010 監視室の朝 6/6:私も苦しいから
ヘーゼルはわかっていた。
あの過ちは、エリーの意思ではなく、アルフレッドの姦計だったのだと。
わかった上で、アルフレッドの思惑に乗らない方法を探していたのだ。
エリーに負い目を感じさせないために、独りでずっと苦しみながら、師匠の助けも借りずに。
思えばずっとヘーゼルは、姉夫婦の間に生まれる子どものお手本を目指していた。
家族の心配で余裕がないはずなのに、その上、昨夜会ったばかりのエリーを、こんなにも尊重してくれる。
(どうして……どうして自分に痛みを科してまで、私にそこまでしてくれるの)
それに引き換え、エリーはヘーゼルに何をしてあげられたか。
そもそも、ヘーゼルの本心をこれっぽっちもわかっていなかった。……いや、知ろうともしなかった。
アルフレッドへの怒りと、過ちへの後悔にばかり囚われて、ヘーゼルから逃げていた。
ヘーゼルは助けを求めていたはずなのに、たった独りで苦しむように、仕向けてしまった。
「おー、理由の説明じゃなくて所信表明になっちゃったよ。ねえ」
腕を組んで見守るミキに、半笑いで同意を求められた。
けれども、エリーは話しかけられたとも気づかなかった。
エリーは壁に駆け寄り、ヘーゼルの顔が見えるように密着した。
ヘーゼルの額が切れて、壁に血痕が捺されている。
「ヘーゼル、聞いて」
ヘーゼルの自罰が止まらない。言葉を届けられない恐ろしさを押し殺して、エリーは伝えた。
「私、夢でアルフレッドの口車に乗ったせいで、あいつの悪巧みを止められなかった。ごめんね、私のせいで」
「エリーのせいじゃねえ!」
ヘーゼルの額から流れた血の筋が隈取のように、威嚇する獣の形相を強調している。
その形相にエリーは怯えて、一歩退く。退く足が踏み止まって、また前に出る。
今は逃げない。エリーは自分に言い聞かせた。
ヘーゼルはなりふり構わず、真っ向から堪えている。エリーはアルフレッドに翻弄されたまま逃げてしまった。だから今度こそは逃げない。
いつまでも吸血鬼におちょくられたままでいたくない。
今度はエリーの口車で、ここから逆転してやる。
「私、次はあいつに負けない。ヘーゼルにだけつらい思いさせないように、頑張るから。流されてばかりだし、これからどうしたら良いかわからないけど、私、変わっていくから。だからもう、一人で抱えこまないで。私も抱えこまない」
エリーはヘーゼルに手を差し伸べる。
ヘーゼルの手は武骨に、エリーなど一捻りで潰してしまえそうに力強い形へ変化している。
臆さず――本当は怖くて仕方がないけれども、エリーはその手に触れる。
逆立つ毛並みと鋭く伸びた爪。凶悪なその手が、エリーの手から俊敏に離れた。
ヘーゼルは喉を鳴らして威嚇した。生温かい息が、エリーの前髪を吹き上げる。
(何でヘーゼルが怖がるの)
エリーが触れた途端に、タガが外れてしまうと、危惧しているのか。
ヘーゼルの秘部に触れた指。淫らな指。それで再び触れることは、確かに面の皮が厚いことかもしれない。
(いや、私が怯えちゃダメだ)
アルフレッドの影に怯えたままでは、エリーも、ヘーゼルも、いつまで経っても勝てない。
「大丈夫」半分、エリー自身に言い聞かせて「もう、心配させないから」
ヘーゼルの険しい眼差しを覗きながら、エリーは手に手を忍ばせる。
険しさとは裏腹に、ヘーゼルの目頭と目尻には涙が溜まっていた。
指先に触れた途端、ヘーゼルはビクッと肩を震わせて手を逃がした。
壁に手をつき、身体を支え、何かを堪えていた。
「うぅ、ふっ……はぁ、はぁ……ダメ……なんだよ、エリー。本っ当に」
ほんの少し指が触れただけなのに、ヘーゼルのしかめ面はとろとろに溶けた。
腰は砕け、ずるずると壁面をずり落ちて、脚から崩れてしまった。
追い縋るエリーへ、「触るのは酷だよ」とミキが後ろから野次る。
「しんどい……もう、しんどい……」
自らの下腹部を抱えてうずくまり、悲鳴に似た声を絞り出す。
ヘーゼルは俯いて、額から流れる血と、涙をこぼす。二つの雫が床を叩く。
「エリー、自分、不甲斐ねえよお……」
「不甲斐なくなんかない。ヘーゼルが頑張ってくれたおかげで、私、目が覚めた」
触るのもいけないなら。
エリーは膝を折り、涙と血が床に落ちる手前で、手で受け止めた。
たちまち、止めどない涙が手柄杓に溜まり、少々の血が揺蕩った。
涙でぐちゃぐちゃになった顔でヘーゼルがエリーを見上げると、エリーも涙を誘われていた。
「……何で、泣いてん、の」
幼げな言い回しで、ヘーゼルは余計に嗚咽した。
エリーが強いて微笑みを浮かべる。
「……私のせいじゃなくても、ヘーゼルが苦しむと、私も苦しいから」
それは、ミキに教えてもらったこと。
同時に、ヘーゼルの本末転倒を指摘し、これまでの我慢を否定する言葉だった。
「なん、で……自分、エ、エリーの、エリーのため……に……」
今朝から様々な情念が、ヘーゼルの内に渦巻いていたことだろう。
「エリーが大変で自分がしんどいのに自分が大変でエリーもしんどくなるなんてそんなの嫌だぁ……!」
泣いてしまうのがわかっていて、泣く前に言わなきゃならないことがある子どもが、まくし立てるようにヘーゼルは言った。
ヘーゼルの中でわだかまっていた葛藤は見る見る内に瓦解し、表情を歪め、聞かん坊のように泣き喚いた。
幻滅、させてしまったかもしれない。
エリーはたった一言で、ヘーゼルの努力を踏みにじったも同然だ。
しかし、ヘーゼルはおもむろにエリーの手を掴み、そっと自分の頬に添えさせた。
ヘーゼルは泣き喚きながら、エリーの手に頬ずりする。
慰めるのが遅いから、催促を飛ばして取り立てるかのようだった。
その相貌に使命感や誇りはなく、獣の凶暴さも既に抜けていて、肩を落として、心から安心して泣いていた。
「アタシなら、抱きしめてあげるのにな」
さっきまでは触るなとか言っていたくせに。
勝手放題言ってくれるミキに従うのは釈然としない。
だからエリーは自分の心に従って、ヘーゼルを力一杯抱きしめた。
思うさま肩をしつこく甘噛みさせる内に、三人の粥は冷めてしまった。




