第2話:孤高の歌姫、その仮面の下の悲鳴
「不知火さん、今日の放課後、少し時間あるかな? 委員会の一斉アンケートの件で」
「悪いけれど、触らないで。用件ならそこに置いておいてちょうだい」
クラスの男子生徒が恐る恐る話しかけた言葉を、不知火怜奈は一瞥もせずに切り捨てた。
彼女の周囲には、物理的な壁があるかのような冷徹な空気が漂っている。長い黒髪を揺らし、ただ机の上の楽譜を見つめる彼女の横顔は、近寄り難いほどに美しい。
「相変わらず、絵に描いたような氷の女王様だな……」
少し離れた席からその様子を見ていた俺は、小さく息を吐いた。
彼女は「学園の歌姫」として、すでにインディーズの音楽シーンで注目を集めている有名人だ。しかし、学校では徹底して他人との関わりを拒絶している。
クラスメイトたちは彼女を「プライドが高い天才」だと思っているが、前世のゲーム知識を持つ俺は知っている。彼女のこの態度は、プライドではなく「極度の人間不信」と「自己防衛」の裏返しだ。
怜奈の家庭環境は劣悪の一言に尽きる。両親は幼い頃に離婚し、母親からは「お前の歌以外に価値はない」と道具のように扱われてきた。彼女にとって、世界は「自分を利用しようとする敵」しかいない場所なのだ。
そして現在、彼女の心をさらに追い詰めている凶行が、裏で進行している。
放課後。怜奈が一人で校門を出ていくのを確認し、俺は一定の距離を保ちながら彼女の後を追った。ストーカーではない。ストーカーを逆尾行しているのだ。
(……いた。間違いない、あの男だ)
怜奈の斜め後ろ、周囲を警戒しながら執拗に視線を注ぐ、フードを深く被った男の姿があった。
ゲームのシナリオ通りだ。あの男は怜奈の熱狂的なファンであり、最近は彼女の自宅の周辺をうろつき、無数の脅迫めいたファンレターを送りつけている。
本来なら、男の行動がエスカレートし、怜奈が夜道で襲われそうになったところを主人公の相馬優斗がスマートに助けるはずだった。しかし、相馬はいない。
もし俺が介入しなければ、男は来週の雨の日に彼女を拉致しようとし、その過程で怜奈は喉に致命的な怪我を負わされ、精神的にも完全に崩壊して声を失う。
(男の体格は175センチ前後、肉体的なアドバンテージは向こうにある。モブの俺が正面から戦っても勝てる確率は低い……)
自分の細い腕を見つめ、ごくりと唾を飲み込む。
だが、猶予はない。男の行動は日ごとに大胆になってきている。ゲームの記憶にある「襲撃の日」まで、あと3日。
俺はその日から、徹底的な準備を始めた。
放課後のルートの確認、防犯グッズの購入。今の俺の全財産をはたいて、強力な催涙スプレーと、小型のスタンガン、そしていざという時のための防刃ベストを制服の下に仕込んだ。
「ハハ、高校生が通学に防刃ベストとか、何のディストピアだよ……」
鏡の前で苦笑するが、目は笑っていなかった。怖い。正直、逃げ出したいくらい怖い。前世でも今世でも、喧嘩なんて一度もしたことがないんだ。
だけど、あの冷たい目の裏で、夜も眠れないほど恐怖に震えている少女がいることを知っていて、見捨てることなんてできなかった。
そして、運命の「雨の日」がやってきた。
激しい雨が、視界を白く染める。放課後、怜奈はいつものように一人で、薄暗い路地裏の近道を抜けて駅へと向かっていた。
男が動くのは、あの街灯の壊れた狭い十字路だ。
俺は傘を差しながら、心臓の爆音を抑えて彼女の後を追った。
曲がり角を曲がった直後――短い悲鳴と、肉体がぶつかる鈍い音が響いた。
「いや……っ! 放して……誰か……!」
「怜奈ちゃん、やっと二人きりになれたね。君の歌は僕だけのものだ、さあ、一緒に行こう……!」
男が怜奈の腕を掴み、無理やり引きずろうとしていた。怜奈の瞳は恐怖で完全に凍りつき、過呼吸を起こしかけている。
「……おい、そこまでだ」
俺は傘を投げ捨て、ストーカーの男に向かって全速力で駆け抜けた。




