008 流されてたまっかよ
各々、用を済ませて食卓に着いた。残雪厚い野外は寒く、用を足したそばから凍りそうだった。尿入りの器は、皿を被せて、ストーブの効いた別室に置いた。
湯気の立つお粥はソバの実入りで、香り高く、器一杯によそってある。
香りを嗅ぐと少しだけ、胃がキュッと締まる気がするけれど。
「大丈夫かい?」
「え、ええ。私なら」
エリーはそれとなく、ミキの隣に目をやった。
「そう? じゃあお祈りしようか。巡る恵み、もたらす業に感謝を」
厳かにミキが唱えるのに続いて、エリーも「感謝を」と気負って言う。
次に、祈りを切る。手指を伸ばし、指先で額に触れる。そのまま指先で正中線上をなぞり、みぞおちの辺りで手の平を下へ向け、食卓を撫でるように円を描く。護律協会流の作法だと、ミキは言う。
「さ、食べようよ」
そう接待主に促されても、中々匙が進まなかった。粥の香りのせいだけではない。
ミキの隣で荒ぶるヘーゼルを見ながらというのは、さすがに気後れする。
見るからにイライラしている。ソフトにセットしたであろうモヒカンが、既に崩れかかっていた。額が赤く擦り剝けている。トイレの騒音は、ヘーゼルが壁に頭を打ちつける音だったようだ。
ヘーゼルは木のスプーンを轡のように噛み、ぐるぐる唸っていた。両手を太ももの間に挟み、椅子を軋ませながら、もじもじと座りの悪さに耐える様子が痛ましかった。汗だくでのぼせ上がった顔、目は爛々と見開かれ、鼻息を噴いて、今にも何かしら破裂しそうな有り様だ。
明らかに食事どころではない。
て言うかミキさん、よくこの状況で食べようと思えたな。
気後れするエリーの視線に気づいたミキが、その様子をチラ見して、エリーを手招きして耳を借りた。
「最後までシてあげなかった訳?」
下世話すぎて血が沸いた。
「よくそんなこと平然と聞けますね!」
「ええ? だってお手洗いの場所、教えてあげたじゃないか。ヘーゼル、入ってたよね?」
「入ってたから何だって言うんですか!」
「ちょっとお邪魔して、パパーッと、ね?」ミキが卑猥なハンドジェスチャーまで押しつけてくる。
「『ね?』じゃありませんけど?」エリーは行儀の悪い手を叩き落としてやった。「ていうか知ってたならもっと早く教えてくださいよ!」
顔を真っ赤にして、しかし声を抑えて激するエリーに「世話が焼けるね」とミキは額に手を当てて首を横に振った。呆れる振りをして、叩かれた手を仮面で冷やしているだけにも見えた。
ミキが隣のヘーゼルに声をかける。ヘーゼルは、捕食者が獲物を定める目で、師匠をねめつける。
「おお、怖い怖い」と、全くその気のないミキが嘯く。ヘーゼルと、目線の高さを合わせた。
「ヘーゼル、つらいね。獣の部分に火が点いちゃったら、簡単にはいかないんだったよね。お粥は後で温め直してあげるから、部屋で“お休み”しておいで」
「ぐうう!」ヘーゼルはイヌのように首を横に振った。
「難儀な子だね。そんな様子だと、こっちも食事に手が付けられないんだけれど」
「ぐるる!」変わらず首を横に振る。
「じゃあせめて、エリーさんの手を借りず、自分でも始末をつけない理由を教えておくれよ」
もう聞いていられない。椅子も引かずにエリーは卓を叩いて立ち上がったが、ミキはじっとヘーゼルと向き合ったまま、手の平を突き出してエリーを止めた。
「話せるかい?」
ヘーゼルは相変わらず獣じみて唸っていた。口の端から粘った涎が長く垂れているが、ミキと呼吸を合わせて、じっとアイコンタクトを維持している。
木のスプーンにミキが手を伸ばしても、大人しく受け入れた。轡が外れる。
「クソ吸血鬼に流されてたまっかよ畜生が!」
唾を飛ばし、誇り高い獣が吠える。食卓に叩きつけた手が、爪で面を削りながら握られる。乱れ、突っ伏し、息切れを押して、ふらりと席を立つ。
「エリー! 若隠居! 自分は負けねえ! あの吸血鬼だけにゃ絶対負けねえ! 自分が勝たねえと、エリーが安心できねえだろうが!」
がなり散らすと、ヘーゼルは近くの壁に手を突き、額を打ちつけ始めた。
「流されんな! あんな野郎に! 舐めんなよ! 自分は! 姉ちゃんの! ガキの! 姉ちゃんに! なんだぞ!」
自分に言い聞かせるように叫んでは、ヘーゼルは額を打つ。
それは、内なる衝動と戦う自尊心が、獣ではなく人として、固い壁と面する姿であった。
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