011 エリーズキッチン 1/5:反吐の出る味
泣きたいだけ泣いたおかげか、ヘーゼルは疲れた子どものように落ち着いていた。
朝だというのに腫れぼったい目は黄昏て、下唇をむちゃむちゃとしゃぶっては、むっつりとしゃくり上げている。
とはいえ、火照りがまだ身体に燻っているらしく、今度こそミキの勧めに従って、仮眠室に少しの間だけ籠ることになった。
「君は実にバカだね」
ヘーゼルの額の傷を処置しながら、ミキが呆れた。
「意地を張るのは君の勝手だけれども、それで怪我してるようじゃはた迷惑だよ」
「うッス……」
しょぼくれるヘーゼル。傷は水洗いされ、軟膏を塗られ、革の切れ端を当てられて、包帯を巻かれた。
「あ、若隠居、今、頭、頭くすぐってえッスから……あっ……そっと、もっとそっと……ぉ」
「よがるなよがるな。……はい終わり」
処置を済ませて、ヘーゼルがダイニングを去る。
別れ際、遠慮がちにエリーの袖を摘まむヘーゼル。
「……幻滅してねえ?」
自信なさげに俯きがちで、初対面の快活さが嘘のようにおずおずしている。
エリーはヘーゼルの手を取り、そっと包んで、視線を交わしに迫った。
「アルフレッドより弱い私に、ヘーゼルは幻滅した?」
「……ん-ん」ヘーゼルは幼げに首を横に振った。
「じゃあ、そういうことよ。待ってるから、早く戻ってきて」
送り出したヘーゼルは、ミキの肩を借りなければ覚束ないほど足腰に来ていた。
師匠の支えでどうにかドアの向こうへ出ると、振り返って、くたびれた照れ顔ではにかみ、手を振りながら枠の外に姿を消した。
手を振り返す。強い人の弱った姿は、なぜだかエリーをドキリとさせた。
「ふう、一仕事だったね。お疲れ様」
ミキはドアを閉じつつ、露出してもいない額の汗を拭う仕草をした。
反省やら手助けでてんてこ舞いだったエリーにしてみれば、わざとらしすぎて鼻につく振る舞いだった。
けれどもその実、陰ながら手助けしてくれた立役者だ。ミキがいなければ、先の騒動を解決するのはもっと手こずったかもしれない。
「ね。アタシの助言も、あながち捨てたものじゃないでしょ」
――君が君自身を傷つけると、それ以上に傷つく人だっているんだよ。
エリーの言ったことは、ミキの受け売りだ。
直前にこの助言を聞いていたからこそ、エリーがヘーゼルを自縄自縛から救い出せた。
それに、ヘーゼルの話を聞くタイミング、エリーがヘーゼルに触れるタイミング、抱きしめるタイミング。ミキは二人の情動を適切に見極め、適宜必要な助け舟を寄越してくれた。
状況をつぶさに観察していなければ、そんなサポートはできない。
「やっぱりエリーさん、受け身でいることを自分で選んでいたんだよ。そうじゃなきゃ、今みたいにここぞってときに動けないよ」
それだけ気配りしてくれたのに、エリーをよいしょしてくる。面映ゆい。
「ミキさんのおかげで、助かりました」
まさに頭が下がる。
ミキの良いところが一つ見つかった。彼女はよく人を見ている。
「でしょー」とか抜かしてすぐに増長するのは、好きになれないけれど。
「……けれどもね、ヘーゼルを助けられたのは、エリーさんだったからさ。あの子の師として、礼を言わせて欲しい」
「大袈裟ですよ」
「謙遜は嫌いな相手にだけすれば良いよ」
「ミキさんはヘーゼルのお師匠様なんですよね。なら、どうとでもできたはずです」
エリーが煮え切らない態度をしていると、ミキは話題を変えた。
「ヘーゼルに、人狼の血が流れていることは、わかっているね?」
「ええ」エリーは頷いた。
「あの子は、半端に人狼の血が流れているせいで、周囲と摩擦が絶えなかったようでね。今回の件も、あの子の積年の不安を掻き立てたと思う。けれども君は、死ぬまであの子につきまとう悩みを、ヘーゼルの人の部分を脅かす本能を、対話で折り合いをつけてみせたんだ。離れ業さ」
「いやあ」大袈裟な。また謙遜を口にしかけた。ミキのことは嫌いとまではいかないので、エリーは黙って話を聞いた。
「確かにアタシならヘーゼルが落ち着くまで力尽くで拘束できるけれども、それは情けであって優しさじゃない。それに引き換えエリーさんは真心一つであの子に自分を取り戻させたんだ。すごいよ。誇って良い」
手放しで褒められるのが、エリーにはくすぐったかった。曖昧な返事で誤魔化した。
エリー自身、ヘーゼルに助けられた恩を返すつもりで、必死なだけだった。
ヘーゼルが落ち着きを取り戻したのは、運が味方をしてくれたにすぎない。
それにしても。エリーは扉の向こうに消えた人を思う。
「ヘーゼルって、何であんなになっても、私を気にかけてくれるんでしょう」
エリー個人はヘーゼルに浅からぬ縁を感じているけれども、二人は出会って一日も経っていない間柄だ。
にもかかわらず、ヘーゼルは自分を追い詰めてまでエリーに義理を通そうとする。
単なる本人の優しさや、エリーが妊婦というだけでは、さすがに説明がつかない。
ヘーゼルを侮辱したい訳ではないけれども、何か得体の知れない執着心を感じずにはいられなかった。
ミキは顎に手を当て、考える風情で。
「よそのご家庭のことだしねえ。さっきの血の話も絡んでくるし、これ以上アタシが教えるのは僭越かもねえ。本人か……ご家族に聞いてみれば? うん、それが一番だね」
家族……近々出産するというお姉さん夫妻か、ご両親か。
ヘーゼルみたいに縞だらけの、ワイルドな一家を想像してしまった。
「……あれ、待ってください」
「ん? 何かな?」
ミキは冷めたお粥を片づけながら応えた。
「それって、私、村に行っても良いってことですか……?」全身凶器みたいなものなのに?
「ん……ああ、まあ、いずれね」ミキが所在さなげにキッチンを見渡す。「あ、そうだ。丁度良いや」
ミキの柏手一つ。
「エリーさん、一つ手伝ってくれるかい?」
「何をですか?」
「ご飯が冷めてしまったから、温め直してほしいんだ。ヘーゼルもへとへとで降りてくるだろうから、ついでに肉っ気のもので、好きに一品作っておくれよ」
脈絡のなさに、エリーは面食らった。
「それは……構いませんけど。でも、どうしてですか?」
「アタシが言ったこと、覚えているかい? アタシたちが君の人となりを知る唯一の糸口は、君の行動だけなんだ。つまり、アクションを起こせば起こしてもらうほど判断材料になるって訳だね」
「料理なんかで何がわかるんですか?」
「むしろ料理こそがだよ。結果次第では監視付きでラムシング村に行っても良いよ」
「断ったり、結果が悪ければ?」
「ここで子どもを産むまで軟禁するよ」
そこまで言われて断る理由はない。エリーの正体を探るには、ここから出るしかないのだ。
「……わかりました。けれども、私に上手くできるかしら」
「別に一から十まで全部やれとは言わないさ。アタシも便利な道具だと思って、必要なものとか、必要な作業とか、何でも言いつけてくれて構わないよ。はいこれ、な~んだ」
壁に掛けてあった、家事と言えばコレという衣類を、ミキが広げて見せた。
「……エプロン、ですよね。わ」
答えている内に、エリーはエプロンを結ばれていた。
そう言えば、キッチンに立っていたミキはエプロンを着けていなかった気がする。
まあ、どうでも良いか。エリーは思い直した。ミキは自分にズボラで、他人にマメな人ってことで。
「あとこれ、料理ができるまでの繋ぎってことで」
いつの間に淹れたのか、熱いお茶がカップに注がれていた。
「ラズベリーリーフ。妊婦さんにも大丈夫なや~つ。ハチミツ入れる?」
ミキのペースで事が進んでおかしかったけれども、エリーは喜んでご馳走に与かった。
ハチミツを垂らし、溶かしたお茶に口をつける。
熱と活力が染み渡り、渇いた身体が目覚める心地に満ちていく。
溜め息の出る風味だった。
【
反吐の出る味だ。




