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無原罪御宿の吸血鬼  作者: ごっこまん
2.最初の朝餐

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009 私も苦しいから

 ヘーゼルはわかっていた。あの過ちは、エリーの意思ではなく、アルフレッドの姦計だったのだと。


 わかった上で、アルフレッドの思惑に乗らない方法を、試行錯誤で探していたに違いない。エリーに負い目を感じさせないために、ずっと苦しみながら、独りで、師匠の助けも借りずに。


 思えばずっとヘーゼルは、生まれてくる子どものお手本を目指していた。家族の心配で余裕がないはずなのに、その上、昨夜会ったばかりのエリーを、こんなにも尊重してくれる。


 自分に痛みを科してまで。


 どうして。どうして私にそこまでしてくれるの、ヘーゼル。


(それに引き換えて、私は)


 ヘーゼルに何かしてあげただろうか。そもそも、ヘーゼルの本心を、これっぽっちもわかっていなかった……いや、知ろうともしなかった。アルフレッドへの怒りと、過ちへの後悔にばかり囚われて、ヘーゼルから逃げてしまった。


 たった独りで苦しむように、仕向けてしまった。


「おー、理由の説明じゃなくて所信表明になっちゃったよ。ねえ」


 腕組で見守るミキに同意を求められるのにも、エリーは気づかず壁に駆け寄り、ヘーゼルの顔が見えるように密着した。ヘーゼルの額が切れて、血痕が捺されている。


「ヘーゼル、聞いて」


 自罰は止まらない。


「私、夢でアルフレッドの口車に乗ったせいで、あいつの悪巧みを止められなかった。ごめんね、私のせいで」


「エリーのせいじゃねえ!」


 額から流れた血が、獣の威嚇を隈取っていた。


 その形相にエリーは怯えて、下がろうとする足で踏み止まった。ヘーゼルはなりふり構わず、真っ向から堪えている。エリーはアルフレッドに翻弄されたまま逃げてしまった。


 だから今は逃げない。いつまでも吸血鬼におちょくられっ放しでいられるもんか。今度はエリーの口車で、ここから逆転してやる。


「私、次はあいつに負けない。ヘーゼルだけにつらい思いさせないように、頑張るから。どうしたら良いかわからないけど、私、これから変わっていく。だからもう、一人で抱えこまないで。私も抱えこまない」


 獣の諸相が現れた手に触れる。逆立つ毛並みと鋭く伸びた爪が凶悪なその手が、エリーの手から俊敏に離れ、ヘーゼルは喉を鳴らして威嚇した。生温かい息が、エリーの前髪を吹き上げる。


 剣幕に反して、恐れが動きに表れている気がした。エリーが触れた途端に、タガが外れてしまうことに、怯えているのか。


「大丈夫」半分、エリー自身に言い聞かせて「もう、怯えないで」


 険しい眼差しを覗きながら、手に手を忍ばせる。険しさとは裏腹に、目頭と目尻には涙が溜まっている。指先に触れた手の甲が逃げる。


「ダメ……なんだよ、エリー。本っ当に」


 ほんの少し指が触れただけで、ヘーゼルのしかめ面はとろとろに溶けて、腰は砕け、ずるずると壁面をずり落ちて、脚から崩れてしまった。追い縋るエリーへ、「触るのは酷だよ」とミキが後ろから野次る。


「しんどい……もう、しんどい……」


 自らの下腹部を抱えてうずくまり、悲鳴に似た声を絞り出すヘーゼルは俯いて、赤と透明と、数滴の雫が床を叩いた。


「エリー、自分、不甲斐ねえよお……」


「不甲斐なくなんかない。ヘーゼルが頑張ってくれたおかげで、私、目が覚めた」


 触るのもいけないなら。と、エリーは膝を折り、止めどない涙が床に落ちる前にその手で受け止めた。たちまち、手柄杓に涙が溜まり、血が揺蕩う。


 滂沱(ぼうだ)する顔で、ヘーゼルがエリーを見上げると、エリーも涙を誘われていた。


「……何で、泣いてん、の」


 幼げな言い回しで、ヘーゼルは余計に嗚咽した。エリーが強いて微笑みを浮かべる。


「……私のせいじゃなくても、ヘーゼルが苦しむと、私も苦しいから」


 それは、ヘーゼルの本末転倒を指摘し、懸命な我慢を否定する言葉だった。行為の後から様々な情念が渦巻いていたことだろう。ヘーゼルの中でわだかまっていた葛藤は見る見る内に瓦解し、表情を歪め、聞かん坊のように泣き喚いた。


 幻滅、させてしまったかもしれない。エリーはたった一言で、ヘーゼルの努力を踏みにじったも同然だ。


 しかし、ヘーゼルはおもむろにエリーの手を掴み、そっと自分の頬に添えさせた。


 ヘーゼルは泣き喚きながら、エリーの手に頬ずりする。慰めるのが遅いから、催促を飛ばして取り立てるかのようだった。その相貌に使命感や誇りはなく、獣の凶暴さも既に抜けていて、肩を落として、心から安心して泣いていた。


「アタシなら、抱きしめてあげるのにな」


 さっきまでは触るなとか言っていたくせに。勝手放題言ってくれるミキに従うのは釈然としなかったが、エリーは自分の心に従って、ヘーゼルを力一杯抱きしめた。


 思うさま肩をしつこく甘噛みさせる内に、三人の粥は冷めてしまった。

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