014 おちんちんなかったよ
慰みをこめて、下腹部を撫でる。願望にすぎなかった父親の座は、命がけでエリーを守ってくれた人に相応しい。今やその座はアルデンスのもので、それこそエリーにとっての現実だった。
「この子のパパは、やっぱり死んじゃったんですね」
「ええ? それはどうかなあ」
しんみりした雰囲気とは対照で、ミキは呑気に首を捻った。そのギャップが滑稽で、エリーは心がくすぐったくなった。きっと、ミキなりの励まし方なのだろう。
「護衛の人のことなら、おちんちんなかったよ?」
「そうですか……おちん……んが!? え!? あ! ええ!? はあ!?」
どう受け止めるべきか、言葉が出なかった。目を白黒させて、顔を赤くし青くし目まぐるしく、顎の外れた顔で振り返ると、ミキが指を二本立てて、ちょん切る仕草をしていた。
「そ、そんなところまで、調べたんですか? ……え、あれ?」ものすごく働いているとは思ったけど、死体まで運んで……って。「ひ、一晩で? 全部?」
やっと出た声に、ミキはいちいち頷いた。アルフレッドの制圧、エリーの救助、廃聖堂の調査、死体搬送、捕虜の移送、尋問、死体検分……。ヘーゼルと手分けしていたとしても、だ。
「いくらなんでも、一晩で働きすぎなんじゃ……」
銀の仮面に、翳りが生じた。
「良いかい、エリーさん。普段ちゃらんぽらんな人間はね、ここぞってときに決めないと、ただの穀潰しなんだよ。吐いて気持ち悪いのに『働くッスよ!』って頭から冷や水ぶっかけられるし、眠いって言っても『眠くねえスよ!』でお尻を一蹴りされちゃうし、頭がガンガンするって嘆いても『気のせいスよ!』でお尻を一蹴りされちゃうし、死にそうな思いで死体を運んで、やっと詰所に着いたかと安心したら、夜番なのにどこで油を売っていたんだって電話で延々とお説教を聞かされちゃうんだ」
昨夜の光景が、ありありと浮かぶようだ。
「た、大変なんですね……」
労うも、しかしミキは仮面越しにもわかる浮かない顔で。
「最初の内はみんなそう言ってくれるんだ……。でもどうせ君も、アタシがポカしたらみんなみたいに尻を蹴るようになるんだ! この人でなし!」
何だこいつ!
「逆ギレですか!? ならせめて素行を改めれば良いじゃないですか! みんなが誰だか知りませけれど、そこさえ直せばきっとわかってくださいますって!」
「……それで、おちんちんの話だけれどね」
はぐらかされたし、はぐらかされた私もどうかと思うエリーであった。おちん……は気になるし。
「あれは年季の入った傷跡だったね。アタシの見立てだと、エリーさんの妊娠週数は長く見積もって十七週もいってないだろうけど、あの傷はそれより古そうだったよ」
そういう推論が大事なのはわかっている。わかっているけれど。
「そ、そんなじっくり、見たんですか」
「てへ。事故っちゃった。エリーさんの出自のヒントを探してたら、ね?」
「身ぐるみ剥がなきゃ、そうはなりませんよね」
「頑張ったって言ったでしょ。いやあ、尻穴まで調べたよね」
ちょん切る指の仕草が、穴を広げる仕草にも見えた。もうそれ事故じゃないのよ。過失。
胡乱な目でエリーが引いていると「だ、だって使った形跡が」「だって、じゃない!」とんでもないことを口走るので、慌てて遮った。
「はあ……ミキさん、ずっと思ってましたけど、料理中とか食事中に堂々と下ネタかますの、やめましょうよ。下品ですよ」
その指で、釜土を指す。
「焦げてないかな」
玉ねぎがキツネ色より黒くなっていた。エリーは慌ててフライパンを火元から離した。玉ねぎを一旦ボウルに移し、持ち替え、勝手口から出る。外の冷気で玉ねぎを冷やした後、材料を混ぜ合わせた方が味がまとまる、と思う。
古教会の小庭に屈んで、積もった雪にボウルを置き、木べらで混ぜると、もうもうと湯気が広がった。
炒め玉ねぎは、あっと言う間に冷めてしまった。
あの人が、父親じゃない。
だとしたら、誰がこの子の親なのだろう。
無限に続くタイガの旅路は夢でしかなく、湯気と共に遠く、空へ還っていった。
あの湯気も、露術があれば呼び戻せるのかしら。エリーはぼんやりと、そんな益体もないことを考えながら、消えた湯気の形を探してみたが、すぐに止めてキッチンに戻った。
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