14.聖女の引っ越し
「はァ?!するわけねーだろバァーカ!」
野太い怒鳴り声をあげ、今しがた食べ終わった食器を薙ぎ払う聖女。連日耳にするつん裂くような皿の割れる音に思わずため息が漏れた。
億劫だ、心の底からげんなりする。
結界の貼り直しが遊びに行く感覚になるほどのこの激しさ。クリス殿下と会えない期間と比例して聖女の機嫌は急降下している。
ちなみに飛んできたナイフとフォークと熱々の茶を撒き散らすティーポットはワゴンに返却済みだ。
神殿内の一室を華やかな家具で満たし、陛下から賜った王宮料理長直筆のケーキのレシピも再現する手筈が整ったのは彼女の処遇が決定してから一ヶ月ほど経ってからのことだった。
その場にいた責任感と、これが最後の大仕事だと思って彼女を神殿へと誘導する係を買ってでたものの。やはり予想通りの荒れようだった。
私の存在が火に油だとわかっていても、これがあるから身体強化が使えないメイドや神官にこの場を任せる事が出来ない。
私は無傷で対処出来るし慣れて麻痺しているがまあ普通に狂気の沙汰だ。任せたゆえにトラウマになってはこちらの夢見が悪くなる。
「神殿への移動は国王陛下のご判断です。大神官様にもクリス殿下にもどうすることもできません。」
「あたしはクリスと結婚するからここに住んでんの。ねえ、事実上の王族なの。わかります?」
わかりません!あなたのその思考回路が!
「先ほど言いましたが婚約は白紙になりました。」
信じるわけねーだろ!とほぼドレスであるにも関わらず足を振り上げ机まで蹴り倒したので部屋の床はもう目も当てられない惨状だ。
言葉遣いが輪をかけてひどくなっているのは口の端に泡が溜まっていることからもよくわかった。
年端も行かない子供と二人きりの豪華な来賓用の客室で髪を振り乱し、肩で息をする美しい少女。俯瞰して眺めてみると異様な光景だよね。なにかに取り憑かれていると言われた方がしっくり来る。
「...アンタあたしを助けるために居るんでしょ、もしほんとなら今から死ぬ気で説得してこい!出来なかったら服むしり取って城中歩かせてやる!クソっ!このクソアマがあ!」
助けを求める方法を知らないとはなんて不幸なのかと、この人を見ているとしみじみ思う。
地団駄でさらに割れた、隅々まで洗練された装飾品とは不協和音でしかない足元に広がる粉々のティーカップがなんとも彼女らしくて、哀れだと、悲しく思ってしまったのはもう関わる事もないと心に余裕ができたからだろうか。それとも彼女を取り巻く裏側を知ってしまった同情だろうか。
深く息を吸って扉を開ける。
廊下に控える神殿所属の護衛役を見せると、エスコートの意思のない武装した姿に碧眼が丸く見開かれた。
「神殿へのご移動をお願いします。」
「ーーッ!」
頭の回転が速い人だ、私が話をした時点でもう覆らないとわかっているはず。
どんな勝手をしても王宮の贅沢な部屋で世話をされるのは変わらなかったのにそれが奪われる恐怖を想像すると、記憶のなかのひどい態度が同情を掻き消した。
初対面のネックレスとお茶会のドレス以外どんなに強請っても高価な贈り物は届かなかったし、鼻息あらく計画していた街中デートはついぞ実現しなかった。
彼のタイミングで、このお城の中だけで、砂糖と脂片手に甘い言葉をかけられるだけ。そしてあの謁見以降、彼はぱたりと姿を見せなくなった。
全ては自業自得だろう。
「クリスが、クリスが聞いたらお前なんか...!あたしを騙したらクリスがぶちギレるからっ!」
私を睨みつけるその瞳に涙の膜が張っているの見て、ああやっぱり彼女はもう気づいていたのだと思った。それでも縋らざるおえないほど周りに心の許せる人が居なかった。
「クリス、クリス、なんで助けてくれないの...っ!連れてかれるんだよ、彼氏なら止めろよ!」
先日のクリニークさんそっくりに涙と鼻水で顔を濡らしていく聖女。ふと、この人はあの温かさに包まれた経験があるのだろうかと思った。
今までいかに癇癪の被害を少なくするか、早く終らないかとばかり考えていたけど。
顔を真っ赤にして泣くこの女の子が今までどうして生きてきたのかとか、親との関係とか、兄弟や友達がいたのかとか。人となりを理解しようとする質問を一切していなかったことに気づく。
言葉のわからない世界に放り込まれて心細くて呼んだ同郷に完全に仕事と割り切ったリアクションをされたらどう思うだろう。
私にはディオル殿下や大神官様達が居たけれどこの人に一番近かったのは...私だ。
「あ...ーー」
急に心配されて、仕事を反対されて。
びっくりして可愛くない口答えをしてしまった。大袈裟だなんて言って怒っていないだろうかと不安になるほど手放すのが惜しい人達。心配する身になれと怒ってくれた、辛くて当たり前だと自分のように痛がってくれた。
その気持ちにまるごとすっぽり包まれてようやく気づいた、自分の未熟さ。心にゆとりがなければ他人を思いやるなんて到底無理なのだと痛感する。
だけど、本当に私が悪いのか。
仕事だから、誰に対してもこうだからと割り切っても傷つかなくても悪意だらけの言葉は疲れた、心がささくれた。何度も迷惑を被った。
ここまでの上司は初めてだった。もし一回でも常識に則った姿を見たら、元の世界では許されない待遇を変えたいと思えたのかもしれないのに。この国の生与奪権を握る国王陛下に話が飛んでまで庇うほど私は出来た人間じゃない。
もう違う場所で生活が始まる者同士。
ここで優しくして一体何になる。
「...ーー」
口を開いただけで、なんの言葉も浮かばない。
お互い邪険にして世間話もままならない間柄では慰めも嫌味になる。他に精神年齢でいえばかなり年下のこれから軟禁される少女に掛ける言葉が存在しているなら教えてほしい。
「...膝をついたら怪我しますから、こっちに。」
しゃくりあげる肩に、結局そんな台詞しか出てこない。
顔をぐちゃぐちゃにして覚束ない足取りの彼女に神兵が足を踏み出すのを止めさせる。彼だと聖女を抱え上げてしまうだろう。
身支度以外で初めて触れた肩は小さく震えていた。怒鳴る姿も暴れる姿も嫌になるくらい見てきたけど、泣いている姿は初めて。
体型を元に戻すあの魔法だって、彼女は泣いていなかったのに。
「ダイエットの時のあの魔法...」
「ひっく...うっ......」
「あそこと比べたら天国みたいな部屋です。」
サプライズのお茶会の三日前。
お茶会をダイエットが成功した後にずらせと暴れる彼女に提案したのは封印魔法のひとつだった。魔力でつくり出した時間軸の違う亜空間にたった一人を閉じ込めるという、多分ろくでもない用途でしか使わない物騒なスキル。それを某七つの玉を集める漫画リスペクトで時短チート術として活用しようとした。
『了承してもらいたいのは其処がただ真っ暗な空間であること、大きな物は持ち込めないこと、生き物を同伴出来ないこと、中に居る間は意思の疎通が出来ないことの四点です。』
ベッドも机も椅子も無い真っ暗闇に術者が魔法を解くまで閉じ込められる。大抵の人間なら忌避感や恐怖で首を横に振るだろう。
だが彼女は、家具を持ち込めない決まりに文句は言ってきたが
『もしあたしに何か起きたらあんたを同じ目に遭わせるから。』
そう豪語して水と食糧が入った袋とともに自らの足で真っ暗な異次元の穴に飛び込んでいった。
現実の一日は亜空間で一年。時計と睨み合いこまめに水の瓶とこんにゃくゼリーを穴に差し入れるのはとにかく神経が擦り減ったが、術を解いて状態を確認するたびに痩せていく体と濡れた跡がない目元に私は、確かに尊敬の念を抱いたのだ。
すぐこの情熱を他に向けてくれと呆れに上書きされてしまったけど、暗闇に一人きりで耐えられた原因はきっと綺麗な自分という彼女の揺るぎない人間としての芯だった。
美しければ求められるし許される。それが彼女を彼女たらしめる拠り所だったんだろう。
ふらふらと揺れる体を支えて、彼女の細い腕を肩に回す。どうしようもなければ昏倒させて神兵に運んでもらおうかとも考えたが、己の意思で足を動かして部屋を出るのがあとあとの彼女に影響を与える気がする。
「こんな時まで良い子アピールとか...アハっ、やっばきっしょ...逆に尊敬するわ〜」
「舌噛みますよ。」
「あたしが連れてきてやったのに、全部横取りしたんだもんね。
あたしが消えて?王子様との楽しい学校生活が待ってて?今それはそれはとーっても幸せだろうね?あーやってらんない。ねえ、オイ聞けよ」
「聞いてますよ、答えを求めてないと思ったんです。」
「...ハア?上からとかクソすぎるんですけど」
こうなってしまえば、怒りも呆れも湧かない。どんな返事も正解はないんだろうと支えたまま部屋を出る。
ただ肩を借りながらその相手を罵り続ける心理構造はやっぱり理解不能で、だらりと垂れ下がっていたはずの手は転移魔法で神殿に飛ぶやいなや驚く強さで私の腕に爪を立てた。
「クリスの弟と結婚するんでしょ?...ーー死んで地獄に堕ちろ、クズが。」
神殿の一室の前で彼女から身を離す直前、血走った目がぐっと近づいたと思ったら肩を掴み寄せられて地を這う声がべったりと耳にこびりつく。
彼女を引き剥がした神兵によって背を押され大きな音を立てて扉が閉められるその瞬間まで、丸く垂れた碧眼は鬼のように歪み私を見つめていた。
「...シノ様...。」
部屋の前に立ったままの私に後ろに付いていた神兵が気遣わしそうに話しかけてくれる。この人も事情を知るうちの一人で、王宮の部屋から出る際聖女を護衛するのが役目だった。それも僅か数回で終わってしまったわけだけど。
腕の治療をと囁かれて腕を見下ろすと白い神官服に赤いシミが付いている。
「後でなおしますね。ご同行ありがとうございました。」
陛下への報告を請け負ってくれた彼と別れもう訪れる機会も無い部屋から離れる。
最後まで名前すら知らないまま。
区切りがついた達成感も無く、死を望むほど恨まれたという実感だけがじんわりと腕の痛みとともに広がっていた。
「そろそろお着きになってもいい頃ですが...」
部屋に掛けたれた時計を見上げるクリニークに釣られて視線をやったディオルが、大して動かない針についと顔の向きを戻す。
息つく暇もないほど何かしらを詰め込む日々が嘘のような一日を確保した彼は朝から窓辺に立って陽の光を反射する白の神殿を見つめていた。
付き添いはしなかった。求められなかったし、報告書にあったそのままの現場を見れば平静を保てる自信がなかった。聖女を害したとなればこれからの計画に障りが出る。
ただ事が済んだら顔を出せと大神官に託けただけでそれからじっと腕を組んで佇んでいるディオルに、ケイトも机上の紅茶を定期的に替えるのみで声は掛けない。
やがて静かな部屋に響き渡ったノックに全員の意識が集中した。
「シノです。報告に参りました。」
「入れ。」
カチャリと僅かな物音をたて入ってきたシノの頭から足先までとその表情を眇めた瞳がさっと検分する。
「無事済んだか。」
「はい。抵抗はありましたが、おおむね恙なく。」
クリス殿下はお越しにはなりませんでした、の静かな声にだろうなとなんの感慨もなく頷く。そんな事はどうでもよかった。声と体に震えもなく、瞳は穏やかにまっすぐディオルを見つめている。
「気は済んだか。」
「はい。心配をお掛けしてすみません。」
いつも聖女絡みの話題で浮かべていた仮面のような笑顔とは違う、仄かに疲労が滲む微笑みにディオルの胸がつきりと痛む。どこか遠くを見るように逸らされた視線がもどかしくて、詰めてでも泣き言が聞きたい縋りつかせたいと唸る獣を押さえつける。
婚約が内定してから一月ほど経つというのに会うのは三回目。それも短い時間の会話だけだ。ディオルが講義と鍛錬に追われる時間、シノは結界の貼り直しで神殿を空ける以外彼女の意思で聖女に対応していたという。
互いに自業自得とはいえ、忌々しい桃色髪に占拠された心を取り戻したくてしょうがなかった。
「金輪際会わない相手だ。忘れろ。」
「ええ〜...そんな無茶を言いますか」
笑みこぼれる姿は落ち着いているが少し静かすぎるようにも見える。
ケイトが出した紅茶を一口含みやっぱりぶち撒けるより飲む方が香りが良いですねだなんて呟く久方ぶりに会う婚約者に、ディオルは頭の中で制御する鎖がひび割れる音を聞いた。
「忘れろと言わなかったか?」
息を飲む音にしまったと後悔したが口を出た言葉も露わにした棘ももう戻らない。
「...すまない。責めるつもりはなかった。」
配慮もせず自分の気持ちばかり押しつけるなどどうかしている。
目を見開いたままのシノからの視線に耐えきれず揺れる赤い水面に視線を落とした。
「...ふふ、殿下ってば意外に沸点が低いですよね。そこだけは年相応というか。」
見上げた口元に拳をあてる顔は緩く綻んで目元が優しく下がっていた。
そんなの。
「シノが無茶ばかりするからだろう。」
「あ、その説は本当にすみません。」
瞬きのうちに真顔に戻る。朝食を囲む時と同じいつもの顔だ。
稚拙すぎる。三つも年下で、やっとゆっくり休ませてやれるんだ。
血が巡りすぎる耳を無視して紅茶を喉に流し込むと香りの奥の渋さに沸いた頭が冷めていくようだった。
「もしお気に召さなければ食事と取り替えます。」
そっとケイトが差し出したティースタンドには、野いちごのジャムを囲む花型のクッキーにリコッタチーズのクリームをたっぷり添えたブラックベリー入りのスコーン。中段の瑞々しいオレンジの隣に佇む小さなガラスのカップに層になったスポンジとクリームは存在感が薄く上に乗った飾り切りの施された青林檎が目を引いた。そして極めつけの最下段にはいつもシノが目を細めて噛み締めるハムときゅうりのサンドイッチと柔らかな白パンが。
ケーキに良い思い入れがないだろうとディオルが用意させた品々を囲む、ふたりきりの小さな茶会。目を輝かせる子供らしい姿にふっと顔を綻ばせ音もなく中座したクリニークとケイトに気づかず、シノは暫く唖然としていた。
「こ、これ...」
「たまの休みだ、付き合え。」
ひょいとサンドイッチを手に取る殿下にいやいや付き合えって、と緩む口元が押さえられない。
この前部屋を訪れた時に頑固な態度をとってちょっと見限られたかもと不安だっただけに、心遣いがこそばゆくもほっとする。わざわざケーキ以外を選んで尚且つお腹いっぱいまで楽しめるように用意してくれたんだ。
まったく想像していなかったご褒美に涙が出そうになる。ついでに湧き出る唾液が止まらない。きらきらエフェクトがかかる夢のような三段にきゅるるると腹の虫が物欲しそうに泣いた。
「食べないのか?いつもの勢いはどうした。」
「頂きます頂きます!」
神殿で出る焼き菓子も遠征先でもてなされる果物もこんな輝きは放っていなかった。伸ばす手が震えもしますって。
いや、素朴なナッツと蜂蜜のクッキーは癖になるしもぎたて新鮮の桃や洋梨は切っただけが一番なんだけどね!?
ほら、スイーツは見映えって大事だから。
真ん中の赤いジャムが愛らしいお花型のクッキーを摘んで一口齧る。
砂糖の甘さとバターのコクを野いちごが相殺して何枚でもいきたくなる。飲み込んだ後紅茶を含めばさらに芳しい風味が合わさって口の中でふんわりと余韻が溶けた。
「染みる〜...」
忘れていた濃厚な甘みが五臓六腑に染み渡る。
スコーンもクリームを付けて一口。あ、チーズの味だ。しょっぱくないのが不思議だがスコーンに練り込まれたベリーとよく合う。まさに互いが互いのために存在するような関係だ。いつもの食べる幸せオレンジは今日も変わらず至福の甘酸っぱさ。朝食の時は一個の半分だけど、今日はこんもり盛られて他のスイーツに負けない濃厚な香りを放っている。半分くらいは食べても大丈夫だよね?はあ、ここが地上の楽園か。幸せだ。
「...毎食一品つけるか。」
「はい?」
感動に打ち震えるあまり殿下の声が聞こえなかった。
なんでもないとスコーンを食む口元がなんとなく機嫌よさそうなのに安心して味変のサンドイッチに手を伸ばす。このハムの塩気ときゅうりの青い香り、たまりません。
神殿ご用達のライ麦パンも歯応えがあり味も濃くて美味しいけど、やっぱ小麦派な私はこの白パンが恋しくてたまらない時があるのだ。唇だけで千切れそうな柔らかさと噛んで広がる甘味は誰がなんと言おうと正義。
塩っ気で胃袋がリセットされたところで、贅沢な葛藤が起きた。
「こんな食べたらお昼入らないかも...でもなあ...」
はははっ、と。
テーブルの向かいから聞こえた軽やかな笑い声に目を瞬く。今のはディオル殿下?
「神殿に連絡を入れておくから王宮の食堂を使えばいい。近衛用にいつでも食事が取れるようになっているからな。」
待って、そんな頬杖ついて犬のご飯を見守るような和やかな顔をしないで。
おやつ食べすぎてご飯食べられないとか子供かと突っ込むところだったのに。ただ甘やかされると小っ恥ずかしさしかない。
本気の本気で精神まで十歳だった。
「滅相もない。戻ります...」
「何故?もう神殿に用はないだろう。ちょうどいいから今日から此処で寝泊まりすればいい。」
「ここって、王宮ですか?それこそ滅相もない!」
聖女の件で無駄に国のお金を使ってしまっているのだ、神殿側の人間としてこれ以上支出を出すのは体裁が悪すぎる。
『ーー死んで地獄に堕ちろ、このクズ。』
頭の中にあの人が過ぎると否応なくフラッシュバックする声にぎゅっと胃が縮む。
幸せな食事で一瞬遠のいたが、もともと関係が悪かった人とはいえ面と向かって放たれた言葉の威力はなかなかだった。まっとうに生きていればまず経験しない、ノリでも意地悪でもないれっきとした根拠のある憎しみからきた本音。たとえ逆恨みだとしても、あの人は心からそう思っている。
「シノ」
「いや、圧をかけられましても流石に今日からは...準備もしていませんし。」
「そうじゃない。」
控えめな音で立ち上がった殿下がテーブルに片手をつく。私の横に立つと腰を屈め近づく顔がスローモーションのようにゆっくりだった。
「ーーは...」
視界がぼやけて、口の横に当たる柔らかいなにか。顔が遠ざかり姿勢を戻した殿下の赤い舌がぺろりとその薄い唇を舐めた。
「サンドイッチのソースが付いていた。俺だけなら構わないが他所ではマナーにも気を配れ。」
紅茶の替えを頼んでくると言ってドアに歩いていく足音を耳で聞いているだけで返事もできなかった。
「...うん?あれ...えーー...っと?」
理解が追いつかない。
ドアの開く音、言葉までは聞き取れないうっすらとした話し声。カチャリと陶器が擦れ再び聞こえたドアの開閉する物音にはっと我に返った。
....一瞬幻覚でも見えたのか。
「すみません殿下!気が利かなくて...」
「聖女が些事で謝るな。」
殿下の手ずから注がれた紅茶がアールグレイに似た湯気を放つ。中段の手付かずだったガラスのカップはいつの間にか小ぶりな貝殻を模ったマドレーヌに変わっていた。
な、なんだか肩身が狭くなる賓客待遇...。
「次の遠征はニ日後だったな。」
「えっ...ああ、そうです。ヒュールズへ。」
「途中の街道が雨続きで悪路らしい、サスペンションが効いた馬車に変えておく。酔い止めのミントのサシェは?クッションに焚き付けたほうが良いか。」
「いえ、そんな、馬車酔いには強いので。ありがとうございます...?」
遠征までそんな痒いところに手が届く仕様に?
目が白黒する私を感情の読めない顔の殿下がじっと見つめてくる。
「宿の希望は?近場なら泉に湯が湧くイオデの湯殿が有名だな。ヒュールズから半日ほど西に進めば着く。北に遠回りしてティカという港町に寄ってもいい。丘の上にある宿から見える景色が美しいと評判だ。」
「え?いや...ヒュールズで良くないですか?」
「活気もあって良いんだが酒造りが盛んなんだ。上級宿の周りはずば抜けて酒場が多く名物料理も香辛料が効いているし、シノはまだ楽しめないだろう。」
「へえなるほど...?」
ところでいつから歩く旅行口コミサイトになったんですか?とも言えず。
遊びに行くんじゃないんだからそんな快適な旅をお約束せんでも文句は言わないのに。
「それで?広い湯殿と海を臨む絶景、どちらに惹かれる。食事はどちらも美味い。」
「お、お風呂でお願いします...あの、さっきからご配慮が凄すぎて...」
「結界の張り直しでは観光を楽しみにしているんだろう?俺の都合で無理させるんだ、配慮して当然。」
息抜き〜とかいってパパっと仕事終わらせてご当地を満喫していたのがバレている...だと...?!
殿下はテーブルに肘をつき指を組んで私を見ている。いつも通り落ち着いた声色は怒っているわけでも呆れているわけでもなさそうでほっと息をついた。
話からみて天然温泉の大浴場、だよね?なんて輝かしい響き...鹿おどしの音と立ち上る湯気を思うと全身をお湯に沈めた時のあの感じが蘇る。....いいなあ。職場に拘束されすぎて温泉なんて計画できなかったから。
「とまあ、それはシノが此処に移ってきたらの話だ。
これまで神殿の顔に泥を塗るわけにもいかずただ見ていたが、居室が移るならこちらで面倒を見るのが筋だからな。...どうする?」
二日後、腰を痛めながら神殿の馬車で移動するのか?と目を細められるとうぐぐと喉が鳴った。
「帰って荷物をまとめます。明日からお願いしても宜しいでしょうか...」
「あの部屋から持ち込む家具も無いだろう。客室を用意してあるから今日から休めばいい。」
「そんな殺生な...!」
キラキラしい建物に庶民が泊まるとなるとそれ相応の心の準備というものがある。それに断言できる、殿下が用意してくれた部屋は客室の中でもハイクラスなスイートルームで下手したら専属メイド付きだ。遠征先の領主様が気を回してくれたお宿でわあゴージャス〜と感動して眠れなくなった私には正しくオーバーキル。休めないこと請け合いだ。
「...気疲れするだろうからまだメイドは付けない。慣れないというなら賓客の付き人用が泊まる小さな部屋でいい。」
「あれ、声に出してました?」
部屋を見た人間なら誰でもわかると殿下は言うけれど、私の性格までわかっていないと出てこないような。
「食べ終わったらでいいですか?」
「ああ。」
それからはなんだか増して穏やかになった殿下とティースタンドが空になるまで取り留めのない話をした。時間を気にせず殿下といるのはこれが初めてだが改めて一緒にいて緊張しない人だと思う。階級的には緊張するはずなんだけれど、安心感というか。
剣の練習に行くという殿下と別れてこれから生活する部屋に通されてからも、ポカポカと暖かい胸にそっと手を当てる。
「...ちょうどいい豪華〜...」
やっぱりわたしの性格をわかってらっしゃる。




