006 監視室の朝 2/6:寮生活を思い出す
廊下を歩くと床が軋んだ。建物に年季が入っている。
けれども、廃墟のような肌寒さも、埃っぽさもなく、水浸しでもない。古いだけで手入れが行き届いていて、よその家の匂いがエリーをそわそわさせる。
(いやいや、よそも何も、実家を覚えてないんだけれども)
エリーが気を失っている間に、ヘーゼルたちがここに運んでくれたようだ。
だとすれば、ここは安全な場所……ヘーゼルが言っていた“詰所”だろうか。
階下へ降りる。階段を降りた突き当りで、“入るな”の文字が目に飛びこんだ。ドアプレートだ。
紐でドアに吊るされ、重心がずれて傾いていた。文字の彫り方が雑で、ドアプレートと呼ぶのもはばかられるくらい急拵え感が丸出しだった。
警告に素直に従う訳もなく、かといってあえて背く気も起きず、ドアの前を通り過ぎる。
食欲を誘う香りと物音を頼りに別の扉を開ける。
そこはダイニングキッチンだった。
採光の豊かな仄明るさの下、釜土の前で人影がふらついている。
ヘーゼルより低い身長、ヘーゼルより黒い髪の後ろ姿。
しかし、まとった祭服は銀糸と金糸がふんだんに縫われ、薄い朝日を浴びて神々しく照り返している。
ミキ・ソーマ護律官。仮面の人。
エリーを乗っ取った吸血鬼が超常の力を振るおうとも、簡単に制圧してみせた人だ。
そんなおっかない人が、楯をお玉に持ち替えて、くつくつ煮えた鍋を掻き回している。料理中。声をかけづらい。
アルフレッド諸共殺されかけたこともあるし、何よりついさっき気まずい瞬間を見られたばかりだ。
物怖じしてばかりもいられないので、エリーはミキの好きなところを考えることにした。
好きなところを三つ見つければ、どんなに嫌いなものでも好きになれる。
廃墟で思い出して以来、このおまじないはエリーの心の拠り所の一つになっていた。
好きなところの一つ目は、その実力。これは外せない。
(二つ目は、破天荒さ? ……でも、破天荒なせいで、ヘーゼルを瓶でぶったし、悪夢みたいにキスされたのよね。却下。他には……何があったかしら)
酒好きの印象が強いけれども、それは絶対に好きなところになり得ない。
エリーの味方になってくれたことはどうだろう。
いや。一応エリーに味方してくれているけれども、腹の底はちょっと怪しい。
(……あれ、実はアルフレッドより、良いところを見つけるの、難しい人なの?)
「アタシの不意を突こうってつもりなら、無駄だと言っておくよ。アルフレッド」
まごついている間にミキが先に挨拶してきた。背中越しに投げられた挨拶の声は、酒焼けでガラガラしている。
それにしても言い方に棘がある。エリーはむっとして噛みつき返す。
「あ、あんなのと一緒にしないでください!」
「あそう? ま、アタシにとってはどっちでもそう変わりないけれども」
「大違いですよ!」
けれども、エリーにもミキの立場は理解できる。
一応、身体はエリーのもので、血液が吸血鬼アルフレッドということは、ミキが解き明かしている。
けれども、その意識はどちらのものだろう?
エリー本人の意識が残っていると、この世の誰が証明できるのだろう。
仮にエリーとアルフレッド、両者の意識がせめぎ合っているとわかったところで、今、どちらの意識が優位なのか見分ける術など、ミキにはない。
警戒されて当然だ。
エリーの考えを裏付けるように「君が今どっちかなんて問題じゃないんだよ」とミキが言う。
「アタシをアル中呼ばわりして。ゲロぶっかけた恨みは忘れていないからね。アタシ、どれだけ深酒しても覚えてるタイプなんだから」
そっちかあ。
「ご、ごめんなさい……」
確かにあれは酷かった。酷かったけれども。
「でも、あの、言いにくいんですけれども、あれはミキさんがお酒を一気した上に、口移しで吸血させたのも一因というか、おあいこというか……」
「そうだっけ。酔ってたから覚えてないや」
(こ、こいつ……適当なことを……! ……あ、ダメ、いけない)
深呼吸をする。水掛け論になる予感がして、エリーは怒りを鎮め、頭を切り替えた。
吐いた、呑んだ、忘れた忘れてない。そんなことよりももっと大事なことがある。
護律官であるミキ・ソーマが、吸血鬼に憑かれたエリーを見逃す理由は、エリーに情けをかけた訳ではない。エリーのお腹に宿った命、胎児に情けをかけたのだ。
更にはその小さな命すらも実のところ重要ではないときた。
ヘーゼルが必死に懇願した。それこそがミキの心を動かした。ミキは弟子のわがままに渋々応えただけなのだ。
内輪にかけた情けのおかげで、蚊帳の外のエリーが首の皮一枚で繋がったようなものである。
ここで何とか機嫌を取らないと、エリーの立場は悪いままだ。
「……改めて、私、エリーです。おはようございます」
ちょっと遠慮がちな挨拶になってしまった。
まずはエリーがエリーだと、吸血鬼ではないと、しつこいくらい言い続けてやろう。
ミキの良いところ探しは、追々どうにかしよう。第一印象が最悪だけれども、その点はヘーゼルだって一緒なんだから。
とにかく今は、ヘーゼルが一生懸命に執り成してくれた関係を大切にしよう。
ミキはぞんざいにでも「ああ、おはよう」と返してくれた。
「そんなところに突っ立ってないで、入っておいで。冷気が入ってきちゃうよ」
誘われるまま、緊張感して足を踏み入れる。
「それで、良く眠れたかな。エリーさん」
「お、陰様で……」
ミキが聞こえよがしに、疲れた溜め息をつく。
「はー羨まし。良かったね」
まだ言い方に棘がある。
「頭がすっきりしているなら、これだけは心に刻んでおくことだね。これで助かったと思わないことだよ。ヘーゼルに免じて一旦は助けてあげるけれども、アタシが危険と判断したら、いつでも吸血鬼とまとめて駆除するよ。さしずめ、君は火の点いた火薬庫。そのつもりで振る舞いを考えたまえ」
ミキから発せられる重圧で、僅かに残った眠気が払底された。
(ええ、ええ。承知していますとも)
昨晩、廃墟でミキから言い渡されたことでもあるし、夢の中でアルフレッドと復習したところだし。
(お慈悲をかけてくださって、どうもありがとうございます)
それにしたって、さっきから本当に酷い言われようだ。さすがに言われっ放しのままではいられない。
エリーはミキの慈悲に助けられた。ミキの責任で殺されかねない。だからといって言いなりに成り下がるほど、エリーの命は安くはなかった。
「お言葉ですが、私はこの子を産んで、アルフレッドに罪を償わせて、できれば記憶も取り戻したいんです。ヘーゼルにちゃんとお礼も言えてないし、謝れてもいません。何もできないままあいつと道連れだなんて、御免です」
ミキはお玉で鍋の縁をガンと叩いた。
「本気で言っているのかい?」
ミキの気迫にエリーはたじろいだ。
「まるで君は善良みたいな言い草だったけれども、悪いのは本当にあの吸血鬼だけかい?」
「あ、当たり前じゃないですか……あんな、あんな惨いこと、私」
思い出すだけでも寒気がする。
両腕を掻き抱くエリーを、ミキは歯牙にもかけなかった。
「ヘーゼルが言うには、君は命を狙われているらしいじゃないか。それだけのことをしでかしたんじゃないのかい?」
「そ、それは……そんなの……こっちが訊きたいくらいです。覚えてないんですから」
エリーは禁域で目覚めるより前のことは、全て忘れてしまった。何とか思い出せた記憶の断片だって、数少ない。
疑われたところで、否定することも、肯定することも、誤魔化すこともできない。尋ねられても困る。
「ああ、そうだったね。メンゴメンゴ」
(全然謝る気なんてなさそうなんだけれど?)
「じゃあ記憶喪失を前提に言わせてもらうけれどもね。禁域のあの惨状。君が言うあの惨いこと、少しも望んじゃいなかったって、断言できるのかい? 心の底じゃ追手を始末できて、追い払えて、清々しているんじゃないかい?」
「そ、それは……それだって――!」
一つも言い返せない。アルフレッドのせいとはいえ、エリーは既に二人殺している。
そのきっかけは、エリーがアルフレッドの誘惑に負けて、悪女になってやろうと開き直ったことだ。
実行したのはアルフレッドだとしても、その力に魅力を感じて、道具として扱ったのはエリーに他ならなかった。
「ふぅん? やっぱりそうなのかい?」
鎌をかけられた。気づいたときには遅かった。図星が沈黙に、表情に出てしまった。
「……違い、ます」
我ながら、言い訳じみていた。「どうだかね」とミキに鼻で嗤われた。
「今朝のことだって怪しいものだけれども」
「……あ」
違う。エリーは今ので確信した。
ミキは吸血鬼を警戒している。けれども、それだけではない。その線引きはエリーにまで及んでいる。
エリーのことも既に、吸血鬼と同じくらいに危険視している。
考えてみれば当たり前だ。経緯はどうあれ、エリーは侵入者で、吸血鬼騒ぎの台風の目である。罪状が多岐に渡るせいで、ミキはエリーのことも元々怪しんでいたのだ。
それでもひょっとしたら、記憶喪失のことを念頭に置いてくれていたのかもしれない。
なのに、そこに今朝の出来事を起こしてしまった。
ミキの中で疑惑が確信に変わりつつある。
今すぐ誤解を解いておかないとまずい。
「あの、あ、あれは違うんです。アルフレッドが勝手に……」
そこまで声して、エリーはハッと口を押さえた。
アルフレッドの力に魅了されていたことを、ミキに見抜かれたばかりだ。
「早速使いこなしているね。便利な言い訳だ」
「ち、違っ……今のは……」
エリーの足元が今にも崩れそうだった。
ミキは「アルフレッド、ねえ……」と渋く唸る。
「寮生活を思い出すね。懐かしいなあ……。若い女の子ばかり集めて閉じこめておくと、ものすんごい形で不満を解消するんだなあ、って。純真な乙女だった頃のアタシはそりゃもうびっくり仰天した訳だよ」
朝っぱらから何て話だ。聞いているエリーが恥ずかしくなってきた。
「な、何の話ですか……?」
エリーの戸惑いに、ミキは耳を貸してくれない。
「特にモテる子なんかそりゃもう、手練手管で下級生も上級生も、果てはOBまで心酔させちゃって……。メロメロになった人はどうなると思う?」
「……」
「その子に従順になるのさ。まるで忠実な下僕みたいにね」
「げ、下僕!?」
敵意のこめて、強調された響きだった。
「そ。コツがあってね。下僕にしたい子の前で、あえて弱みを晒すのさ。記憶がないの。頼れる人がいないの。あなたしかいないの。ってね」
(違う……違う、違う!)
エリーは本当に記憶喪失で困っている。吸血鬼なんておぞましい存在を利用してまで演技だなんて、誰がやるものか。
ミキは誤解している。エリーがヘーゼルを、ミキが語った手口で手籠めにして、新しい手先に引き入れようと目論んでいると決めつけている。
エリーの言い分も聞かないで。
「違います! 私、そんなつもり、ちっとも……!」
「アルデンス、だっけ?」
急所を掴まれたような悪寒に、エリーは襲われた。
「死体を見たよ。断定はできないけれども、死体の損壊具合と、衣服の破け具合を君の物と比べた感じだと、彼は君を庇いながら一緒に崖を落ちたようだね。信じられない献身だ。きっと彼は君に心酔していたか、それに近い強い感情を抱いていたんだろうね」
血の気が引く。寒い、切ない、心細い。胸が苦しい。口がわななく。
「……何が言いたいんですか」
声が情けないくらいに震えていた。
「ああ、気にしないでくれたまえ。思い出話ついでの独り言だよ。……けれども、もし万が一、身に覚えがあるのなら君、くれぐれも妙な気を起こさないでくれたまえよ」
エリーが、ろくでもない手口でアルデンスを誑かしたと責めているつもりだろうか。
だからヘーゼルにも同じ手口を使ったんだろう。ミキの本音が聞こえるような気がした。
ミキの中ではもう、事実が決まっているらしい。エリーの言い分に耳を貸すつもりもないのだ。エリーにもやっとそれがわかってきた。
言葉遣いや物腰は穏やかだけれども、腹の底の悪意を包み隠さず、ずけずけと言い詰ってくる。
「もしもの話だよ。本当は君が腹の底で何かを企んでいて、何もかも忘れている振りをしていてだね、ヘーゼルやアタシたちをその企みに巻きこもうって魂胆だったなら……アタシは、吸血鬼とか無関係に然るべき処置を執るよ」
とうとう、エリーが記憶喪失だということまで、なかったことにされている。
人の気も知らないで。
「……何、それ。企む? 企むだなんて、そんなの、私にはない。何も覚えてないのに、そんな」
ミキはわざとらしく大きな溜め息をついた。
「そろそろ、困るんだよね。そういう、こっちで解決できないことで被害者面されるの」
頭の中で一斉に門が閉じたような気がした。頭が理解を拒んでいた。
「……はい?」
「言わせないでくれたまえよ。記憶喪失のことさ。単刀直入に訊くけど、君は不幸自慢をして、アタシたちにどうしてほしいのかな? 共感してほしい? 苦しみを分かち合ってほしい? それとも、慰めてほしいのかい?」
「そ、そんなつもりじゃ……私はただ、普通に事情を説明しただけで」
「本当か嘘かもわからないことを、バカの一つ覚えで主張されても……ねえ?」
そう言うミキの口調こそ、エリーを小バカにしている。
(何よ……)
記憶喪失。身に覚えのない断罪、刺客たち。吸血鬼の寄生。エリーの死と復活。惨殺、血に汚れたエリーの手。
身に覚えのない妊娠。
不安でたまらないし、慰めてほしいのは図星だった。
けれども、わざわざそんな、嫌みったらしく言わなくても。
(……災難だったね、で良いじゃない)
何もわからないまま巻きこまれて、困っているのは、エリーの方なのに。
(こっちだって……、こっちだって、好きでこんな目に遭っている訳じゃないのに……!)
いつの間にか、痛いくらいに拳を握っていた。
(あなたまで、私のことを、人誑しの悪女だって言いたいの!?)
あのナイフ使いのように。エリーの命を狙う追手たちのように。
「ま、大人しくしてくれるなら、君の希望通りには振舞ってあげ――」
黙って聞いていたエリーが、わなわな震える唇を開いた。
「短剣、貸してください」
エリーは声の圧を強めてミキの話を遮った。
これ以上、聞く気にはなれなかった。
(本当か嘘かわからないって言うなら、私の本気をその目に焼きつけてやる……!)
ミキがお玉を止めて振り向く。
口元に垂れるチェーンヴェールがしゃらしゃらと流れた。




