episode1
『――愛花――!』
誰かが呼ぶ声、まぶたを刺すような光。私はゆっくりと意識を浮かせた。
「……う、んん」
誰かに肩を揺すられたような感覚があったが、そうではない。
身体が小刻みに上下しているのは、馬車の揺れだ。窓の隙間から冷たい風が忍び込んでくる。
ここは……どこ?
目を開いた途端、頭の奥がきゅうっと締め付けられた。
霧の中に取り残されたようで、名前も状況もすべてがぼんやりしている。
「お目覚めですか?」
柔らかな声に視線を上げると、向かいの席に座る女性と目が合った。
「えっと……、だれ?」
かすれた声で問い返した瞬間、女性のまつげが震える。
「冗談にしては、おもしろくありませんわ、アリアンディ様」
一瞬きょとんとした表情の後、彼女は優しく微笑んだ。
「寝ぼけているのですか?喉が渇いたでしょう、お茶を入れましたよ」
銀のポットから湯気の立つお茶を注ぎ、カップをそっと差し出してくれる。
「カモミールティーです。心が落ち着きますよ」
温かいカップを両手で包み込む。
すーっと、カモミールの香りが鼻から胸へ、指先まで染みていく。ひと口ふくむと、ほっと息が漏れた。
「もうすぐマルゼンダ領に入りますね」
彼女の声に促され、窓へ視線を向けた。ガラスに映った自分の姿に息を呑む。
栗色の髪。吸い込まれるような赤い瞳。白磁のような肌――まるで絵画から抜け出したように整っている。
これ……、私よね?
そのとき。
――ガタン!
馬車が大きく揺れ、お茶がカーペットに零れた。
「きゃ!」
「アリアンディ様!お怪我はありませんか?」
衝撃と同時に、頭の奥で何かが弾ける。霧が裂けるように、記憶が一気に流れ込んできた。
「え、ええ。大丈夫よ」
そうだ。私は――、
アリアンディ・カラード。22歳。ポーラディア侯爵家の長女。
そして今日は、マルゼンダ伯爵家へ嫁ぐ日。
「すみません、道が悪くて」
御者が叫び、馬車が再びゆっくりと走り始める。
「ああ、モズリン。さっきは寝ぼけてしまって、ごめんなさい」
私の向かいに座る女性は、オランジ子爵夫人。名前はモズリン。
幼い頃からそばにいてくれた私の侍女。字の書き方も、礼儀作法も、貴族社会のすべてを教えてくれた。
姉のように慕う大切な人を、一瞬でも忘れていたなんて。自分でも信じられない。
「夢を見ていたの」
「あら、どんな夢でしたか?」
「覚えていないわ。……さみしくて、かなしくて。大切なものを失くしてしまったような、そんな気がするわ」
内容は思い出せないのに、胸の奥だけがじんと熱い。
「結婚式は明後日です。ナイーブになるのは当然のことです」
「ええ、そうね」
外の景色は、育った侯爵領の穏やかな丘陵と違って、マルゼンダ領は背の高い針葉樹が続く。
「マルゼンダ領は軍事貴族の土地です。伯爵家も厳格な統治で知られています。ポーラディア領とは、色々と異なるでしょうね」
モズリンの説明に、胸がふわりとざわつく。
期待――それとも緊張?
名前のつかない感情が混ざり合う。
「アリアンディ様。領都の門でございます」
馬車が止まると、扉が開かれた。
「ようこそ、マルゼンダ領へ」
伯爵家の紋章を付けた騎士長が頭を下げる。後ろにも何人もの騎士が控えていた。
仰々しいお出迎えだけれど、歓迎はされているのだろうと解釈する。
「アリアンディ・カラード様、お迎えに参りました」
「ご苦労様です」
そのとき――。
なぜか、後ろにいたひとりの男性に、視線が引き寄せられた。
黒髪の整った顔立ち、存在感が妙に強い。
一瞬だけ、目が合った。それだけで、どうしてこんなに胸がざわつくのか。
「あと、どのくらいで着きますか?」
思わず声をかける。
「日が暮れる前には到着しますよ」
短い返答。
ほんの一瞬だけ――かすかに口元が緩んだような気がしたのは、気のせいだろうか。




