006 寮生活を思い出す
エリーの知らない建物だった。
一歩ごとにきしむ床に建物の年季を感じるものの、廃墟のような肌寒さ、埃っぽさはなく清潔で、人の手が行き届いていた。
気を失っている間に、ヘーゼルたちが安全な場所まで運んでくれたのだろう。
階下に降りたエリーの目に“入るな”の文字が飛びこんだ。
ドアプレートと呼ぶには急ごしらえの板切れに文字が彫られている。重心がずれているのか、紐で吊るされたそれは、乾いた笑いを誘うほど傾いていた。
食欲を誘う香りと物音を頼りに突き当りを曲がり、部屋を探るとそこはダイニングキッチンだった。
採光の行き届いた仄明るさの下、釜土の前で誰かがふらつきながら、くつくつ煮えた鍋をお玉で掻き回している。ヘーゼルより低い身長、ヘーゼルより黒い髪の後ろ姿。しかし、まとった祭服は銀糸と金糸がふんだんに縫われ、薄い朝日を浴びて神々しさを帯びている。
ミキ・ソーマ護律官。仮面の人。エリーを乗っ取った吸血鬼が超常の力を振るおうとも、簡単に制圧してみせた人だ。
二日酔いに悩まされながら朝食を作っている背中に、その面影はないけれど。
声をかけづらい。
ふと、エリーはミキの好きなところを考えた。好きなところを三つ見つければ、嫌いでも好きになれる。多分、怖くても好きになれる。廃墟で思い出して以来、このおまじないはエリーの心の拠り所の一つになっていた。
好きなところの一つ目は、その実力。これは外せない。二つ目は、破天荒さ? でも、破天荒なせいで、ヘーゼルを瓶でぶったし、悪夢みたいにキスされたのよね。却下。
二つ目は……何かしら。酒好きの印象が強いけど、それは絶対に違う。今は一応エリーに味方してくれているけれど、腹の底はちょっと怪しい。
……あれ、実はアルフレッドより、良いところを見つけるの、難しい人なの?
「アタシの不意を突こうってつもりなら、無駄だと言っておくよ。アルフレッド」
まごついている間に、背中越しに投げられた挨拶の声は、酒焼けでガラガラしていた。エリーはむっとして噛みつき返す。
「あ、あんなのと一緒にしないでください!」
「あそう? ま、アタシにとってはどっちでも変わりないけれども」
冷たいが、無理もない。今どちらの意識が優位なのか見分ける術など、ミキにはないはずだ。
……いや、そもそも、エリー本人の意識が残っていると、この世の誰が判断できるのだろう。警戒されて当然だ。
「アタシにゲロぶっかけた恨みは忘れていないからね。アタシ、どれだけ泥酔しても覚えてるタイプだから」
そっちかあ。「ご、ごめんなさい……」確かにあれは酷かった。酷かったけれども、それどころの状況なの。
護律官であるミキ・ソーマが、吸血鬼に憑かれたエリーを見逃す理由は情けではない。エリーのお腹に宿った命、胎児のため。更にはその小さな命すらも要点ではなく、むしろヘーゼルが必死に懇願したから、という身内贔屓が大きい。
首の皮一枚で繋がった命。それも、本当は皮すら切れていて、ヘーゼルが繋ぎ留めてくれている。
第一印象が最悪だからって、くよくよしても前に進まない。まずはエリーがエリーだと、しつこいくらい言い続けてやろう。
「……改めて、私、エリーです。おはようございます」
ちょっと遠慮がちな挨拶になってしまった。ミキはぞんざいにでも「ああ、おはよう」と返してくれた。
「そんなところに突っ立ってないで、入っておいで。冷気が入ってきちゃうよ」
誘われるまま、足を踏み入れる。
ミキの良いところ探しは、追々どうにかなるだろう。第一印象が最悪だけれど。
とにかく今は、ヘーゼルが一生懸命に執り成してくれた関係を大切にしようと、エリーは決心した。それまで二つ目は破天荒、三つ目はエリーの味方で間に合わせよう。
第一、聞きたいことがたくさんある。人見知りしたままじゃ、いられない。
「それで、良く眠れたかな。エリーさん」
「お、陰様で……」
ミキが聞こえよがしに、疲れた溜め息をつく。
「はー羨まし。良かったね」
い、言い方に棘がある。
「頭がすっきりしているなら、これだけは心に刻んでおくことだね。これで助かったと思わないことだよ。ヘーゼルに免じて一旦は助けてあげるけれども、アタシが危険と判断したら、いつでも吸血鬼とまとめて駆除するよ。努々忘れないことだね。さしずめ、君は火の点いた火薬庫かな。そのつもりで振る舞いを考えたまえ」
ミキから発せられる重圧で、僅かに残った眠気が払底された。
ええ、ええ。承知していますとも。昨晩、廃墟でミキから言い聞かされたことでもあるし、夢の中でアルフレッドと復習したことだ。お慈悲をくださってありがとうございます。
それにしても本当に、酷い言われようね……。ヘーゼルがそばにいないと、不安で潰されてしまいそう。
早速漂い出した険悪な気配を、エリーは払うつもりで話題を探した。
「あの……そ、そう、お洋服。これ、ありがとうございます」
「ん、ああ」
ミキが気怠そうに一瞥をくれた。こんな朝から仮面を着けている。鍋の湯気で結露していた。すぐ視線が鍋に戻る。
「好く似合っているね。寸法はどうかな」
「丁度良いです」少し大きいけれど。
「あそ、良かったね」
ミキが鍋の中身を味見する。塩かな。薪の爆ぜる音に消え入りそうな独り言だった。
「……」会話が続かない。誰か助けて。「……あの、具合、悪いんですか?」
「誰かさんのゲロのおかげでね」
藪蛇だった。それも一度経験したやつ。私のバカ!
「というのは半分冗談。バッチリ二日酔いな上に寝不足なだけ。身から出た錆だね」
「アルフレッドが……いえ、私、ミキさんの舌、噛んだのは」
それも、吸血鬼が噛んだのだから、一大事のはずだ。
「もう治したよ」
しかし、ミキはこともなげに言ってのける。伸びた犬歯を根元まで刺したはずなのに。
「私に気を遣わせないためにそう言ってくださるのは嬉しいんですけど……」
「本当だよ。回復が早いのは吸血鬼だけだと思われちゃ困るな」
だとしたら人間離れしすぎでしょ。
「ミキさん、本当に人間ですか」
「失礼だね君」
低い声に、エリーは怯んだ。二日酔いと寝不足の溜め息が、床を這うかのように吐き出された。
「まあ、褒め言葉と受け取っておくよ」
今のは、確実に気を遣われた。
「……ひょっとして、露術って、治癒の力もあるんですか」
ミキと普通の人の違う点は、露術と呼ばれる魔法を使うところだと、エリーは思い出す。水を自由自在に操る術だとばかり思っていたが、異様に早い回復を説明するなら、その不思議な力しか考えられなかった。
酒焼け声が、少しだけ軽やかになって返ってくる。
「お、鋭いね。まあ、裏道みたいな使い方だけど」
「そう、なんですか。なら、良かった、です」
話が途絶える。ことことと鍋だけが賑やかだ。
気まずく感じるのは、エリー自身がずっと話をはぐらかしている気でいるせいだ。今朝の出来事はまだ、エリーの中で整理できていない。その上、あれをミキに見られたせいで、余計に頭がどうにかなりそうだった。
今ここで、せめて、ミキの誤解は解いておかないと、ずっと気まずい。
「あの、さ、さっきのは、違うんです。アルフレッドが勝手に……」
言い訳がましく聞こえないかしら。ミキは「んー……」と渋く唸る。
「寮生活を思い出すね。懐かしいなあ……若い女の子ばかり集めて閉じこめると、ものすんごい形で不満を解消するんだなあ、って……特にモテる子なんかそりゃもう」
話を聞いてくれているようで、全く耳を傾けていないのが、次第にわかってきた。共感や慰みの態度を取っているように聞こえるが、腹の底でミキは暗にエリーのせいだと決めつけて、揶揄しているのではないか。
災難だったね、で良くないですか。
黙って聞いていたエリーが、わなわな震える唇を開いた。
「短剣、貸してください」
朝から秘話を聞く気にはなれず、エリーは声の圧を強めてミキの話を遮った。ミキがお玉を止めて振り向く。口元に垂れるチェーンヴェールがしゃらしゃらと流れた。
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