005 監視室の朝 1/6:勘違いの色狂い夜這い野郎
温かで柔らかな、そして蕩ける感触が、エリーの口を満たしていた。
重ねた唇と、人の舌の歯応え、それと血のぬめり。
起き抜けの息苦しさに、エリーは仰け反って息を継ぐ。口になみなみと満ちた鉄臭い血が、ごぼりと顎を流れ落ちた。
エリーの口から零れた血が、ヘーゼルの顔に注がれる。
エリーがヘーゼルを押し倒したような、四つん這いで見下ろす体勢だった。
毛皮敷きのベッドの上。掛け布団の中で、肩でする息遣いが二つ重なっている。
エリーの髪が垂れて、ヘーゼルの顔だけを世界から切り取っているように見えた。
寝起きのヘーゼルは黒銀の髪を下ろしていた。
血塗れの顔に、上気した頬。鋭い眼差しを悩まし気に蕩かせ、潤んだ瞳が揺れて、エリーを正視できないでいるようだった。
初対面の男勝りな印象とは裏腹に、今のヘーゼルはエリーでもドキリとするほど色っぽい。
薄日の明けが窓の板戸の隙間から幽かに漏れていた。
汗の熱さが、たちまち冷えていく。
「ごっ、ごめっ、ごめん、ヘーゼル」
真っ直ぐ目を見れない。
これはアルフレッドが……なんて言い訳は、不誠実だ。
本当にエリーの中に潜む怪物の仕業だとしても、エリー自身の落ち度で巻きこんでしまったことなのだ。
だからエリーは「……私」と呟いた。
とにかくヘーゼルから離れようと、エリーが身をよじったときだった。
「ああんっ」と婀娜っぽい声を上げるヘーゼルに、エリーはまたドキリとさせられた。
手が、柔らかな感触のものを握っていた。体重をかけた拍子に、指先がその柔らかさに浅く沈んだ。
恐る恐る感触の正体を目にすると、ヘーゼルの乳房。エリーの手が乳房を揉んでいる。
しかも、ひょっとしたら言い訳の利かない、デリケートな部位を突いてしまったかもしれない。
ヘーゼルは人狼だ。身体中にあるトラ縞模様は、オオカミの毛皮を畳んだスリットで、その中は結構深くてもふもふしている。
乳房に引かれたスリットの中に、指を滑らせていた。
隠された滑らかな毛並みの奥、指先が固い蕾のような何かに当たっている。
エリーは固まった。呼吸で上下するヘーゼルの胸郭に、手が押し返されては、下がっていく。
二人とも、生まれたままの姿であった。
二人の顔が赤らんだ。汗で冷えた身体が、再び火照りを取り戻していく。犯した指先、漏れた痴態。羞恥心で硬直し、お互いがお互いから目を離せない。
本能の火で火が通ったような息遣いと、否応なしに胸を叩く心臓が、二人の行為に言い逃れできない意味を突きつける。
その意味に駆られるかのように、ヘーゼルの瞳孔が爛々と開いた。
血が巡るにつれてヘーゼルの目は悩まし気に据わり、鼻息も口息も荒くなっていく。
怒っているようにも見える興奮度合いで、見るからに人狼の血が騒いでいた。
「ご、ごめん! 本当にごめ……んん!?」
エリーの首に腕が回され、抱き寄せられた。ヘーゼルが強引に、密着した二人の上下を逆転させる。ヘーゼルの顔から血が飛び散り、エリーに返った。
エリーの上に跨ったヘーゼルが、熱っぽい視線で見下ろしてくる。
「ヘーゼル!? ちょっとヘーゼルさん!?」
返答はない。代わりに寄越されたのは、乱れた呼吸と、夢見心地に蕩けた目つき。
顔と、引き締まった身体の曲線に伝い落ちる血を、塗りたくるように拭う手つき。
エリーは、ヘーゼルの肢体に目を奪われた。拭い残しの血が、その肌に川の流れのような模様を刻んでいた。
血の模様がヘーゼルのトラ縞模様と交差して妖しく、雄々しくも女の曲線美を備えた肉体が汗ばんで、外から差しこむ薄明を照り返している。
思わず生唾を呑む。
ヘーゼルの胸が上下する度に、全身のスリットからオオカミの毛が見え隠れする。
熱視線に射すくめられた心臓が、耳にうるさい。なのに、ヘーゼルの熱っぽい息遣いがはっきり聞こえる。
胸を鷲掴みにされた。
「ひあっ」
エリーは目をギュッと閉じ、身をよじって逃げようとした。しかし、ヘーゼルの方が必死で、力強かった。
「へ~い……、起きな~……、眠り姫様方~……」
突如、乱暴に開かれた扉から、虫の息のミキが雪崩れこんだ。
冷水を浴びせられたように、室内の二人が短い悲鳴を上げる。
あたふたしたがもう遅い。エリーが下で、ヘーゼルは馬乗り。二人とも血まみれ。
二人して再び硬直する。
ミキも絶句する。
「その血……」
「やっ、あの、これは……」
エリーは咄嗟に言い逃れようとした。けれども、何からどう弁明しても話がこじれそうで、言葉が出なかった。
エリーがしどろもどろになっている内に、ミキはベルトのホルダーから瓶を抜き、中から露術で水を出し――。
忘れ物を取りに帰るような動きで水を瓶に引っ込めさせた。
「あれ……でも、上がヘーゼルで、下が吸血鬼……いや逆に……ううん……? ええ……?」
ミキが困惑していると、極度の緊張でヘーゼルが力みすぎたせいか、手が血でズルッと滑ってしまった。
ヘーゼルの指や手の平の感触が絶え間なく瞬時に、エリーの繊細な箇所を通り過ぎざまに苛んだ。
「ああんムグ……!」
口を塞ぐのが、一拍遅かった。叩くように塞いだせいで、口元がじんじんと痺れた。
気まずい静けさ。
ミキは考えるのを諦めたのか、酒臭い大長息を吐いた。
「まあ……ほどほどにしときなよ。着替えたら降りてきてね。……美女と野獣の方だったか」
不機嫌かつ不可解そうにそう言い残して、扉が閉ざされる。
「またえらくハードな……最近の若者はどうなってんのさ……」とか、微かに聞こえた気がする。
足音が遠ざかって、何も聞こえなくなった。
放心して、どれだけ経っただろう。
先に目が覚めたのは、ヘーゼルだった。
ヘーゼルは何事もなかったのように黙々と、そそくさとベッドから降りた。布団をきっちりエリーの肩までかけ直してくれた。
ナイトテーブルの手ぬぐいで顔を拭く。
もう一本の手ぬぐいを、呆然とするエリーの顔へ、ふわりと投げる。
急に投げられたせいで、エリーの視界が遮られた。慌てて手ぬぐいを取ると、ヘーゼルが着替えている最中だった。
「そいつで顔拭けよ。着替えはそっち」
振り向かずに、ヘーゼルが椅子に畳み置かれた衣服を指す。
「あ、あの……私、何てお詫びすれば……」
「良いから」
つっけんどんな返事は鼻声で、湿っていた。洟をすすった後、ヘーゼルは手ぬぐいで目元を拭ったようだった。
しゃくり上げるようにも見えたので、エリーは咄嗟に引き留めようと腕を伸ばす。
けれども、何て声をかけたら良いかわからない。
ためらっている内に、ヘーゼルは「すまねえ」と涙声を残して、結局最後までエリーの方に振り返ることもなく、やや前のめりで、足早に部屋を後にした。
足音が遠ざかって、すすり泣く声も聞こえなくなった。
「ヘーゼル……」
消え入る声でエリーは呟く。泣いていた。泣かせてしまった。引き留める先を失った手で、虚空を固く掴んで、布団に叩きつけた。
「アルフレッド!」
叩きつけた拳に怒鳴る。
「出ろ! 出てこい! この勘違いの色狂い夜這い野郎! 血の一滴まで天日干しにして、水底に沈めてやる! 出なさい! 出ろ!」
いくら喚いても、なしのつぶてだった。
口の減らない男のくせに、黙っているだけでこんなにムカつかせてくるだなんて。
エリーは壁に拳を叩きつけたが、自分に痛みが返るだけだった。
「卑怯者! 臆病者! 小娘に言われっ放しで悔しくないの!? それでも男!?」
赤くなった拳を罵る。
ふと、窓から差す朝日に目が留まった。
エリーは戸板を開けて、曙光に手をかざす。
吸血鬼の弱点は日差しだ。痛い目に遭わせてやる。その一念で窓から身を乗り出さんばかりに手を伸ばす。
だが、何の痛痒も感じない。暖かいだけの、普通の日差しだ。
何をやっても無駄なのが悔しくて、もう一発、苦し紛れに壁を殴った。
痺れる手で不承不承、口元の血を拭う。
用意された肌着に袖を通し、厚手で鮮やかなフェルト地のワンピースを着て、ケープを肩に重ねた。
靴下とブーツを履き、部屋を後にする。
(ヘーゼルにちゃんと謝らなきゃ)
けれども、ベッドの中でアルフレッドが繰り広げたであろう色事を思うと、どんな顔で会えば良いのか、エリーにはわからなかった。
「……ていうかナイフも返せてないじゃんかあ」
エリーは頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。
禁域で護身用に貸してもらった、あのナイフ。どさくさに紛れて廃墟に放置したままだった。
小鳥のさえずりさえ去った朝の静寂。うずくまったエリーの目の前、服の下には、物言わぬへそがある。
「赤ちゃん……」
エリーは混乱と責任の板挟みになりながら、パンと両頬を張った。
「……しっかりしなきゃね。タフな女なんでしょ、私」
とにかく、やるべきことは決まっている。
一、生き延びる。二、無事に産む。三、アルフレッドに思い知らせる。
この三つを前提に、殺し屋やあの人も含めて諸々の過去を思い出すことを大きな目標にする。
こんなところだろうけれども、今は全部後回しだ。
ヘーゼルに償う。今はこれが最優先だ。




