献上された。
しかしながら、大公陛下は貴族の腹などお見通しで「国境への支給品が手違いで届いたようだ。代わりに送り直しておいた」と書状をしたため、ゴマすり貴族たちの肝をお冷やし遊ばされた。
結局、貴族からの貢ぎ物も端材であったり、ハンティングトロフィー用に仕立て損ねた獣の頭部など、使いにくい物ばかりをお集めになった。
どれだけ体裁を取り繕おうとも、おぞましく歪で、みすぼらしい仕上がりになるのは避けられないだろう。
だが、大公陛下は、各地から集まった毛皮を見てこうおっしゃった。
「見よ。臣より百獣が遣わされた。余は果報者だ」
何と善き大公陛下であることか。彼の御方に仕えられることは、氷に閉ざされゆく御世における数少ない幸福だ。
この上、大公、大公妃ご両名の宿願が果たされようという折である。
必ずや、お応えせねばならない。
女官たちは心を一つにして、百獣の外套を、百獣の王に相応しい装いに近づけていく。
ボロの毛皮は埃を払い、洗剤と獣毛脂を蕩かせたぬるま湯で洗い、乾かし、櫛を通して毛並みを蘇らせる。
獣の頭部は、造形を損なわないように口や耳の穴を縫い閉じて、ガラスの義眼が残っていれば引き抜いた。
裁縫部屋がノックされた。女官たちは作業に集中しており、聞き逃す。
訪問者は構わず勝手に入ってきた。
「精が出ますね」
凛とした声に、女官たちの背筋が伸びた。注意を集めると見るや、訪問者は再びトントンと、開いた扉をノックする。
「タ、タリス大公妃殿下!」
次々と女官たちは作業の手を止めて起立し、お辞儀をしてタリスを迎える。
ジキニア公国連邦大公ヘンリー、その妃タリスは“嵐”と畏怖されるカー侯爵家の出である。
一部の隙もなく編み上げ、撫でつけた御髪。目の下の隈を化粧で隠し、疲れを微塵も感じさせない眼光を放っている。
ガラスの義眼が、作業台を転がる音さえ聞こえる静けさ。台から落ちかけたのを「あっ」と間一髪で、ある女官がキャッチした。
咎めるような視線が集まる。ガラスの義眼を両手で握り締め、女官が肩を縮めた。
タリスは微笑んで片手を挙げた。
「楽になさい……。すみませんね、みなさん。手を止めさせて」
こういう、温和なお人柄だと存じ上げていてもだ。「と、とんでもないことにございます!」
「それより、どうしてタリス様がこのような所にお越しに……」
柘榴宮は大公夫妻の後宮とはいえ、宮内には女官らの仕事場も多数ある。裁縫部屋もそうした貴い御方の御目に触れるのも畏れ多い場所だった。
タリスは赤らむ顔を女官らから反らし、口元を袖で隠した。
「だって、あの人のお召しになるマントなんですもの。一刻も早く針を縫いたくて、それが叶わないならせめて、素材や型紙から、お召しになったときの御姿を想像しようと、ですね……」
(惚気だ)(気が早いわよ)(お熱いことで)(殿上人で相思相愛って反則だよ)
女官らはあくまで静かに侍っていた。貴い方々の恋愛話に乙女心が騒ぐ中、いち早く冷静になった女官が、控え目に申し出る。
「畏れながらタリス様……まだ素材の洗浄が済んでおりません。デザインのラフ案ならいくつかご用意してございますが、それも洗浄が済めば微調整を行う予定で……」
「御自らお縫いになるのでしたら、最終稿をお待ちくださいますのがよろしゅうございます」
「あら、そう……ああ、そうでしたね。私ったら、一人で浮かれて……」
気が緩んだのか、初めてタリスは顔に疲れを滲ませた。
「それよりも、今はご安静になさってくださいまし。お歩きになるだけでも障る時期でございましょう」
「左様にございます。ジキニアの至宝が御身に御宿りなのです。もうお一人のお身体ではないのでございますから」
「此度こそ……今度こそ、お二人の悲願が果たされますよう、柘榴宮女官一同、切に願っております」
タリスは、歯の浮くような、急に口を塞がれたような息苦しさに一瞬、押し黙った。
「……そうですね」
瞬き一つの間、不安げにタリスは腹を見下ろし、触れるか触れないかくらいのところで手を宙にさ迷わせた。
代わりにタリスの手は袖の中を探り、ある物を取り出した。赤く、艶やかな皮の果実が、白魚のような指に掴まれている。
「そ、それって……」
生唾を呑む女官に、タリスはしたり顔。女官たちを見渡し、上機嫌に誘った。
「見ての通り、温室で育てている早生のザクロです。今年も初物が実りました。ここを訪ねたのも、みなさんへの差し入れにと思ってのことです。此度のお召し物は作るのに手こずることでしょうから、ザクロで存分に英気を養ってください」
女官たちは歓声を上げた。ジキニアの環境は過酷だ。早生種に改良されたザクロでも温室栽培限定で、超がつく高級品なのだ。
女官たちは急いで作業エプロンを脱ぎ、しかしタリスの御前で粗相のないように、結局てんやわんやに身支度を整えていく。
食い気の前には、大公家の威光も形なしである。仕方のない女官たちだ。タリスは呆れた。
「慌てなくても、中庭にもっとたくさんありますよ」
裁縫部屋を一歩出ると、女官たちは後宮に相応しい淑やかさを身に降ろす。
タリスを先頭に、後宮の廊下を女官たちの行列が整然と行く。
大公夫妻は連理の枝だ、比翼の鳥だ。その評に嘘偽りないことは、多くの者が知っている。
しかし、仲睦まじい大公夫妻にも悩みがあった。
タリスの不妊だ。
現ジキニア大公家、ハインディル家は連邦樹立当初から続く由緒ある家柄。大公の座は有権者であれば持ち回りにもできたものの、長く絶えず善政を施してきたその血筋、由緒を覆すには重くなりすぎていた。
大公家の正統を守るという大義名分の下、公爵家間での近親婚が続いた結果、その血は濃くなりすぎた。
代を経るごとに子を儲けにくくなっていき、そのツケが回ってきたのが、タリスの代であった。
タリスの胎では、大公の種を頂戴しても根づかなかった。大公の寵愛と、大公妃の思慕。両者の懸命な交わりも虚しく、幾度も流してきた。
もう一息というところまでいったこともあったが、その種もあえなく徒となった。それどころか、半端に育ってしまったがために、分娩の際にタリスの命すら危ぶまれてしまう。
宮廷医の尽力により、タリスは奇跡的に一命を取り留めた。
が、その代償は大きかった。
意識を取り戻したタリスに、執刀医が声を詰まらせながら告げる。
「子宝は諦めてください」
嘘だ。タリスはどこも悪くない。痛みを堪えて訴える。執刀医が重く、首を横に振る。
「私どもも可能性を残すよう手を尽くしましたが、望みはこれまで以上に薄く……。いえ、そもそも、これ以上は、大公妃殿下のお身体が持ちません。お次は御命と引き換えになります。お考え直しくださいませ。大公妃殿下のお命も、尊くございますれば」
それからしばらくのことは、タリスの記憶に残っていない。故郷を――カー侯爵領を見舞う季節嵐が、心を占めていたような気がする。
正気を取り戻したのは、タリスへの面会が解禁され、大公と顔を合わせたとき。
魂の抜けたようだったタリスは、大公を一目見るや、干乾びるほど泣いて、喉が枯れるまで謝った。
夫は病み上がりの妻の泣き言をひたすら黙って受け止め、ただ、二人がそれ以上崩れないように抱いた。
タリスが自分の腹に手を当てるのをためらったのは、子のためではない。
腹に痛々しく刻まれた手術痕のためだった。
触れたところでもう開く傷ではない。しかし、傷の縫い目が大公家の不吉を封じているような気がしてならず、触れるのがためらわれた。
至極個人的なジンクスだ。
ようやく天がタリスの祈りに応え、賽を振ったのだ。些細なことでも、縁起を担いでおきたくなる。
今回の懐妊は奇跡。医者をも驚かせる吉事であった。大公直系の世継ぎを残す、最後のチャンスである。
たとえ周囲が祝福し、身を粉にしてタリスに尽くしてくれても、タリスが双肩から重荷を下ろせるひとときなど、ありはしなかった。
(全てはヘンリーのため)
首尾よく終わるのならば、この命を差し出しても惜しくはない。
時がタリスに覚悟を固めさせた。
葬列のように続く女官たちからは、タリスの面持ちが窺い知れなかった。
柘榴宮の中庭は温室で、ガラス張りのドームから燦燦と陽光が降り注いでいる。
光の下は芝生の広場。敷物が広げてある。大皿に山と盛られたザクロは洗いたてで、水滴が光り輝いていた。
タリスに引き連れられた女官たちを、別の女官たちがザクロを剥きながら出迎える。
「みんなお疲れ様」
「どんどん剥いてくからじゃんじゃん食べて。今日は大公妃殿下の奢りだーっ!」
仕事疲れに果物の芳香が染みこむよう。女官たちが色めき立った。
我先に敷物へ攻め入り、剥かれたザクロに近い席を陣取っていく。
素顔を表に出すほど嬉しそうな彼女たちを見守るタリス。誘った甲斐があった。
「大公妃殿下、ただ今戻りました」
耳慣れた声に呼ばれ、タリスは逸る心を抑えて振り返った。
その者はタリスに似た顔立ちで、若く、護律官の祭服をまとっていた。左肩にかけたペリースの刺繍は、カー侯爵家の家紋。嵐と時化の中に屹立する灯台だ。
「よく戻りました、ブリジット……」
ブリジット・カー。タリスの姪である。
タリスは、ブリジットに密命を与えていた。姉の娘ながら、予想以上に早い帰還だ。解せなさが窺える声色だったものの、密命を果たしたのなら疲れもするとタリスは聞き流した。
タリスは、当然のようにブリジットの背後に目を配った。
ブリジット、一人だけ。
中庭へ降り注ぐ陽光を束の間、城下町からの湯煙が遮った。
表情で困惑を伝えるタリスに、ブリジットもまた困惑を返す。
「……何か?」
おかしい。タリスはこの場で問い質したい気持ちをグッと堪えて、努めて平静を装った。何かはわからないが、おかしなことが起きている。
「ブリジット、こちらへいらっしゃい」
夢中でザクロを割る女官たちかまびすしさに、タリスたちの声は掻き消えた。




