13.妻になれ
「婚約白紙、ですか...?」
あのあと数日を挟み、久しぶりのに朝食を一緒にした後に切り出された話題は寝耳に水でああと頷くディオル殿下に開いた口が塞がらない。白紙にではなく、その前に具体的な婚約話が持ち上がっていることを知らなかったのだ。
事前に人払いされたのを不思議に眺めていたがなるほど、これはおおっぴらにするべきでない話だ。いや、そういえばこの前国王陛下がそんなこと言ってたような...いっぱいいっぱいすぎてスルーしていた。
「正しくは婚約の内定取消しか。陛下と宰相の間で纏めようとしていた段階で公表まではしていなかった。」
「内定の段階で聖女様に情報がこなかったのも驚きですが...クリス殿下は反対しなかったんですか?」
国王陛下の決定とはいえ、クリームだらけの手だろうがドレスに食べこぼしを付けようが蕩ける笑顔を浮かべるあの殿下が素直に従うとは思えなかった。おねだりを断り続けている時点で魅了魔法にかかっている可能性はほぼ消えている、それはつまり心から彼女を好きというわけで。
...ああその、疑っていた事に罪悪感はある。けど誰だって病的に太っても一瞬で元に戻ってもリアクションが無いなんておかしく思って当然だ。世の中にはその人ならなんでもいいと考える強者がいると聞いたことがあるから納得しただけで当たり前に理解の範疇は超えている。だって体が心配になるだろう、普通なら。
そう考えると、あの人割とディープな方の...いやこれ以上は考えまい。
おかしな想像をする前に蓋をして、ひょうひょうとあんなに好意を全面に出しておいて?と問いかけると、紅茶のカップに口をつけたディオル殿下の伏せた長い睫毛が震える。
「...好意を寄せていたのではなく、聖女を王宮内に留まらせる手段として演じていたそうだ。」
「...はい?」
あれがぜんぶ演技だったと?
砂を吐きそうな台詞で前日の九割の復習を褒めていたのも、面影がなくなるほど体型を変えてもなお好意的だったのも、言い分を全て信じて鵜呑みにしていたのも?
「その件で、シノに聞いてもらいたい話がある。」
そこから語られた一連の繋がり。
ディオル殿下との出会いからソルキン村の誤情報までクリス王太子の思惑だったこと、彼の中で聖女と私がどう位置づけられているか。
薄い唇が閉じて、呆けてしまった私を見てつるんとした眉間にきゅっと皺が寄る。すまない、と彼の艶やかな前髪が食器の片付いたテーブルに触れるのを慌てて止めた。
「いえ、これは本当に、殿下が謝られることではないです。」
「陛下はシノを尊重するご方針だが兄上が王継承者なのは変わらない。話し合いでシノへの認識が改まらなかったのは俺の力不足でもある。」
衝撃を受けたのはクリス殿下が聖女に欠片も好意を持っていなかったその一点で、私に対するそれは概ね予想の範囲内だった。
殿下はオブラートに包んでくれてはいたが、要は次代の国王が私と聖女をかなり軽視していると。
パンデミック級の感染病まで持ち出して仕事ぶりを確かめるとか頭いかれてんのかと言ってやりたい。何か起きればすぐに現場に向かうのは今とさして変わらないが、掌握していいように使われようとしているのはとんでもなく不快だ。
ましてディオル殿下をカウンセラーにして私を死ぬまで使えるだけこき使うつもりだなんて、労基法違反が過ぎて反吐が出る。
歴代のブラック上司が走馬灯のように脳内を走り抜けてギリギリと奥歯がなった。
「兄上が王位を継いだ後では聖女としての実績は盾にならない。守るためにはシノ自身の立場を変える必要があるんだ。」
聖女補佐の立場から変えるとなると、神官辺りか。でも異世界人の時点で駒判定されるなら職種を変えても意味は無い...。
「そうは言ってもクリス殿下は出自で判断されていますから、立場を変えたところであまり効果は無いと思います。」
「そうだ。だから、俺の妻になれ。」
ふたりきりの部屋に沈黙が降りた。
おれのつま?
おれのつま、とは。ふっと過った漢字変換があまりにあまりにもだったので、言い間違いかと次の句を待っても殿下は青い瞳でまっすぐに私を見たまま一向に口を開かない。
うーん。おれの、は俺の。殿下の一人称だ、これは確定だろう。つまり殿下の、つま。
つま...。知らない固有名詞だろうか。文脈からして役割、立場、職種あたり。となれば王族の側仕えだ、多すぎて一般には浸透していない名称も多かろう。
大根のツマからとった隠語ならありがたいが、悲しいかなこの世界には大根もなければ生魚に添えられるのは醤油ではなくドレッシング。
「殿下、つまとはどのような職ですか?出来れば目立たない裏方希望なんですが...」
「は?...お前」
あ、このなんだコイツという視線は久しぶり。盛大なため息を吐かれつつぎゅっと寄った眉間の皺が細い指で伸ばされるのを黙って見守る。
「婚約がわかるのに妻を知らない奴がいるか。嫌なら有耶無耶にせず理由を話せ。兄上の命令に逆えるこれ以上の術があるなら聞く。」
「いや、え...?だって、それだと夫婦の女性側を指す妻になってしまいますよ?」
「ずっとそう言っているが?」
「...ーヒュッ」
声と呼吸の狭間のような音を出した後瞬きすらしなくなったシノを眇めたディオルは、首元から額までじわわと赤らんでいく肌におやと眉を上げる。
話の流れが不穏なだけに期待していなかったが、これは予想外に良いものが見られた。
そう弧を描く目元もまた色づいていたことは、彼自身自覚がない。
湯だつ頬に無意識のうちに手が伸びるが、びくりと小さな肩が跳ねたのを見て動きを止め、躊躇う仕草のあと曲げた指の背がそっと輪郭を撫でる。研ぎ澄まされた感覚が目尻から顎にかけての想像通りの柔らかさとしっとりとした熱さを伝えると、ビリビリと脳髄が痺れた。抵抗されず触れたままの指に生唾が湧く。
聖女補佐ではない生身の彼女をもっと見たい。手のひらで包み込んで吐息まで感じたいと逸る青い瞳にはくと震える唇が映る。腹の奥から這い出てきた熱塊を、教育の行き届いた理性がまだ早いと押し戻した。
国王との謁見から己の心と体に向き合ってきたディオルは、これを巷で美しく表現される恋と呼ぶのは難しいと判断した。
もっと尊いようで本能的な、身の内の獣が理性の皮を食い破りそうになる厄介な代物だ。三つも年下で、早熟に見えてまだ幼いシノに向けるのは憚られる。
(...誰にも取られないよう手も打った。あとは兄上の対策をしなければ。極東の本にもあっただろう。急いては事を仕損じる、だ。)
指を離し、意識的に視線を引き剥がす。
怖がらせて距離を置かれたら本末転倒。父にも言われたように鍛錬を積んで気取られないようにしなければ。
焦るな。時間ならある。
シノがこれを受け止められるくらい成長して、己も名実ともに彼女を守れる男になってからだ。余計な気を配らずに済む環境を確保した後で、腕の中に仕舞い込んで思う存分堪能すればいい。
ディオルは奮い立つ心中の獣をそう宥めすかした。
「...とくに不満は無さそうだな。陛下も承認済みだから今後はその方向で進める。」
「....ーはっ、ちょ...ちょっと待って下さい!」
読み込みを停止していた脳がやっと仕事をしだしたと思ったら結婚が決まっているんですが?!
...ってネット小説の題名じゃあるまいし、一回立ち止まって考え直して頂きたい。そして私に立ち止まって考える時間を与えて欲しい。この和太鼓をでたらめに叩いてるみたいな心臓をどうにかせねば呼吸困難で死んでしまう。
中学生からのプロポーズを本気にするとか正気じゃない。でも、いくら十三歳とて相手は冒険者ギルドを改革させた手腕を持つ一国の王子で、二十歳で子持ちは当たり前のこの世界の成人は十六歳だから彼はもう子どもとは言えない年齢で...。
なによりディオル殿下は、こんな大事なことを適当に口にする人ではなくて。
「本気って事ですよね?」
「俺が冗談で求婚する男だと思うか。」
「んぐぅっ...!」
いちいち言葉の破壊力がえげつない。どこの恋愛小説だ、胃の下のあたりがヒュンとなる...。
ご馳走を収めた後に精神攻撃を喰らい落ち着かないお腹を摩りながら、なんでこうなったと考えを纏めようとして脳内のピースががしゃがしゃと集まってくる。その中でスポットライトを浴びた一片。
「ーー陛下達と私を学園に入れる話をしていた時の意味深なやり取りって、まさか。」
「そうだな。もともと隣で無茶をしないか見ていようと思っていた。」
「ええ、保護者ですか...。」
プロポーズの返事待ちとは思えない余裕の笑顔に安堵と申し訳なさが込み上げる。身に余る光栄すぎて肩身が狭い。
ただ、私の行く末を案じてやむおえずだったら胃に穴が開くところだったが、殿下の意思が先だったのは素直に嬉しかった。
そもそも王侯貴族の結婚は政略と言うし、補佐とはいえ聖女だから伝統を受け継いで王族と縁付くのはきっと国として悪くない。
「殿下がそれで宜しいのなら、こちらからお願い申し上げます。」
「ああ、承知した。」
下げた頭を元に戻すと笑みを深めた殿下が立ち上がり、隣に立って手を伸ばしてくる。
契約締結の握手かと思って同じく立ち上がって手を伸ばすと、シェイクハンドのはずが下から掬うように持ち上げられて何故か殿下の形の良い口元に。
「以後よろしく頼むぞ、婚約者殿。」
「ギャァッ」
手の甲に押し当てられたふにとした柔らかな感触と可愛らしいリップ音に、状況にそぐわない汚い悲鳴が飛び出た。
手で口を覆っても時すでに遅い。ほら見ろ、殿下が真顔になってる。
「何食わぬ顔で魔物を駆逐する癖に...まあいい。社交における男女の挨拶のひとつだ。最低限俺には慣れろ。」
「おぉぉ...出来るかな...」
「 出来るかじゃない、やれ 」
「はい!」
ワントーン低い声に反射で背筋が伸びた。この前のガチギレ殿下が怖すぎて本能に服従が刷り込まれている...。
「兄上も俺には情を持っている。良好な関係を見せて損はない。」
「カウンセラーじゃなく対等な関係性ですね。了解しました。」
その流れでクリニークさんとケイトさんが戻ってくるまでエスコートのされ方を教わったりしたのだが、部屋に戻ってくるなり腕を組んだ私達を見て真顔で仕立て屋にウェディングドレスを頼もうとするケイトさんを引き戻しえぐえぐ泣き出したクリニークさんにドン引きしつつ皆で慰める。
胸にカイロを押し当てたみたいな温かさを感じながらすべてに濁点がついたおめでとうございますに返事をすると、ふと心の片隅で反対の結果になった彼女の影が動いた。
◇◇◇
シノがディオルの部屋を訪れ神殿に向かう聖女を先導したいと言いだしたのは、要警戒人物の移動に備えて神兵が王宮で武装する許可を求める申請がきた次の日だった。
葡萄を摂取して間もない時間だったため側で控えていたクリニークは、今し方教師が帰って行った部屋に降りた気まずい沈黙に耐えきれず後ろに回した手を所在なく握る。
婚約も無事同意のものとなってから、初めて届いた伺って構わないかという先触れ。
その場で快諾しギチギチに詰めていたスケジュールを速攻で組み立て直す主君を面映く見守っていただけにとにかく今この空気が辛い。
いっそのことケイトが気を利かせて用意した南国産の最高級オレンジジュースで話の腰を折ってしまいたかった。
「却下だ。必要性を感じない。」
引き結んだ唇を開くや否やばさりと切り捨てたディオルに、説き伏せられずに同行してきただろう大神官も同意するように頷いている。クリニークもそれに思い切り同調した。
「俺がそれを許可すると思うか?」
「当日は十中八九聖女様が抵抗します。身体強化が使え、尚且つ尊い女性の体を取り押さえられる方が私以外にいますか。」
「陛下の決定だ。履行を阻むなら聖女だろうが神兵の接触はやむおえない。」
「私なら問題なく且つ一瞬で神殿の居室に移動できます。」
そういう問題じゃないんです、と声に出したいクリニークに代わり同じ言葉をディオルが発した。わかるだろう、そう振り絞る手が固く握られている。
国王に提出した報告書に目を通したあとだ。許せるはずがない。
「俺達が聖女よりも尊重するものがあると、もうわかるはずだ。」
ずっとそうだ。この部屋にいる全員が願うそれを、当事者のシノがおざなりにしてしまう。ソルキン村の一件だってディオルが、自分達がいったいどんなに心配したか。
一国の王子が、報告を受けた瞬間振っていた剣を放り出し汗だくの鍛錬着で神殿まで駆けていったのだ。体が冷えてしまうと着替えさせるのも苦労するほどだった。その気迫に、専属の治癒士であるのにも関わらずシノと接触するなとは口が裂けても言えず、情けなくも距離を置いてくれと頼み込むのが精一杯で。言いつつ心の隅では、自分も死斑病に侵されたシノを想像して寒気が走りこの目で無事を確かめて安心したかった。
青い顔のケイトに無事を伝えた時の潤んだ瞳はまだ記憶に新しい。
(シノ様、貴方が大切なんです...。)
どうしたら伝わるのだろう。
心配の度合いで言えば、今回の方がずっと上なのだ。聖女シノは強い。案ずる気持ちは別として魔物であろうと病であろうと負けない信頼がある。
ただ、言葉と悪意の前には聖女の力とてシノの心までは守ってくれないのだ。
あの涙を見るまで気づかなかった。たった十歳の女の子がここまで頑張りすぎるほど耐えてきた。なのに、国王陛下がもう良いからと引き受けてくれた不要な荷をどうして追いかけるんだ。
「私は彼女の補佐です。」
「お前と聖女が一緒にいるのを想像するこっちの身になれ!なんのために引き離したと思ってる!」
感情を剥き出しにするディオルに戸惑うシノの黒い瞳。怒鳴られた不安なのか、そっと小さな手が胸に当てられた。
「たしかに抵抗されますが、そんなのいつもの事ですし。今までだって...」
「俺の前で泣くほど辛かったじゃないか。」
「あ、あれは...!」
頬をかっと赤く染めて口を噤んでしまうのは、弱さを認めてしまうのが情けないから?
「...なんにも恥ずかしくないです。シノ様。嫌な事をされたら悲しいのが当たり前なんです。」
今までどんな環境で育ってきたのか、クリニークは疑問に思っても問うた事がない。
聖女を糾弾するため国王へ報告する書類を作る際、皿を振りかぶる聖女にシノが側付きを代わってくれたとメイドの数人が話した。出てきた彼女に怪我がなくて安心した、シノはやっぱり凄いと笑う彼女達に、クリニークは笑顔を返せなかった。
彼女がそんな風に生きてきたのだと思うとやるせない。他人が自分に向けて皿を投げてくるのを想像した時、クリニーク自身も前までそう思っていた事が悔しかった。
怪我していなくたって、飄々としていたって、目も耳も心もあるのに。
「そんな大袈裟な...箝口令があっただけで、別に今までも日常的にあったんですよ。この一回があろうが無かろうがそんな変わらないというか...。」
気持ちはありがたいですが引き受けた仕事は最低でも区切りまで通したいんです。
そう困ったふうに眉を下げる顔に謙虚ではなく心から困惑、はては迷惑とすら思われていそうでクリニークはぎゅっと唇を噛んだ。
シノが平気なら構わない、そんなのはとっくに通り越えてしまったのに。
「...わかった。」
「殿下?!」
まさか何故と思ったが、その据わった目と握りしめられた手にこれ以上口を出してはいけないと悟る。
「だが覚えておけ。お前が侮辱されるのを看過するのはこれが最後だ。」
「...は、はい。」
シノが恐縮しながら部屋を出ていくと、またもや降りる沈黙。
時計を見ると次の教師が来るまで時間がない。ディオルとて集中しきれないだろうと遅らせるよう申し出たが素気無く断られてしまった。
「一つの講義も無駄にしたくない。」
「...わかりました。」
謁見以降、ディオルが受ける講義や鍛錬の時間は目に見えて増えている。
加えて必要限度ほどだった世界情勢などの教養が一段階もニ段階も深い内容になりクリスに次ぐ天才と囃されるディオルであっても予習復習が欠かせないほどだ。忙しい中を縫うように毎日行う鍛錬だって今までとは纏う空気が違う。遅くまで机に齧り付き汗を拭いもせず剣を振る姿はどこか鬼気迫るものがあった。
「甘いものは頭の栄養になります。オレンジジュースはいかがですか?」
予習した紙に目を通す背中に声をかける。返事はない。
「...当たり前のように義務感で己を殺す意識は、あの女ごと神殿に置き去らせる。封じ込めて忘れるまでだ。」
「はい。」
「これはシノの麻痺した感情を元に戻すための、けじめだ。」
本当は今すぐ先回りして聖女を神殿に引っ立てたいだろうに。
自分に言い聞かせているかのような声に、クリニークは近づいていきその手のひらを取る。爪が食い込んだ赤い跡に、ペンを握る障りになってはいけませんからと治癒魔法を施した。
ディオルは意志の強い人間だ、こうと決めたら押し通すきらいがある。それでもシノを思い引いたのは彼女を包み込むような気持ちがなせる業なのだろう。一回りも年下の少年に心からの尊敬を寄せながらクリニークは部屋を出た。




