007 監視室の朝 3/6:悲しませるのは、同じだよ
ミキがしばらく、火元から目を離していた。煮物が噴きこぼれる。ミキは慌てて、重たそうに鍋の位置を変えて、火加減を調整した。
「あちゃあ、火が……」
煮汁のかかった薪が燻り、もうもうと煙が上がる。ミキは窓を開け、扇いで煙を逃がした。
溜め息混じりに鍋の番に戻る。
「……で、短剣なんか、何に使うのさ」
初めてミキがエリーのペースに乗った。手応えがあった。
「アルフレッドに痛い目に遭わせてやるんです。そのためなら、手でも心臓でも刺してやる」
エリーの潔白の証明と、真犯人への報復。咄嗟の思いつきにしては一石二鳥の名案だと、エリーは息巻いた。
一方ミキはそう思っておらず、むしろ呆れているらしい。
「あのねえ、アタシは大人しくしてたら、って言おうとしたんだよ? そんなヤンチャなお願い、アタシが許すだなんて思わないでほしいね。保護した子が自分切るだなんて止めるに決まっているよ。第一、身重でしょうに。そこんとこ、自覚してくれないと困るよ」
「あいつはヘーゼルを泣かせたんですよ! しかも、私の身体を悪用して! 痛い目に遭わせなきゃ気が済みません!」
「ごめん、大声やめて……二日酔いに響く……」
「真剣に言っているんです!」
「ほげえ~……真剣かあ……」
頭痛に気を取られて、オウム返しさえ身が入っていない。
エリーは苛立った。ちっとも真面目に取り合ってくれない。ミキには火を熾し直すことの方が大事らしい。
(私は本気なのに)
短剣はミキの腰に差してある。隙だらけで、盗ってくれと言わんばかりに柄が伸びている。
エリーは喉を鳴らした。ここまで無視するなら、案外簡単に盗れそうだ。
意を決してエリーはミキの背に忍び寄り、腰の短剣に手を伸ばす。
手が凍った。
「あっ」
台所の隅にある瓶から水が噴き、エリーの手に直撃するや氷結したのだ。
ミキが行使する露術だ。
「お悪戯はダメだよ、っと!」
もう一塊の水がミキの短剣を抜き、よろめいたエリーに銀の切っ先を閃かせた。
水流が短剣を高速で回転させ、銃弾のように射出する。
短剣はエリーの頬をかすめて吸血鬼の血を焼灼し、そのままの威力で背後の壁柱を粉砕、刃渡りの中ほどまで刺さった。
水飛沫と破片、塵がはらはらと舞う下で、ぺたん、とエリーは腰を抜かしてしまった。
頬の熱傷は瞬く間に塞がり、痕も残らない。けれどもエリーの綺麗な頬には、いつまでも鈍痛がじんじんと残った。
恐怖がずっと身体に居座って、震えが止まらない。
当たれば死んでいた。
【熱ちち……バカが。何だ今のザマは。テメエがふらふらしてなきゃ、今のはかすめもしなかったぞ】
血管の中でアルフレッドが悪態をつく。憎い吸血鬼に指摘されるのが、情けない。
「なるほど、真剣ね」
ミキにまで鼻で笑われた。
「君の中の吸血鬼は今のを食らって熱がっているだろうに、じっと息を潜めて隙を伺っているようだけれども。考えなしにアタシの物を盗もうとした君は、本当にそいつより真剣と言えるのかい?」
蔑みがこもっていた。
「まあ、必死なのは伝わったよ。それに免じて、あくまで真剣だって言って聞かないつもりなら、助言を一つ」
ミキが水を操り壁柱の短剣を抜く。短剣はエリーの髪を扇ぐように空を切り、エリーは短剣から逃れるために、腰を抜かしたまま必死に後ずさった。
水は短剣を器用に鞘へ納め、水瓶に戻る。エリーの手の氷も融けた。
一瞥もくれず、ミキは釜土に薪をくべる。
「繰り返しになるけれども、君が君の過去を知らないように、アタシたちも君の来歴がわからない。君が守るべき価値のある善良な人なのか、それとも牢屋がお似合いの極悪人なのか……今後の待遇を判断するためには、君がどういう考え方をしていて、どういう行動を選ぶのか、外側から観察するしかない。記憶喪失です、じゃあ始まらないんだよ」
火吹き筒で薪に息を送る。息を吹きつけられるにつれて、火が煌々と明るさを増す。
「はっきりしていることと言えばmアタシにとって君は……禁域侵入、殺人、吸血鬼化、婦女暴行、そして窃盗未遂の現行犯。うーん、改めて整理してみると、中々の悪党だよね」
釜土が熱を取り戻す。エリーの冷汗が止まらない。
「けれども、ヘーゼルは君を庇っている。アタシよりもヘーゼルは君のことを知っている。君たちはあれからすぐに降りてきた。乱闘の一つや二つあってもおかしくない出来事の直後にだよ。アタシはヘーゼルの判断を尊重するよ」
エリーの悪寒が治まった。呆然と顔を上げる。
「君の反応が見たくて意地悪しちゃった。ごめんよ、勝手に試して」
「試……した……?」
「言っても半分本音だったんだけれども」
茶目っ気混じりに言われても、全然笑えなかった。
「まあ、試した甲斐はあったよ。君、まるで周りが見えちゃいないもの。自分のことばかりだし、やることなすこと人を唆すって感じじゃないし」
半笑いで言われて、エリーはイラッとした。
「短剣を盗ろうっていうのも、吸血鬼の生存戦略にそぐわないしさ」
今ので苛立ちが困惑に変わった。
「……えっと」
「不器用なところも、不合理なところも、君を人間たらしめているってことだよ。君もまた一個人なんだね、エリーさん」
火勢を取り戻した釜土を背にし、ミキがエリーの方に振り向いた。
「だからね、これは肝に銘じてほしい。……アルフレッドの仕打ちは、アタシも許し難いよ。けれどもね、君が自刃しても、ヘーゼルを悲しませるのは、同じだよ」
反論できなかった。
「君が君自身を傷つけると、それ以上に傷つく人だっているってことを、忘れないでおくれ」
ヘーゼルはエリーを助けてくれた。
お腹の赤ちゃんもまとめて精一杯庇ってくれた、優しい人だ。
自分に刃を向けるのは、そんなヘーゼルの善意を踏みにじるに等しい行為だと、ミキは言っている。
激高し、開いた口を閉じようにも、空気が飴になったようで、中々唇が合わなかった。
ミキが煮込みの味を見て、頷く。
「ま、どうせ、アルフレッドがどんな怪我でも治すだろうって目論見があるからだろうけれど……。深く刺したら、その部位が爆散するよ? さすがにそれはマズいんじゃないかな?」
短剣でなくとも、エリーの心臓が刺されたようだった。
(爆散する……?)
愕然とした。精々、傷口が焼け爛れるとしか考えていなかった。
血の滲むような悔しさに胸が潰されそうだった。
(私、ちゃんと自分で決断したつもりだったのに)
結局は、自分の行動が想定以上に悲惨な結果をもたらす可能性を考慮せず、感情任せになっていただけだった。
安い命ではないと、自負したくせに。
「記憶喪失だから憐れんでとか、吸血鬼がいるから怪我なんてへっちゃらとか、そういう風にさ、他人に勝手な期待を寄せていたら、それこそ痛い目を見るよ。敵に甘い期待を寄せたときは、特に痛いのが返ってくる」
ミキの一言一言が、エリーの胸に重く積もる。
ミキが煮込みの味を見る。というかもう普通に食べているように見える。
「とにかく、助けてもらった命なら、助けてもらったことに報いるように生きるのが礼儀ってものさ」
それはヘーゼルに報いることであり、記憶の中のアルデンスに報いることでもある。
エリーは俯き、唇を噛んだ。
ミキが丁寧に過ちを諭しているのは、エリーにもわかる。
けれども、エリーの人生を侵略するアルフレッドへの怒りは冷めやらない。
鬱屈した気が胸の底に居座っていた。
なのに、煮物の香りに鼻がくすぐられると、腹の虫が目を覚まして、元気に騒ぐのだった。
「ふふ。今のは人間らしい音だね」
ミキにも聞かれたようで、エリーは遅れて腹を抱えてうずくまった。
アルフレッドといい、赤ちゃんといい、ままならない身体だ。
「ひもじい、寒い、寂しい、なんてときには特に気をつけなきゃ。周りが見えなくなるし、妙案なんか浮かびっこないんだから」
「……すみません。私、あんな奴がいなくても、ちゃんと……自分の力で、何とか……何とかしたかった……何とかできるって、思ってほしかったんです……」
「そうなんだね」
「でも、こんな馬鹿げた手段しか思いつかなかった……」
「そうだったね」
「アルフレッドが憎いのに、あいつの力なしじゃ、私……流されてばかりで、自分独りじゃ何もできない弱虫で……」
腹の虫を聞かれた羞恥は、いつの間にか目から熱い涙となってこぼれていた。
エリーを導いてくれたアルデンスの命を使い潰し、吸血鬼に翻弄され、追手を亡き者にした。多大な犠牲を払ってなお弱いままの自分自身が、憎くて情けない。
ミキの言葉で、エリーの本性を赤裸々に暴かれてなお、言い訳ばかりの自分が嫌いになりそうだった。
「良いかい、エリーさん。君は受け身な君自身がもどかしいようだけれど、流れに身を任せるのも大きな才能だよ。特に、君は逆境に身を置いていて、逆境の中でも特別激流じゃないか。下手に足掻いたらかえって溺れてしまうようなね」
「……慰めないで、ください。勿体ない、です……。私なんかに」
「最後までお聴きよ……。それで、そう。君は運良く流木に乗り上げたとしよう。想像してごらん。今の君は頼りない流木に乗って流されて、このままじゃいけないと焦っている。再び激流に飛びこんで岸まで泳ぐか、もっと大きな流木に移ろうか……色々目移りするだろうけれど、流木から離れるのは危険さ。そういうときには何もしない、何も選ばないのが安全だよね。当たり前だと思うかもしれないけれども、じっとすることって案外忍耐が試されるんだよ」
「……何が言いたいんですか」
「エリーさんは受け身なようでいて、状況をちゃんと見て、正しく忍耐を選んでいるってことだよ。これ、中々できることじゃないよ」
受け身なのに、流されているのに、エリー自身が選んでいる?
「そんな考え方って、あり、なんですか……?」
「ありあり、大あり。さっきも言ったでしょ。むしろ難しいんだって。短剣寄越せ! 切腹してやる! なんて自暴自棄になるより、ずっと難しいよ。自信持ちなって」
励ましてくれているのだろうか。
「こらこら、しょんぼりしている暇なんかないよ。赤ちゃん産んで、アルフレッドにぎゃふんと言わせて、記憶も取り戻すって豪語していた君はどこに行ったんだい?」
まさか、冷徹に吸血鬼を狩ろうとしているミキに、エリーを疑っているミキに励ましてもらえるとは思わなかった。
ミキの助言が的を得ているかどうかは、正直微妙だ。泣いたエリーを面倒臭がって言いくるめられただけのような気がする。
けれども、何であれ、エリーを泣き止ませるために言葉を選んでくれた優しさが、優しさを分けてくれた驚きが、エリーに涙を拭わせた。
「……すみません、ありがとうございます」
「気にしない気にしない。それよりさ、ヘーゼルを大事に思ってくれて、ありがとね」
その一言を合図に、キッチンが一層と明るくなった気がした。




