008 監視室の朝 4/6:自助努力
日が高くなり、窓から光が注ぐようになった。
ミキの声は相変わらず二日酔いの気が抜けていないけれども、少しだけ目覚めたように軽やかになっていた。
「はぁ……エリーさんは良い人そうで安心したよ。アタシ、ヘーゼルがどこの馬の骨かもわからない売女に掴まったのかと内心冷や冷やで……」
酷い言われようでも明け透けだし緊張が解けているしで、エリーは反感を通り越して苦笑した。
「私、そんな悪人」悪女を気取ったくせに。「のつもりじゃ……」
「わかっているよ」
ミキの言葉の裏には、昨夜のヘーゼルの一言が念頭にあった。
――若隠居に渦で揉まれてんのを、エリーに助けられたんス。
大方、アルフレッドが脱出しようと足掻く内に、ヘーゼルの身体を足掛かりにしようとして、力加減を間違えただけのことだろうと聞き流していた。
“エリー”という人格の欺瞞。独立した人格だとしても無断で禁域に侵入している。
たとえ人間の部分が残っていようが、どうせろくでもない女だろうと決めつけていた。
(なかなかどうして、よく見ている弟子だね)
エリーは、キッチンに朝日が満ちても平気らしい。
「アタシの言ったことは忘れて。改めて、お詫びするよ。どうやらアタシも一度立ち止まって、頭を冷やさなきゃいけないらしいや。二日酔いだしお腹ペコペコだしでさあ……」
「……周りが見えなくなってた、ってことですか?」
「お、言うねえ。立てる? 手、貸すよ」
差し伸べられた手を握り、エリーはミキに立たせてもらった。
「お願いがあるんだけれども」
「な、何ですか?」
「アタシがアレをやったってことは、黙っといてね」
口元に指を一本立てて、ミキはおてんば娘のようにおどけて言った。
ミキの指す先には、壁柱に大穴。短剣が穿った跡だ。
直前の尋問官のような印象とのギャップがきつすぎる。エリーは返事に困った。
当惑している間に、ミキはさっさと釜土の番に戻った。
「さ、もうすぐ朝食ができるよ。ようこそ、護律協会ラムシング村支部監視室分室の食卓に」
「……それが、詰所の本当の名前なんですか?」
「そ。禁域に人が入らないよう、ラムシング村の反対側から見張る場所」
「ラムシング村……」
気の抜けたオウム返しに、ミキは困ったように振り向いた。
「参ったね。本当に覚えてないんだ」
「……すみません。正直、護律協会とか露術とかもさっぱりで」
「なら、目覚まし代わりにお聞きよ」
歴史を語れば日が暮れる。だから今日の姿だけをミキは語った。
護律協会とは、農耕民と遊牧民のように、文化背景の異なる集団同士の仲介を担うお節介焼きな組織らしい。
外交と違うのは、完全に第三者の超国家的な立場である点。
宗教と違うのは、教化に消極的で既存の文化に過剰に干渉しない点。
「大昔に吸血鬼が発見されてから、待ち合わせでもしてたのって感じで亜人種族までわんさか現れてさ。世界中まあ大混乱だった訳よ。それを治めるために奔走する内に大きくなった組織、って感じかな」
「そうなんですね」お腹が減って頭に全然入って来ない。
吸血鬼や亜人の間を取り持つために、露術が必要だったのだろうか。
なら、どうやってあの魔法を編み出したのだろう。
頭を使うと、お腹が文句を言うように小さく鳴った。今度は聞かれずに済んだようだ。
剣呑な会話を交わした直後だというのに、あっと言う間に日常の一幕に戻ってしまった。悪い夢だったんじゃないかと思えるくらいに。
心を許してくれたと思った途端に、エリーの胸に、ミキへ伝えたいことが溢れてきた。
「あの……遅くなりましたけれども、お洋服。これ、ありがとうございます」
「ああ、そうそう。好く似合っているね。寸法はどうかな」
「丁度良いです」
ほんの少し大きいけれど。
「それから舌の傷、痛くありませんか? 吸血鬼が噛んだから、大変なことになっているんじゃ……?」
「心配いらないよ。もう治したから」
ミキはこともなげに言ってのけた。伸びた犬歯を根元までぶっ刺したはずなのに。
「私に気を遣わせないためにそう言ってくださるのは嬉しいんですけど……」
「本当だよ。回復が早いのは吸血鬼だけだと思われちゃ困るな」
「ミキさん、本当に人間ですか」
「まあ、褒め言葉だと受け取っておくよ」
「……ひょっとして、露術って、治癒の力もあるんですか」
水を自由自在に操る術だとばかり思っていた。
けれども、異様に早い回復を説明するなら、その不思議な力しか考えられなかった。
「お、鋭いね。まあ、裏道みたいな使い方だけど」
「……後で、ヘーゼルの舌、治してあげてくれませんか」
ヘーゼルにも、ミキのように舌から血を吸ってしまった。今頃、痛みに悩まされているに違いない。
「うん? んー……」
ミキの返事が、何だか煮え切らない。
ぶるっとエリーは震え、少しもじもじした。まだ話したいことがたくさんあるのに、この身体ったら。
「あ、あの、すみません。お手洗いは……」
「ああ、そうそう。はい、これ」
火元を離れて、ミキは木彫りの器をエリーに手渡した。
「おしっこはこれに出してね」
「……なんですって?」
てっきり食器だと思っていたせいで、頭の中でいけない物のミックスが生まれそうだった。
おかしいわね。今の今まで、日常の一幕を演じてなかったかしら。
「中間尿っていってね、出始めと出終わりのおしっこは要らないから。あと、くれぐれも、うんちは要らないからね。器に溜めたらアタシに提出すること。良いね」
あんまりキッチンで聞きたくない言葉が並んでいるが、言ってる本人が至って真面目だった。
そのせいで、おしっこ談義が不思議なほどに耳に入ってくる。
もっとも、意味までは理解できない。
いや、提出て。何を。
「な、何で……?」
「教えな~い」
「じゃ、じゃあ、嫌ですけど……」
「断るなら、最低限の自助努力を放棄したと見なして、今ここで保護は打ち切り。即刻駆除」
「え、そんな、ご冗談ですよね」
「まさか。ガチの最後通牒だよ」
棘のあるときの方が優しかった気さえする。
「流されときなよ。得意でしょ」
「い、言い方ってものが……」
「ああん?」
仮面の威圧感でチビりそうだった。
「あの、トイレってどこに……」
「ヘーゼルが使っているだろうから、外で済ませて」
勝手口を指されて、エリーは逃げるようにキッチンを出た。
ミキはミキなりにエリーと真剣に向き合ってくれているのはわかったので、これにも何か考えがあるのだと思う。
けれども、おしっこなんかで自助努力がどうこうなるのか、エリーには見当もつかなかった。
それにつけても何かと飲む姿が脳裏に焼き付く人がミキである。
(まさか、飲まないわよね)
エリーは首を振って、おぞましい考えを頭から追い払った。
いくら何でも、そこまで破天荒ではないはずだ。そうよね?
己に問いかけてみたところで答えは出ないし、器の中にも答えはない。
残雪厚い野外は寒く、エリーが用を足したそばから凍りそうだった。
尿入りの器は、ミキの指示でストーブの効いた別室に安置した。蒸発しないように皿を被せた。




