001 女と血の境界線 1/4:夢の血鏡
「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」
――ルカによる福音書 22章20節
どこまでも続く暗闇に、足元は一面の血。一脚の椅子。
気づけば、エリーはここに座らされていた。
記憶が覚束ない。ミキ・ソーマという人に氷漬けにされて、口にするのもおぞましい物を口移された直後、疲労の限界で朦朧としていたところまでは覚えている。
死ぬかと思った。身体の外側はおろか内側もゲロにまみれること、あるんだ。
誰でも良いから助けて欲しかったのだけれども、手足はおろか口までかじかんで上手く声にできなかった。
そもそも助けを呼べたところで、ヘーゼルは空き瓶で殴られて気絶している。ミキは吐くだけ吐いて水間を漂っている。
気が遠退く。氷漬けにされたまま眠ったら死んでしまう。
舌に残る苦酸っぱい後味と、鼻腔を焼くほどの異臭を気つけ薬代わりにして、何とか意識を保とうとした。
けれども、頼りの気つけ薬は目眩まで誘う劇物で、その刺激で重たい目蓋を持ち上げては、重さに負けての間でせめぎ合っていた。
夢現を行き来する。意識が暗転し、ガクンと首の落ちる反動で「寝てた!」と飛び起きてみれば、ここだ。
ここは、暗闇の広がりも、空の高さも、血の底も果てしない。
現実離れした広大な空間の中心に座っている。
静けさに圧迫されそうだった。
「あれ。私、死んだ?」
独りでに呟いていた。足元の血が、ごぼごぼ沸いてくる。
「な、何?」
血の底から、唸り声が聞こえた。血の泡から逃れようとした瞬間、足首を掴まれる。
「ひっ!?」
血まみれの手がエリーの足首を手掛かりに、それが浮上する。
ナイフ使いの、生ける屍だった。
みぞおちから下が失われていた。ずたずたにされた口はたどたどしく言葉を紡ぎ、一呼吸ごとに血を吐く。
「よくも……よくも……この、悪女、があ……」
エリーは金縛りに遭ったように動けなくなった。
ナイフ使いに釘づけになっていると、目の前をフクロウの羽根が横切る。
羽根吹雪が舞い散る中、どこからともなく翼を広げた鳥人が舞い降り、エリーの背中から襲いかかる。
胸に大穴を空けた鳥人は、エリーの肩へくちばしを食いこませ、肉をついばんだ。
「い、嫌っ!」
死者たちの怨念が、エリーの柔肌に容赦なく爪と歯を立てる。
必死にエリーは骸を足蹴にし、振り払う。骸が傷つくたびに、その腐敗した血をエリーは浴びた。
「よくも、俺たちを」
「殺してくれたね」
「悪女め」
「君に生きる価値などない」
「こっちに来い」
「悪女に相応しい場所へ、連れて行ってあげよう」
「そこでお話しようや」
違う。エリーが、エリーに宿った邪悪な意思が、アルフレッドが彼らを葬ったのだ。
「嫌! 嫌ぁ! ご、ごめんなさい! ごめんなさい! あれは、あれをやったのは、私じゃない! 私じゃないの! だからやめて!」
エリーが必死に釈明しても、死者たちは聞く耳を持たない。
「てめえ、どんな悪事を働いた?」
失われた記憶に、過去に遡及して、今生の殺戮の罪が浸透していく。
「私……私は……」
血に引きずりこまれる。エリーは半狂乱で血を掻いた。
それでも沈む。エリーは椅子ごと沈められていく。挙げた手はフクロウがついばみ、ナイフ使いの手がエリーの肩を、首を、口を、頭を掴み、沈めようとしてくる。
遂にエリーは口と鼻を水面から喘がせるまで血に浸かり、フクロウの鉤爪がそこに止まった。
重みで沈む。ずぷり、ずぷり、ごぽぽぽ……。
「ぶはっ!」
息を切らせて目覚めると、全く同じ空間で元通り椅子に座らされていた。身体は乾いて、血の一滴もついていない。
「何……何なのここ、さっきの……。まさか、本当に死んじゃった……?」
少なくとも現世や天国には見えない。先程の死者たちは、地獄の罰を下すために蘇ったようだった。
(ま、まさか、今の、ずっと繰り返すんじゃ……?)
エリーの犯した罪が雪がれるまで。
どこかで耳にした子守唄が途切れ途切れに囁かれているのに気づいたのは、そのときだった。
子守唄が止み、足元の血が嗤って、波紋が幾重にも浮かぶ。
【確かに、死んだ方がマシな目に遭った。お互いにな】
足元の血が一点に集まって、人頭大の球形になる。揺らめく血の球から、いけ好かない男の声がする。
【よお、エリー】
「……アルフレッド」
アルフレッド・ヴァルケル。エリーの中に巣食う吸血鬼。エリーの身体を乗っ取って、人を殺した人でなし。
結果的にエリーを守ったことにはなるものの、やはり、そのやり口が生理的に受けつけない。
エリーは血の球を前にして身構えた。血の球は鏡となって、エリーの顔を赤く歪めて映した。
「夢じゃなかったのね」忌々しく言い捨てる。
廃墟で目覚めたこと。記憶の欠落。心身共に切り刻まれて、切り刻み返したこと。それだけに飽き足らず、禁域に居合わせた人々を無差別に手にかけようとしたこと。
全てが今際の際の夢で、本当のエリーはあの世に逝ったと本気で信じかけていた。
【夢さ。テメエ、うなされてたんだぜ? どんな夢を見ていたんだ?】
血鏡のエリー、アルフレッドがにやにやと言う。
白々しい。殺し屋たちの夢を見せたのは、こいつに決まっている。
「あんた男でしょう。私の真似なんかして、どういうつもり?」
【今はオレ本来の血より、テメエの血の方が濃いからな。細胞も勘定に入れりゃ多勢に無勢でよ。オレの形より、そっちの形に引っ張られちまう】
「細胞だか裁縫だか知らないけれど、消えてちょうだい」
精一杯の怖い顔を作って、エリーは威嚇する。
【ンだその、ぺっぽこぷーのぱぁって感じの顔は。ふざけてんのか】
「ぺっ……!?」そんな迫力なかった!?
やぶれかぶれでエリーは頬を膨らませ、拳骨を握って脅した。
「ど、どうやら、もう一発お見舞いされたいらしいわね」
【もう一発……? 誰がテメエのなんか……ああ、あのへなちょこ連続パンチか】
「へな……っ!?」物の数にも入ってなかった!?
【んだよ、落ち着きのねえ女だな。肩の力抜けよ】
油断しろって? 冗談じゃないわ。
【テメエに話がある】
「あんたの話なんかもう聞いてやるもんか。ましてや私の顔でだなんてお断りよ。気味が悪い」
【おいおい、命の恩人に向かって何つー口の利き方だよ】
ふん。エリーは唇を尖らせた。
「命の恩人? どうだか。そもそも、私が記憶喪失ぅ? あんたに都合良すぎ。本当は元気な私を襲って、記憶を奪っ」エリーの頭が割れた。「……た? んじゃ、ない、の……え……?」
血管から脳内を挽かれ、頭蓋を砕かれ、頭皮が裂かれる。
裂傷から血が噴水の如く八方へ噴き、エリーは卒倒。したかに感じた瞬間、エリーは踏み止まった。
「はぁ!? はぁ、はぁ……!」
慌てて頭を隅々まで確かめたが、怪我一つない。
「……げ、幻覚?」
いや、あれは確実に死んでいた。死の実感が真に迫っていた。
息が上がって、冷や汗が滝となって額を流れていく。震えが止まらない身体をエリーは掻き抱く。
【オレが居合わせたとき、テメエはそんなんだったぜ】
「……今の、あんたが」
【信じねえから、親切に教えてやったんだ。テメエが何も覚えてねえのも、脳神経の断裂で物理的に……】
「最っ低!」
アルフレッドがろくでもない怪物だということは骨身に染みて理解しているつもりだった。
甘かった。
まさか、死ぬ感覚を味わわせるためだけに、一瞬だけ殺すなんて芸当ができるとは、思いも寄らなかった
そんな、人間では実現し得ない苦痛と恐怖を押しつけてくるだなんて。
こんな怪物とは、まともに意思を通わせられない。
「もう放っておいてよ! 顔も見たくない!」
捨て台詞と共に、椅子ごと、エリーは背を向けた。
【そうか。なら、身体から出てってやっても良いぜ】
耳を引かれる一声だった。
【当然、見返りはもらうがな】
アルフレッドを映した血鏡が、エリーの周りを飛び回り、囁く。
【わかってんだろ? オレたちは、まだ助かってねえ。あの拝露教徒は、条件付きで処刑を先送りにしただけだぜ。胎のガキが生まれた後、オレたちはどうなる? いや、ガキをひり出すまで持ちゃ上等だ。途中で流れてもみろ。そこでオレたちゃコレだぜ?】
首を掻き切る仕草で、アルフレッドはおどけた。
【やったぜ】
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