第3話:モブの戦い方は、泥臭く、無様に
「あぁ? なんだお前。引っ込んでろよ、くそが!」
男が苛立ったように俺を睨みつける。その目には、完全に理性の欠片もない狂気が宿っていた。
ゲームの主人公なら、ここで相手の攻撃を華麗にいなし、一撃で気絶させるのだろう。だが、俺にそんな戦闘技術はない。
「不知火、走れ!」
叫ぶと同時に、俺はポケットから取り出した催涙スプレーを男の顔面に至近距離で噴射した。
「ぎゃああああああっ!? 目が、目がぁ!」
男が顔を押さえて絶叫する。よし、効いた!
すかさず俺はスタンガンを突き出そうとしたが、激昂した男が盲目的に振り回した腕が、俺の顔面に直撃した。
「ぶっ……!?」
強烈な衝撃と共に、視界が火花を散らす。地面の泥水に叩きつけられ、口の中に血の味が広がった。痛い、信じられないくらい痛い。一瞬で意識が飛びそうになる。
「佐藤くん……!?」
遠くで、怜奈が俺の名前を呼んだ気がした。彼女は恐怖で足がすくみ、逃げ出すこともできずにその場にへたり込んでいた。
「クソ……がっ!」
男は目を真っ赤に腫らし、涙と鼻水を流しながら、懐から小型のサバイバルナイフを取り出した。
「殺してやる……僕と怜奈ちゃんの邪魔をする奴は、全員殺してやる!」
ナイフの切っ先が、雨の中で鈍く光る。
モブの頭が「逃げろ」と警報を鳴らす。前世のサラリーマン根性が「関わるな」と叫ぶ。
だけど、ここで俺が倒れたら、あいつの人生は終わる。それだけは絶対に嫌だ。
「なめるな……っ!」
俺は泥まみれの地面を這い、男の足元にタックルをかました。不意を突かれた男の巨体が、激しく地面に倒れ込む。
すかさずその上に馬乗りになり、右手に持ったスタンガンを男の首筋に押し当てた。
パチパチパチパチッ!!!
激しい電撃の音と共に、男の身体が大きく痙攣する。
しかし、男も必死だった。最後の力を振り絞った男の左拳が、俺の脇腹を激しく殴りつけた。
「がはっ……!」
防刃ベストの上からでも、肋骨が軋むような痛みが走る。息ができない。
それでも、俺はスタンガンのスイッチを離さなかった。男の目が白目を剥き、完全に脱力して動かなくなるまで、必死にトリガーを引き続けた。
やがて、パチリ……とスタンガンの音が途切れ、男は気を失って水たまりに沈んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
俺は男の身体から転がり落ち、冷たい雨を受けながら、激しく呼吸した。
全身が痛みの奴隷のようだった。顔は腫れ上がり、脇腹は激痛で動かせない。服は泥と血で最悪の汚れ方をしている。
「佐藤くん……どうして、あなたがここにいるの?」
震える声が、上空から降ってきた。
見上げると、不知火怜奈が、まるで信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。彼女のトレードマークだった「氷の仮面」は完全に剥がれ落ち、そこにあるのは、ただの怯えた16歳の少女の顔だった。
「佐藤くん、私、あなたに何も話してないのに……。関わったら、あなたまで危ない目に遭うのに、どうして……!」
彼女は泥水の中に膝をつき、俺のボロボロの制服の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。その瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、雨水と混ざり合っていく。
「どうしてって……げほっ、ゴホッ……」
俺は血を吐き出しながら、無理やり口元を歪めて笑った。
本当の理由は「お前のバッドエンドを見たくなかったから」だ。お前が絶望して、大好きな歌を奪われる未来を、俺の知る記憶から消し去りたかった。
だが、そんなオタクの執念をそのまま伝えても意味はない。俺はゲームの記憶にある、彼女の心に一番刺さるはずの「言葉」を、必死に絞り出した。
「お前が……笑って歌ってるところ、また見たいからだよ。お前の歌には、それだけの価値があるって……俺が知ってるから……」
それは、母親から「道具」としてしか見されてこなかった彼女が、人生で最も欲しかった「自分の歌への純粋な肯定」だった。
「私の、歌……? 私自身を利用するためじゃなくて……私の歌のために、命をかけたの……?」
怜奈の瞳の奥で、何かがパチリと切り替わる音が聞こえた気がした。
だが、限界を迎えた俺の意識は、そこで完全にブラックアウトした。




