第1話:主役不在の開幕ベル
人間、あまりに理不尽な現実に直面すると、怒りや悲しみを通り越して乾いた笑いが出るものらしい。
「……はは、マジかよ」
自室の学習机の前で、俺――佐藤タカシは、手鏡に映る自分の顔を見つめながら、ぽつりと呟いた。
鏡の中にいるのは、どこからどう見ても平凡を絵に描いたような男子高校生だ。少し長めで無頓着に伸びた黒髪、これといった特徴のない目元、平均的な体型。どこかの教室の背景に紛れ込んでいても、誰もその存在に気づかないような、記号化された「モブA」の顔。
それが、現在の俺の姿だった。
前世の記憶を取り戻したのは、高校の入学式を翌日に控えた、春休み最後の夜のことだ。
強烈な頭痛と共に脳内に流れ込んできたのは、満員電車に揺られるサラリーマンとしての冴えない人生の記憶。そしてもう一つ――死ぬほどやり込んだ、とあるギャルゲーの全記憶だった。
ゲームのタイトルは『キミと紡ぐ輝きの季節』。
通称『キミ輝』。
美麗なイラストと繊細なシナリオで爆発的な人気を誇った、一見すると王道の学園恋愛シミュレーションゲームだ。
だが、その本質は「一歩間違えればヒロインが確実に破滅する」という、地雷原のようなダークさを内包した鬱ゲーでもあった。
テレビのニュースから流れる地名、スマホで確認できる有名企業の名前、そして何より、明日俺が入学する「私立鳳凰学園」という名称。すべてのピースが、ここが『キミ輝』の世界であることを示していた。
「いや、百歩譲って転生はいい。ギャルゲーの世界っていうのも、男としては夢があるさ。だけど……なんでモブなんだよ!」
そう、俺の名前は佐藤タカシ。ゲームの原作には名前すら登場しない、その他大勢の生徒の一人だ。
本来なら、このゲームの主人公である「相馬優斗」という、文武両道で誰もが惹かれる天才イケメンがヒロインたちの心を救っていくのを、教室の隅で「あいつ、また女子とフラグ立ててやがるぜ」と羨むだけのポジションのはずだった。
「まあ、でも……考えようによってはラッキーか?」
俺はベッドに大の字に寝転がり、天井を見つめた。
主人公になれば、ヒロインたちの重すぎる過去やトラウマ、ヤクザ絡みの実家の問題に命がけで介入しなければならない。精神を削り、泥沼の選択肢を生き抜く必要がある。
だが、モブならそんな危険とは無縁だ。推しキャラたちが主人公と結ばれ、幸せになっていく姿を特等席で眺めつつ、自分は適当にバイトでもして、普通の青春を送ればいい。
「よし、俺は観客に徹しよう。相馬優斗、お前に世界の命運は任せたぞ」
そんな気楽な決意を胸に、俺は眠りについた。
翌日、悲劇の幕が上がるとも知らずに。
翌朝。満開の桜が舞い散る中、鳳凰学園の校門をくぐった。
格式高いブレザーの制服に身を包んだ新入生たちが行き交う。その中には、一目でそれと分かる「メインヒロイン」たちの姿もあった。
誰もが振り返る圧倒的な美貌を持ちながら、周囲に鋭い拒絶のオーラを放つ黒髪の少女――学園の歌姫、不知火怜奈。
新入生代表として壇上に立ち、凛とした声で答辞を述べる、完璧なる生徒会長――如月一花。
そして、俺のクラスの席替えで奇跡的に隣の席になった、おっとりとした笑顔が可愛い幼馴染――水瀬小春。
「画面で見るより何百倍も可愛いな……。相馬、お前は本当に果報者だよ」
教室の端の席から彼女たちを眺め、俺は一人で満足していた。
あとは、物語の起点となる「主人公とヒロインたちの出会い」を待つだけだ。ゲームのプロローグでは、入学式当日の放課後、主人公の相馬優斗がトラブルに巻き込まれたヒロインを助けるところからすべてが始まる。
しかし。
放課後になっても、校内のどこを探しても、お決まりのイベントが発生する気配がない。
それどころか、不可解な違和感が学園全体を覆っていた。
気になった俺は、クラスの名簿を確認した。一年の全クラス、A組からF組まで、隅から隅まで指でなぞる。
――「相馬優斗」の名前がない。
嫌な汗が背中を伝った。
スマホを取り出し、前世の記憶にある彼の住所や、家族が経営しているはずの会社をネットで検索してみる。しかし、いくら検索ワードを変えても、それらしき情報は一切ヒットしなかった。
「嘘だろ……? データのバグか何かか?」
心臓が早鐘を打ち始める。俺は狂ったように学園内を歩き回り、生徒たちの会話に耳を澄ませたが、「相馬」という男の噂などどこにもなかった。
この世界には、最初から「相馬優斗」という人間が存在していない。
その残酷な事実を理解した瞬間、俺の頭の中を『キミ輝』のバッドエンドの数々が駆け巡った。
もし、主人公がいないまま物語が進んだらどうなる?
不知火怜奈は、数ヶ月後にエスカレートするストーカーによって精神を病み、二度と歌えなくなって学園を去る。
如月一花は、実家の闇社会との繋がりから逃れられず、望まぬ政略結婚の道具として心を殺され、人形になる。
水瀬小春は、心臓の難病を隠したまま、3年の冬に誰にも看取られることなく、ひっそりと息を引き取る。
「誰も……誰も救われないじゃないか……!」
夕日に染まる無人の教室で、俺は机を強く叩いた。
主人公がいない世界。それは、ヒロイン全員が確定で破滅へと向かう、絶望のディストピアだった。
彼女たちは今、この瞬間も生きている。笑ったり、悩んだり、冷たい目で世界を見つめたりしながら、確かにここに存在している。その命が、数年後には無残に散っていくのを見過ごせというのか。
「……クソッ!」
俺はただのモブだ。特別な能力も、イケメンの顔も、人を惹きつけるカリスマもない。殴られれば普通に痛いし、死ぬほどビビリだ。
だけど、ゲームの画面越しに何度も涙を流し、「救われてくれ」と願った彼女たちが目の前にいる。
そして、彼女たちの破滅を回避するルートの記憶を持っているのは、この世界で俺しかいない。
「相馬がいないなら……俺がやるしかないだろ!」
モブとしての平穏な日常を諦める覚悟を決めた。
これは恋の駆け引きなんて甘っちょろいものじゃない。知識だけを武器にした、凡人による命がけの救済劇だ。
「まずは……不知火怜奈、お前からだ」
俺は拳を固く握りしめ、夕暮れの教室を飛び出した。
この時の俺はまだ、必死すぎる凡人が与える「救い」が、彼女たちの心をどれほど狂わせてしまうのか、知る由もなかった。




