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無原罪御宿の吸血鬼  作者: ごっこまん
2-1/2.最初の朝餐

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010 監視室の朝 6/6:私も苦しいから

 ヘーゼルはわかっていた。


 あの過ちは、エリーの意思ではなく、アルフレッドの姦計だったのだと。


 わかった上で、アルフレッドの思惑に乗らない方法を探していたのだ。


 エリーに負い目を感じさせないために、独りでずっと苦しみながら、師匠の助けも借りずに。


 思えばずっとヘーゼルは、姉夫婦の間に生まれる子どものお手本を目指していた。


 家族の心配で余裕がないはずなのに、その上、昨夜会ったばかりのエリーを、こんなにも尊重してくれる。


(どうして……どうして自分に痛みを科してまで、私にそこまでしてくれるの)


 それに引き換え、エリーはヘーゼルに何をしてあげられたか。


 そもそも、ヘーゼルの本心をこれっぽっちもわかっていなかった。……いや、知ろうともしなかった。


 アルフレッドへの怒りと、過ちへの後悔にばかり囚われて、ヘーゼルから逃げていた。


 ヘーゼルは助けを求めていたはずなのに、たった独りで苦しむように、仕向けてしまった。


「おー、理由の説明じゃなくて所信表明になっちゃったよ。ねえ」


 腕を組んで見守るミキに、半笑いで同意を求められた。


 けれども、エリーは話しかけられたとも気づかなかった。


 エリーは壁に駆け寄り、ヘーゼルの顔が見えるように密着した。


 ヘーゼルの額が切れて、壁に血痕が捺されている。


「ヘーゼル、聞いて」


 ヘーゼルの自罰が止まらない。言葉を届けられない恐ろしさを押し殺して、エリーは伝えた。


「私、夢でアルフレッドの口車に乗ったせいで、あいつの悪巧みを止められなかった。ごめんね、私のせいで」


「エリーのせいじゃねえ!」


 ヘーゼルの額から流れた血の筋が隈取のように、威嚇する獣の形相を強調している。


 その形相にエリーは怯えて、一歩退く。退く足が踏み止まって、また前に出る。


 今は逃げない。エリーは自分に言い聞かせた。


 ヘーゼルはなりふり構わず、真っ向から堪えている。エリーはアルフレッドに翻弄されたまま逃げてしまった。だから今度こそは逃げない。


 いつまでも吸血鬼におちょくられたままでいたくない。


 今度はエリーの口車で、ここから逆転してやる。


「私、次はあいつに負けない。ヘーゼルにだけつらい思いさせないように、頑張るから。流されてばかりだし、これからどうしたら良いかわからないけど、私、変わっていくから。だからもう、一人で抱えこまないで。私も抱えこまない」


 エリーはヘーゼルに手を差し伸べる。


 ヘーゼルの手は武骨に、エリーなど一捻りで潰してしまえそうに力強い形へ変化している。


 臆さず――本当は怖くて仕方がないけれども、エリーはその手に触れる。


 逆立つ毛並みと鋭く伸びた爪。凶悪なその手が、エリーの手から俊敏に離れた。


 ヘーゼルは喉を鳴らして威嚇した。生温かい息が、エリーの前髪を吹き上げる。


(何でヘーゼルが怖がるの)


 エリーが触れた途端に、タガが外れてしまうと、危惧しているのか。


 ヘーゼルの秘部に触れた指。淫らな指。それで再び触れることは、確かに面の皮が厚いことかもしれない。


(いや、私が怯えちゃダメだ)


 アルフレッドの影に怯えたままでは、エリーも、ヘーゼルも、いつまで経っても勝てない。


「大丈夫」半分、エリー自身に言い聞かせて「もう、心配させないから」


 ヘーゼルの険しい眼差しを覗きながら、エリーは手に手を忍ばせる。


 険しさとは裏腹に、ヘーゼルの目頭と目尻には涙が溜まっていた。


 指先に触れた途端、ヘーゼルはビクッと肩を震わせて手を逃がした。


 壁に手をつき、身体を支え、何かを堪えていた。


「うぅ、ふっ……はぁ、はぁ……ダメ……なんだよ、エリー。本っ当に」


 ほんの少し指が触れただけなのに、ヘーゼルのしかめ面はとろとろに溶けた。


 腰は砕け、ずるずると壁面をずり落ちて、脚から崩れてしまった。


 追い縋るエリーへ、「触るのは酷だよ」とミキが後ろから野次る。


「しんどい……もう、しんどい……」


 自らの下腹部を抱えてうずくまり、悲鳴に似た声を絞り出す。


 ヘーゼルは俯いて、額から流れる血と、涙をこぼす。二つの雫が床を叩く。


「エリー、自分、不甲斐ねえよお……」


「不甲斐なくなんかない。ヘーゼルが頑張ってくれたおかげで、私、目が覚めた」


 触るのもいけないなら。


 エリーは膝を折り、涙と血が床に落ちる手前で、手で受け止めた。


 たちまち、止めどない涙が手柄杓に溜まり、少々の血が揺蕩った。


 涙でぐちゃぐちゃになった顔でヘーゼルがエリーを見上げると、エリーも涙を誘われていた。


「……何で、泣いてん、の」


 幼げな言い回しで、ヘーゼルは余計に嗚咽した。


 エリーが強いて微笑みを浮かべる。


「……私のせいじゃなくても、ヘーゼルが苦しむと、私も苦しいから」


 それは、ミキに教えてもらったこと。


 同時に、ヘーゼルの本末転倒を指摘し、これまでの我慢を否定する言葉だった。


「なん、で……自分、エ、エリーの、エリーのため……に……」


 今朝から様々な情念が、ヘーゼルの内に渦巻いていたことだろう。


「エリーが大変で自分がしんどいのに自分が大変でエリーもしんどくなるなんてそんなの嫌だぁ……!」


 泣いてしまうのがわかっていて、泣く前に言わなきゃならないことがある子どもが、まくし立てるようにヘーゼルは言った。


 ヘーゼルの中でわだかまっていた葛藤は見る見る内に瓦解し、表情を歪め、聞かん坊のように泣き喚いた。


 幻滅、させてしまったかもしれない。


 エリーはたった一言で、ヘーゼルの努力を踏みにじったも同然だ。


 しかし、ヘーゼルはおもむろにエリーの手を掴み、そっと自分の頬に添えさせた。


 ヘーゼルは泣き喚きながら、エリーの手に頬ずりする。


 慰めるのが遅いから、催促を飛ばして取り立てるかのようだった。


 その相貌に使命感や誇りはなく、獣の凶暴さも既に抜けていて、肩を落として、心から安心して泣いていた。


「アタシなら、抱きしめてあげるのにな」


 さっきまでは触るなとか言っていたくせに。


 勝手放題言ってくれるミキに従うのは釈然としない。


 だからエリーは自分の心に従って、ヘーゼルを力一杯抱きしめた。


 思うさま肩をしつこく甘噛みさせる内に、三人の粥は冷めてしまった。

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