013 エリーズキッチン 3/5:身体が春になっていく
短剣が床板にまで深く突き刺さる。
切っ先は、乾いていた。
紙一重で、刃はエリーの手を逸れていた。
「偉そうに説教垂れた手前、吐いた唾は呑めないからね。短剣は待ってあげよう。親切でね」
刺される覚悟でいたエリーが、それを聞いて恥じ入った。
】(……反省したばかりだったじゃないの)【
自分が傷ついたら、それ以上に悲しむのはヘーゼルだ。
わかっていたつもりだったのに、この土壇場でエリーはバカげた覚悟を勝手に決めて、また自分を顧みることを忘れてしまった。
刃を貫く代わりに、更に重く、手首に体重がかかった。銀のリベットに押し焼かれ、煙が上がる。
ミキがくれたこの痛みを戒めと思って、エリーは耐える。
だが、アルフレッドにとっては苦痛でしかなく、口に泡して吠えた。
「テメッ、ふっざけ……! その汚ねえ足をどけやがれクソアマ! ぶっ殺してやる!」
「ええ? 見る目がないね君。アタシってばこんな美人なのに。それに、何度も言わせないでくれるかな。アタシは君に指一本触れさせないまま、返り討ちにできるんだ」
キッチン中の水が鎌首をもたげて、食卓の下、踏みにじられた吸血鬼へ向く。
「アタシが、君らの命を握る側だって、もう二度と忘れるんじゃないよ」
】私も、黙ってばかりだと思わないで! 人を人とも思わない奴なんかに負けない! 思い知らせてやる!【
歯が割れんばかりに、アルフレッドは屈辱を噛み締めた。
身体の内側と外側から攻められては分が悪い。更に今は不利な日中だ。
怨恨の炎を宿す瞳で、仇敵の護律官を睨み上げる。
ミキに威嚇は通用しない。
「忘れているといけないからね、改めて君が救われる道を示してあげよう。人間と同じ食事を受け入れること。そして、ヘーゼルに償うこと。それから、向こう一ヶ月は暴力的な言動を慎むこと。今後アタシが追加した条件には従うこと。これを聞いてなおアタシに従わないのなら……」
床を深くえぐった短剣を、ミキが抜く。アルフレッドに向けられる短剣の切っ先に、冷たい光が集まっていた。
「……精々猜疑と反意にまみれて、何も選べず勝ち取れず、手が届くはずの救いを自分から遠ざけていることにも気づかないまま、惨めな孤独の内に息絶えるが善いさ」
アルフレッドの腹底に、思いつく限りの罵倒が溜まっていった。どれも負けイヌの遠吠えでしかなく、腹が膨れていくかの如く唸る。
我慢の限界が、訪れる。
「わーったよ! そのゲテモノ汁を飲みゃ良いんだろ、飲みゃ!」
「ゲテモノ汁じゃなくてお茶ね。それから、謝罪と、謹慎と、従属は」
「良い! 良いから、さっさと手をどけろ、薄鈍!」
「んー……ま、及第点か」
ミキが足をどける。すぐさまアルフレッドは右手を日陰に引っこめた。ミキがカーテンをかけて日差しを遮る。
空かさずアルフレッドは椅子をなぎ倒し、食卓の下から這い出てミキに指を向けた。
「ただしこれだけは言っておくぞ! オレはコイツのためを思って忠告してやってんだ! 茶ぁしばいてコイツが死んだときゃ、テメエが殺したも同然だからな!」
ミキが短剣を納める。露術の解けた水は元の場所に戻り、キッチンは朝の静けさを取り戻す。
「御託は良いから。さ、掛けたまえよ」
ミキは倒れた椅子を立て直し、背もたれを持ってアルフレッドに着席を促した。
アルフレッドはドッカと座り、片足で胡坐をかき、ふんぞり返る。
聞えよがしの鼻息を飛ばし、そっぽを向く。
新しく注がれた茶が、アルフレッドの前に供された。
アルフレッドは眉間にしわを寄せて、茶器の液面を睨んでいる。
貧乏ゆすり。手は固く組んだまま。
「冷めない内にどうぞ」
ミキが茶器を更に寄せる。
「ん、んん……」
】何をぐずぐずしてるのよ、薄鈍【
煮え切らない態度、そっけない返事、冷静ぶった姿勢。エリーはここぞとばかりにアルフレッドを罵った。
だが、意識の中にいるエリーには、心臓が早鐘を打つように感じた。
緊張している?
】……まさか、怖がっているの?【
アルフレッドが眉をひくつかせる。図星だったらしい。
】ぷっ、ふふふ! ああ、そう! 悪党気取りのあんたにも、怖いものがあったのね! でも、ふふっ、それがまさか! ただお茶を飲むだけのことなんて! あはは! 可愛いでちゅね~。エリー姉たんがふーふーしたげましょうかあ? レッドたん【
本当なら、エリーはフレッドと呼ぶつもりだった。普通、それがアルフレッドの愛称だった。
けれども、ここぞとばかりに息巻いてしまったせいで、舌足らずにレッドなどと呼んでしまった。
たった一度、アルフレッドが自称しただけの愛称、偶然の一致。完全に無意識だった。
「言ったな食用種!」とでも口走って、後先考えず怒るのだろうと、エリーは踏んでいた。
しかし、ふと胸に切なさが流離って、思わずエリーの毒気が抜けてしまう。
アルフレッドは、急に冷めたようだった。
しかめ面をむっつり解き、ほとんど無表情でお茶を見つめている。
それでも心臓は早鐘を打ったままだが、黙って茶器を持つアルフレッドの姿は、ミキでさえ「ほう」と息を漏らすほど様になっていた。
つかず、離れず、茶器を鑑定するように、隅々に目を凝らすアルフレッド。
少しでも痛手を減らせる飲み方を模索しているらしい。
】あんたでも無駄な足掻きをするんだ【
親近感なんか覚えたくなかったけれども。
やがて腹をくくったアルフレッドは口をつける寸前に目を閉じ、鼻を摘まんで、グイッと一口、お茶を含んだ。
ラズベリーリーフの香りと、ハチミツの甘みが口の中で滞留する。
心臓の鼓動は、緊張を保ちつつも次第に穏やかになり、アルフレッドはお茶を喉に流した。しばらく、息に乗る茶香を鼻腔に通す。
アルフレッドが少し、目を見開いて、少なくなった茶器の中身を見つめる。
眉間のしわが、少しだけ薄くなった気がした。
「……変な味だ」
「お粗末様で」ミキが茶化す。「どうかな? 花か虫になりそうかい?」
「見りゃわかんだろ」
「わからないよ。でも、そうだね、当ててみるよ……」
沈思黙考、名句を思いついたように。
「あ、これはどうかな? 身体が春になっていく」
「何だそりゃ」
アルフレッドは鼻で失笑し、ミキから顔を逸らした。
「これで満足か。オレはもう寝る。人狼の小娘が来たら起こせ」
不貞腐れてエリーにだけわかる声で言い残し、アルフレッドはさっさと意識の底に引っこんだ。
半ば投げやりに、エリーへ身体の支配権を明け渡して。
】
アルフレッドの様子は明らかにおかしかった。けれども、いつまでも憎い相手を思っても仕方がない。
「もう、何だったのよ」の一言で片づけて、エリーはお茶の残りを引き受けた。
「エリーさん」とミキ。
「ミキさん、ありがとうございました」
「何のこれしきのこと。で、お願いがあるんだけれども」
「何ですか」
「床の穴のこと、黙っといて……」
両手を合わせて頭を下げるミキ。床には深々と短剣を刺した跡が残っていた。
(行き当たりばったりね……。大丈夫かしら、この人)
そのおかげでエリーの命が助かっている面もあるので何とも言えない。
残りのお茶を楽しむ余裕はなかった。せっかくのラズベリーリーフとはちみつが無味乾燥なまま、茶器を空にしてしまう。
気が休まるまでゆっくりしていると、空の茶器の底に茶渋が浮き始めた。
「強くなりたいな」
消え入る声で、エリーが呟く。今朝からアルフレッドに振り回されっ放しなのは、自分の弱さが元凶だ。
「ああ、それなんだけれどエリーさん、本当は強いのかもよ」
いきなりミキがさらりと軽い調子で言った。
「気休めでも、ありがとうございます」
「気休めなんかじゃないさ」
ミキが茶器を下げる。
「記憶を失う前のエリーさんのこと、知りたくないかい?」




