010 反吐の出る味
泣きたいだけ泣いたおかげで幾らか不満を晴らせたのか、ヘーゼルは疲れた子どものように落ち着いていた。朝だというのに腫れぼったい目は黄昏て、下唇をむちゃむちゃとしゃぶっては、しゃくり上げている。
とはいえ、火照りはまだ手つかずで、身体の芯に燻っているらしく、今度はミキの勧めに乗って仮眠室に少しの間だけ籠ることになった。
ダイニングを去り際、遠慮がちにエリーの袖を摘まむヘーゼル。
「……幻滅してねえ?」
おずおずと尋ねるヘーゼルは視線を下にして、初対面時の快活さが嘘のよう。エリーは遠慮しいな手を取り、そっと包んで、視線を交わしに迫った。
「アルフレッドより弱い私に、ヘーゼルは幻滅した?」
ヘーゼルは幼く首を横に振った。「じゃあ、そういうことよ。待ってるから、早く戻ってきて」
送り出したヘーゼルは、ミキの肩を借りなければ覚束ないほど足腰に来ていた。師匠の導きでどうにかドアの向こうへ出ると、振り返って、くたびれた照れ顔ではにかみ、手を振りながら枠の外に姿を消した。手を振り返す。強い人の弱った姿は、なぜだかエリーをどきりとさせた。
「ふう、一仕事だったね。お疲れ様」
ミキはドアを閉じつつ、露出してもいない額の汗を拭う仕草をした。自省やら手助けでてんてこ舞いだったエリーにしてみれば鼻につく振る舞いだった。
だが、強く否定できない。どころかその実、ミキの暗躍がなければ、先の騒動はもっと手こずったかもしれない。
「ね。アタシの助言も、あながち捨てたものじゃないでしょ」
君が君自身を傷つけると、それ以上に傷つく人だっているんだよ。ミキはそう言っていた。エリーがヘーゼルを自縄自縛から救い出せたのは、直前にこの助言を聞いていたからこそだった。
それだけではない。ミキは二人の情動を適切に見極め、適宜必要な助け舟を寄越してくれた。
「ミキさんのおかげで、助かりました」
まさに頭が下がる。ミキの良いところが一つ見つかった。彼女は良く人を見ている。「でしょー」とか抜かしてすぐに増長するのは、好きになれないけれど。
「……けれどもね、ヘーゼルを助けられたのは、エリーさんだったからさ。あの子の師として、礼を言わせて欲しい」
「大袈裟ですよ」
「謙遜は嫌いな相手だけにすれば良いよ」
「ミキさんはヘーゼルのお師匠様なんですよね。なら、どうとでもできたはずです」
「目上の者の言葉じゃ、真心は動かしにくいからね。となると……驚いたことにエリーさんのおかげとしか考えられないんだよね」
称賛を理詰めで受け入れさせようとしてくる、この人。エリーが煮え切らない態度をしていると、ミキは話題を変えた。
「ヘーゼルに、人狼の血が流れていることは、わかっているね?」
「ええ」エリーは頷いた。全身のスリットを裏返らせて、毛皮を晒した姿は、この目で見ている。
「あの子は、半端に人狼の血が流れているせいで、周囲と摩擦が絶えなかったようでね。今回の件も、積年の不安を掻き立てる騒動だった。けれども君は、死ぬまであの子につきまとう悩みを、ヘーゼルの人の部分を脅かす本能を、対話で折り合いをつけてみせたんだ。離れ業さ。エリーさんはすごいよ。誇って良い」
手放しで褒められるのが、エリーにはくすぐったかった。曖昧な返事で誤魔化した。エリー自身、ヘーゼルに助けられた恩を返すつもりで、必死なだけだった。ヘーゼルが落ち着きを取り戻したのは、運が味方をしてくれたにすぎない。
それにしても。エリーはドアの向こうに消えた人を思う。
「ヘーゼルって、何でここまで私を気にかけてくれるんでしょう」
出会って一日も経っていない間柄。にもかかわらず、自分を追い詰めてまでエリーに義理を通すのだ。本人の単なる優しさや、エリーが妊婦というだけでは、さすがに説明がつかない。
ヘーゼルを侮辱したくないが、得体の知れない執着心を持っているようにしか見えなかった。
ミキは顎に手を当て、考える風情で。
「よそのご家庭のことだしねえ。さっきの血の話も絡んでくるし、これ以上アタシが教えるのは僭越かもねえ。本人か……ご家族に聞いてみれば? うん、それが一番だね」
家族……近々出産するというお姉さんのことか、ご両親か。ヘーゼルの家族か。ヘーゼルみたいに縞だらけの、ワイルドな一家を想像してしまった。
「さて」ミキの柏手一つ。「ご飯が冷めてしまったから、エリーさん、温め直してくれるかい。ヘーゼルもへとへとで降りてくるだろうから、ついでに肉っ気のもので、好きに一品作っておくれよ」
脈絡のなさに、エリーは面食らった。
「それは……構いませんけど。でも、上手くできるかしら」
「別に一から十まで全部やれとは言わないさ。アタシも便利な道具だと思って、必要なものとか、必要な作業とか、何でも言いつけてくれて構わないよ。はいこれ、な~んだ」
壁に掛けてあった、家事と言えばコレという衣類を、ミキが広げて見せた。
「……エプロン、ですよね。わ」
答えている内に、エリーはエプロンを結ばれていた。
そう言えば、キッチンに立っていたミキは、エプロンを着けていなかった気がする。まあ、どうでも良いか。エリーは思い直した。自分にズボラで、他人にマメな人ってことで。
「とりあえず、可愛い弟子と仲良くしてくれたから、これくらいはね。あとこれ、料理ができるまでの繋ぎってことで」
いつの間に淹れたのか、熱いお茶がカップに注がれていた。「ラズベリーリーフ。妊婦さんにも大丈夫なや~つ。ハチミツ入れる?」
ミキのペースで事が進んでおかしかったが、断る理由もないので、エリーはハチミツを垂らしたお茶に口をつける。熱と活力が染み渡り、渇いた身体が目覚める心地に満ちていく。溜め息の出る風味だった。
【
反吐の出る味だ。
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