12.衝突
王族のプライベートな応接室に戻る道中、ディオルは緩む口元に拳をあて誰にともなく見えないようにしていた。
(...反則だ、あれは。)
『殿下はいらっしゃらないのでしょうか?』
普段は大人顔負けに落ち着いたシノが、まるで迷子の幼子のようだった。
繋がれた手を見下ろす縋るような瞳、その後はっとして赤く染まった頬。
引き抜かれそうになった手を握り締め離さなかったのは、顔を隠されたくないと同時に熟れた頬にかかる一房の髪を耳にかけようとした己を止めるためだった。
ーー顔に触れたらまずい、止まれなくなる。
首をもたげた本能を瞬間的に理性が抑え込み、浮きそうになった腰を再度しっかりとベッドに沈めるまでは一瞬のこと。
異性に触れたいという欲求をはじめて覚えた瞬間だった。
鳩尾がぞわぞわとくすぐられるようで引き絞られるようで。それを思い出しながらあの赤い頬に触れて感じる熱を想像すれば得体の知れない感情の塊が腹の底から喉元までぐっとせり上がり、慌てて咳払いで誤魔化した。頭に籠った熱ごと吐き出すように細く息をつく。
縁もゆかりもなく突如連れてこられたこの国で、聖女にあれだけの事をされて。
目を疑うような報告の数々を思い出し奥歯を噛み締めたあと落ち着けと息を吐く。辛い目にあってもどうしてあそこまで身を削るのか、ディオルはずっと疑問だった。
まさか、人恋しさに求められるまま努力していたとは。あの冷静沈着な皮の下で、ただ必要としてほしいと、独りになりたくないと奔走していたのかと思うとたまらなかった。
応接室で固く強張っていたのが孤独を恐れる姿なら、誰よりも早く気づいてあの小さな手を握りその目に映り込みたい。茜空の中で一生自分に仕えると浮かべた笑顔を見せるまで、ずっと。
学園に入れ搾取されないよう守り、共に過ごす関係に名前をつけるだけでは足りない。常に己の手の届く場所に置いておきたいという思いが、強く強く心に刻まれた。
先程シノに話して聞かせた時も、ディオルは己の独占欲らしきものを痛感している。
もし聖女と同じ処遇を科されたとして、同じ部屋に居ながら浄化魔法の希望者や大神官、クリニークらに囲まれるだろう彼女。
隣にいるにも関わらず構えないくらいなら、いっそ制限が強まればいいとそう考えた。ディオルの部屋に閉じ込めるなら、今日は明日はと来訪者を切望することもない。
1日中二人きりで、他愛のない会話をしながらあの真っ直ぐな視線を一身に受け華奢な手に、柔らかな曲線の頬に好きなだけ触れる。
抵抗なく受け入れあまつさえ笑顔など向けられようものなら一体どれだけ満たされるのか、それとも渇くのかと想像すると生唾が湧いた。
「...落ち着け。」
機械的に動かしていた足を止め側にあった円柱に手を置き、伝わってくる大理石の冷たさにぎゅっと拳を握る。
幼い頃より王族教育を施されたディオルは、今の精神状態が平常心から遠くかけ離れている自覚がある。勿論、今から国王に謁見するなど言語道断な取り乱しようだとも。
己が行うべきは聖女の精神を診る人間を遣わすよう進言する事であり、決して明日一日シノを療養させ妄想を実現させる事ではないのだ。
謁見で再教育を命じられる前に水でも浴びるべきかと遠い目をする合間、ディオルの耳が聞き慣れた靴音を拾う。
頭に上った血がすっと下がり、浮ついた心と緊張がとって変わるのを感じる。握った手を意識して解きつつ水風呂の手間が省けたと振り返った。
「立ち止まってどうしたの。...まさかまた体調が優れないのか?」
「いえ、謁見前に頭を整理していただけです。心配には及びません...兄上。」
母親譲りの垂れた目を眇めるクリスに全幅の信頼を置いていたディオルはもう居ない。
顔色は問題ないなと安堵する姿に今までと変わらない兄を見た心が締め付けられた。
せめて家族に向ける顔だけは本物なのだと、そう願いたい。
シノへの特別な思いを抱えた今、相手が自分で自分の首を絞めているのを傍観するなど出来るわけがないと知った。即ち、兄が聖女に向けているのは断じて己のそれとは違う代物だ。周囲が愛だと囃し立て婚約まで整えたその何かをディオルは不気味だと感じる。
血の繋がった実の兄のはずなのに、対峙すると中身のわからない箱に手を差し入れるような恐ろしさが背中を這っていった。
「陛下、参りました。」
「来たか。」
「あら、二人一緒なのね。」
「ちょうど廊下で会いまして。ね?」
「はい。」
ディオルがクリスと連れ立って応接室に戻ると両親と向かい合って座る大神官が中央のテーブルに紙を置き何か書きつけている最中だった。立ち上がり挨拶をした大神官が二人の王子に席を譲り下座へと移動する。
王家と神殿には絶対的な上下関係こそないが、古の神話でオルフェウスの初代国王が神に愛された男だと語り継がれるためかはたまたただの忖度か、神殿が一歩譲る場合がほとんどである。
聖女を巡る一連の出来事は長い歴史から見ても異例と呼べる事案だった。
「今日呼んだのはクリス、お前の内定しかけている婚約について大きな変更が生じたからだ。」
「ああ、彼女との。どうなりました?」
まるで晩餐のメニュー変更を聞いたような、全く危機感のない返事にディオルは思わず隣に腰掛ける兄を凝視する。
ゆったりと深く腰掛け、口元にはいつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。大きな変更とは白紙だとか何か条件がつくだとか、とにかく憂なく結婚まで進むはずの話が頓挫したのだと察せない男ではない。視線を父に戻しながら先程の恐怖がまたそわりと背中に忍び寄る。
「待って。申し渡す前に、何か言うべきことがあるのではない?」
扇で口元を隠した母の目は厳しい。いつもたおやかな人ではあるが、人の道に反する真似をすれば即座に打ち捨てる高潔さを持ち合わせている。彼女に虐げた側と虐げられた側を入れ替えて報告するなど逆鱗を引き抜くような愚行だと兄は知っているはず。
「バレましたか。いつかはと思っていましたが想定より早いタイミングでした。」
流石私の弟。細められた瞳がディオルを捉える。昔から剣術や勉強に打ち込む度に掛けかれるこの言葉がなにより嬉しかった。
しかし今に限っては表面を滑り落ちていくだけで、薄寒さが濃く残る。常日頃から国民を家族を思いやり、素晴らしい王になると信じて疑わなかったこの兄の真意がどうしても推し量れない。
「ディオルを試していたとでも言うつもりなの?」
父上と母上がいつまでもディオルを子供扱いするものですから、とクリスが肩を竦めるのを射殺すような目で見つめる王妃。場に冷ややかな空気が満ちていく。
「これでわかったでしょう。もう私の後をついて回るだけではない、臣下としての責務を立派に果たせる1人の男です。」
それを証明するために、故意にシノを貶めたとでも言うのか。
国王からの冷めた視線に顔を青くしたシノが脳裏に蘇りざわりと腹の底が掻き回され吐き気がした。
「...俺は、誰にも恥じない真っ当なやり方で認めていただきたかった。」
俯いたディオルの膝の上で固く握られた拳を横目で見下ろすクリスは表情を変えずに続けていく。
「ギルドの件がその最上だった。それで駄目だったんだから仕方ない。」
その言葉に今度は扇子を用いる王妃の柳眉がピクリと動いた。
「側近にするのは学園で同世代の人脈を築いてからという話だったはずよ。ディオルに必要なのは歳を重ねる時間だけ。それなのにまるで私達の目が曇っているように言うのね。」
幻影の雷が飛び交うような室内で、一人の指が椅子の肘掛けを叩く気配が全員の意識をそちらに向かわせる。
指先の動きひとつで場を掌握した国王は青い目を真っ直ぐにクリスへと向けた。
「状況を整理する。クリス、お前は聖女の言動が虚偽と知りながら彼女を擁護し私に真実とは異なる報告をした。それは間違いないか?」
「はい。」
「納得させられる理由を述べよ。」
「ディオルに私を諌められる冷静さが備わったとご報告するのもひとつですが、主に国にとって一番理想の形になると考えたからです。」
ここで国王の眉間に皺がよった。
他人が見れば跪いて命乞いをしたくなる厳しい視線を受けてなおクリスは涼しい顔を通す。
「先ほど故意に一人の神官に誤情報を吹き込み試したのですが...あの聖女補佐殿はやはり、力もあり国のために命を投げ出せる貴重な人材です。辛酸を舐め続ける胆力もある。それなのに傷一つ負わせられなくなるのでは価値が下がりますよね。
災害に疫病、戦いが起こればまず最前線に投下する。国民がそんな王家を支持するには頑張り屋さんで健気な少女ではいけない。せめてもっとたくさんの成果を上げて神格化するまでは図太く性根のひとつでも曲がっていて貰わないと」
「ーーふざけるな!!」
ディオルは拳を振りかぶろうとするのを膝に手の爪全てを食い込ませて必死に耐えた。そうでもしないと目の前の男を全力で殴り飛ばしてしまいそうだった。ぐつぐつと煮えたぎる血を吐きそうに胸が苦しい。噛み締めすぎて奥歯が擦れる音が不快に脳に響く。
「シノにだって心があるんです、道具じゃない!」
「わかっているよ。お前に任せておけば彼女は大丈夫だ。今まで通り、壊れたり逃げ出さないギリギリの所で耐え続けてくれる。」
『大丈夫、お前がいるじゃない。』
あの言葉に込められていた本当の意味。
顔の美醜を気にして聖女ではなく補佐に己を診させるなど何か目的があると思っていた。
理不尽を見過ごせない性分の自分を、彼女をオルフェウスに縛りつける足枷にするために引き合わせたのか。
それを理解したディオルの中で幼い頃から胸にあった兄の偶像が今度こそ粉々に砕け散った。目の奥がジンと痛み、喉が熱くなる。
「シノはディオルと共に王立学園に通わせる。
第二王子の隣に相応しくない情報を広げるな。」
「学園ですか...。結婚させるおつもりで?私は反対です。」
ここで始めて、クリスの瞳に焦りのような揺れが生じる。ぴくりと反応した弟を見る余裕はなく、国王を説得するべく口を開く。
「どうしてもと仰るのなら、まずは相応しい家に根回しして金を積んででも求婚を全て断らせる。陛下が必要と判断されたなら最初の妃は聖女補佐殿でもしょうがないでしょう。貴族の養子にするつもりならあまり高位の家だと反発が大きいので出来れば男爵子爵あたりで手を打ったほうが良い。そして正当な理由をつけて速やかに縁を外し根回ししていた令嬢と結び直しましょう。
そう睨まないでよディオル。功労者の補佐殿を無碍にはしないよ。きちんとした側仕えと宮を用意して務め以外はそこで暮らしてもらえばいい。」
帰ってきた壊れそうに逃げ出しそうな大切な人を宥めすかしてまた送り出せといったその口で、果ては務めを強要しながら閉じ込めるだと。
ディオルの心中はもうぐちゃぐちゃだった。
「...何故ですか。」
「聖女補佐が第二王子妃になっては困る。」
静かな瞳だった。
わからないのかい?と聞かれてもわかるはずがない。
「お前はきっと周りに言われた通り彼女を大事にするだろう?王子妃として傅かれた補佐殿が勘違いして今まで通り務めに邁進しなくなったらどうする。しかも間違って子なんか出来たら少なくとも一年、肥立が悪ければもっと長期間まともに動けなくなるんだ。
聖女の子孫に能力が遺伝した記録はないから彼女の血統は必要ない、五十年ほどは務めを最優先させたいところだよ。」
ここまで非道な人間を打ってはいけない理由とは何か。人の道理として傷つけてはいけないのはわかる。だがよほど反している相手にこちらだけ遵守する義理が見当たらなかった。
あれだけされたのに、やっと解放してやれるのに、またしても追い込むのか。無法者と罰せられようが構わないと腕を振り上げたところで父親に名を呼ばれた。頭上に掲げた拳が震える。
「....シノは物でなく意思があると、何度言ったらわかるんだ。」
「考慮してるじゃないか。その上で国がより豊かになる方法を示しているんだ。お前の体はもう大丈夫なんだろう?結界の張り替えが終われば今度は国境でどこまで役に立つか調べて魔物の討伐との分配を決めるつもり。後方から支援し、負傷してもすぐ治癒すれば戦いに身を投じる兵とその家族の負担がどれだけ減る?」
実際に見たからわかるよ、一回の戦闘で戦士がどれだけ消耗するのか。
ぴたりと焦点をあてられ、息がつまる。
「ね?聖女の務めには国民全体の生活の質がかかっている。今以上の忖度はできないよ。」
「たった一人に全てを押し付けるような王家には誰も付いてこない!」
「わかっていないなあ。」
初めて聞く兄の温度がない声に、頭から冷や水がかかったかのごとく息が止まった。
「補佐殿を派遣する。たったそれだけでオルフェウスの民の血が流れる量が、泣く子供の数が変わるんだよ。やらない意味がわからない。」
なぜわからない、ディオルは口の中で呟いた。
屈強な騎士でさえ三年の交代制で勤めている厳しい環境に放り込むつもりか。本来の務めはそのままに?クリスからすれば小さな子供であるシノに、何故そこまで。
自身がシノの話をしても行き着くのは国、国民。まるでシノが国民のために犠牲になるのが当たり前のように話を展開していく。
兄の頭には聖女補佐という役割があるのみでそこにシノという人間は存在していないのだと初めて気がついた。
「兄上。シノも、守るべき尊い国民のひとりです。」
「守るべきって...オルフェウスの神と国のために働くと契約した異界人だよ?大事に懐に仕舞い込んでたらもったいない。神の御使だし敬意は払うけど、効率的に使えるだけ使わないと。」
「ーーー...」
言葉が出ないディオルに、クリスは平然と首を傾げた。頭から被った冷や水が心の臓まで凍らせていく。
まさか家族の命と数多の国民の恩人に対して『効率的に使う』などという思想をもつだなんて。いや違う。シノを人と思っていないのだ。
クリスにとって彼女は天から落ちてきた《何か》なのだ。
あの聖女とシノは、同じ存在のはずなのに。
「兄上は聖女にも、同じ事が言えますか?」
ああ。と間も取らず返事が返された。誤解させてしまったね、と優しい声が追い打ちをかける。
「今は私自身を使えるからああやって流出しないように固定しているんだ。けれど妃を娶ればこれは使えないから、先を見て肥えさせて動けなくしようと思ったのに綺麗さっぱり元通りになってしまうし...妃としての器があればそのまま据え置けたのに手間取らせるよね。補佐殿にはもっと他に注力してほしいし、もし神殿の環境が整うなら引き取ってほしいよ。」
あんなのでもそこらに放逐したら警備が大変だ。
肩を竦める目の前の男に、結婚する気どころか人とも思わない相手に睦言を繰り返していたのかと足元から震えが上ってきた。
国の安寧のためとはいえ気色悪さが拭えない。
王族とはそこまでしなければいけないのか?
救いを求めるように両親を見ようとして、目を合わせる前に止めた。
ーー父である国王と、家族として過ごした時間など無いに等しい。
政務室に通され、側近と紙束に囲まれた父が鍛錬や教育の報告書に目を通すのを緊張しながら見つめる。これからもよく励むようにと頭に手を置かれるのが唯一温もりのある思い出だった。
公務で隣に座るが会話もろくにしない二人、忙しい中を縫って絵本や子守唄を聞かせてくれた母との違いに根も葉もない噂を信じてしまった時期もある。
いまだそれが棘のように刺さって抜けないのは第一王子には、兄にはきっと母と同じように愛情を注いでいるのだと思っていたから。
だが国のためだけに子を成したのであったら?母のあの優しい声も、体を包む温かさもより従順にし教育を捗らせるための下地だとしたら。
間違っているのが自分だとしたら。
「...願う相手と共に居ることすら許されないのか?」
ぽつりと末息子から落とされた呟きに、王妃が優しい目を向ける。
まだヒールを履いた自分よりは背の低い、しかし肩が張り首が太くなってきた体。瞳を揺らす少女に寄り添うようにして向けた背中は記憶の中よりずっと広く大きかった。
公務の間を縫って腕に抱いては髪に鼻先を埋めていたのに、いつの間にかこんなにも大きく、人を愛し慈しめるまでになったのだと暖かな気持ちが体を巡り、眩しいものを見た気がしたのだ。
そっと隣の夫と視線を絡める。自分にしかわからない目尻の緩みに不器用な人、と口角が持ち上がった。
「ディオル、その問いに答えを出すのは私達ではないわ。けれど貴方の胸にある気持ちは決してなくしてはいけないの。それだけは忘れないでちょうだい。」
「ーー...はい。」
揺れていた瞳が、徐々に力を取り戻しはっきりと見返してくる。
国を守る血を宿した我が子、思うままにしろと言ってやることは出来ない。事情が変われば夫は眉一つ動かさずにクリスの案を採用するだろう。けれどその可能性が無いうちから捨てていては人として死んでしまう。
心を寄せ合い年月をかけて信頼を育んだ相手が隣にいて、共に歩み支え合っていける。この奇跡とも呼べる幸運を噛み締めているからこそ民を導いていけるのだ。
そんな縁を結んでやれなかった長男の姿は王妃の胸を苦く締め付けた。
「二人の考えはわかった。それも踏まえ聖女の身柄を神殿へ移し、クリスと聖女の婚約は撤回。ディオルと聖女補佐シノを内々に婚約者と位置付け共に学園で精進させたうえ正式な婚約をディオルの学園卒業と同時に、婚姻はそれより一年後とする。
ディオルよ、いまだ心の乱れを制御しきれぬようだ。鍛錬を積むように。」
「はい。」
「クリス」
「はい。」
国王の静かな瞳に射抜かれたクリスが僅かに身構えたように見えたディオルは瞠目する。
「シノは我々の恩人だ。たとえ国のためでも人の心を忘れた者に王の資格は無い、努努忘れるな。」
「...承知致しました。」
恭しく頭を下げたクリスの表情を確認できなかったディオルは、今しがたの指摘を思い出し眉間から力を抜いて両親に挨拶をする。
クリスとは暫く顔を合わせないよう注意しよう、とかたく心に決めながら。
場が解散してからは、兄の件と、シノに今すぐ会いたい気持ちと、なにからどう伝えれば良いのかとがない混ぜで自室の寝台の上で目を瞑れど心は落ち着かなかった。
寝転んだまま、おもむろにベッドチェストに積んだ本を手に取る。
過去最も短く終わった戦争で使われた戦法を細かく解説する内容は入念な下調べと超火力の兵器を組み込んだもので、勝った国の兵に被害は少ないものの敗国にその数倍の犠牲を出していた。奇襲作戦を多用したために、その大多数が街で暮らす一般市民だった。
「こんなのが知りたいんじゃない...」
だらりとベッドからはみ出た手がぞんざいに本を手放した。紙が折れ曲がる乾いた音を聞きながら手の甲で目元を覆う。
もしもが起きた時、国を守る先頭に立ちたくて鍛錬を続けてきた。自分に何かあってもクリスがいれば国は安泰で完璧な兄にただ一つ任せられない役目。
数年前同盟国の加勢で兵を動かした時はディオルはまだ習い始めで、体に合う鎧も無く旗頭の候補に名があがらなかった。
幼いながら兄を守れなかったことが悔しくて悔しくて出立を前に泣く自分に豪奢な鎧に身を包んだ兄がそっと耳打ちした言葉を覚えている。
ーーこういうの、本当は嫌いなんだ。いつかうんと強くなって代わってくれ。
目の前で眉を下げて笑ったクリスは次の瞬間立派な王太子の顔になって馬に跨りそのまま戦線へと駆けて行った。
水が無いのは辛かろうと心を痛めて新しい灌漑法を編み出した兄。シノを酷使しようと計画するのも根本はオルフェウスに暮らす国民達の幸せのためだ。わかっている。
本当はディオルの知る優しい人のままだとわかったからこそ許せなかった。
仲間が傷つくのを見たくないから、手近にそれを回避できる道具があるなら使って何が悪いと雄弁に語る瞳を殴り飛ばしてやりたかった。
その仲間であるシノを、俺の大事な人を、何故同じように大事にしてくれないんだ。
「だが、国として正しいのは...」
床の上で皺になっている戦法。転移魔法と魔物を一瞬で屠る攻撃力を併せ持つシノなら再現できる。クリスが言っているのは、こういうことだ。
沈み込む思考に先程母から贈られた言葉とシノの涙が折り重なって、息が苦しくなる。
「ーー....」
ぎゅっと拳に力を込めてから、本を拾い上げ皺を伸ばしてから書棚へ戻す。部屋の入り口に立て掛けていた刃を潰した鍛錬用の剣を手に騎士団長を探して王宮内を歩き回った。
「殿下、私をお探しでしたか?」
廊下の角から顔を出した赤毛の大男はちょうどそこで聞きましてと歯を見せて笑う。途中で声を掛けてきた者の誰かが気を利かせてくれたらしい。
「今から少し打ち合えないか。職務があるなら無理は言わない。」
「勿論ですとも!」
脇に抱えられた紙束を見て一言添えると目を輝かせて書類を後ろに立つ若い男の鼻先に差し出す。呆れた顔で受け取った補佐官は殿下のために仕方なくですからねと唇を尖らせた。
椅子に座る仕事を疎うこの男は自分を体のいい逃げ道にしたようだ。
「悪いが借りるぞ。後で詫びを届けておく。」
「なら酒で。明日俺非番なんです。」
騎士団きっての酒豪なだけある要求に頷きを返して外へ向かう。
酒なら冒険者ギルドの狸爺どもから押収した瓶が何本かあったはずだ、取り上げる際惨めに泣いて縋ったというのだから詫びとしては遜色ない。
「にしても珍しいですな。いつもはちゃんと使いを出すのにご自身で彷徨かれるのは。」
夕暮れに包まれる騎士団の訓練所。
金属音を響かせて剣を受け止めた団長は片手でいとも簡単にディオルの体を空に放り出す。
「...ッ鬱々と考えるのが時間の無駄だと思ったから、だッ!」
空中で体勢を立て直し、着地した足で踏み込み再び斬りかかる。擦れ合う剣の狭間で橙色の火花が散った。
「そりゃますます珍しい!悩み事ですか?」
ひゅおと風切音とともに振り下ろされた一撃を横に跳んで避ける。
がら空きに見える脇は罠、すぐに横払いの一閃がくる。
距離を取り剣を構えた先の師の泰然とした笑顔に剣を握る手が緩み額から流れる汗を拭った。
「...ひとつ聞いていいか。」
「なんでも答えましょう。」
弾んだ息のままもし仮に、と前置く声の硬質さに騎士団長のグラソル・ビーは片眉を上げた。
「仮にある特定の一人を犠牲にすれば皆の負担や国境警備の辛さが大きく減らせるとする。死にはしない、ただ一般論としての幸せを禁止されるんだ。...それが許せない俺に王族を名乗る資格はあるか。」
顎から滴る汗が白いシャツの襟に吸い込まれていく。青いなあ、と口角が引き上がるのをグラソル自身感じていた。
「なるほどなあ。まあ、剣しか能の無い男の個人的な意見ですが、難しいと思いますよ。」
「難しい?」
「オルフェウス騎士団がその方に守ってもらうってお話でしょう?
そんなの騎士の誇りへの冒涜だ。他人の背に隠れるくらいなら俺ぁ剣を置く。」
同じ考えの奴は多いと思いますよと付け加えると、大きな猫目が溢れそうに見開かれる。
「だいたい命懸けってのはそんな簡単じゃないんです、死ぬか生きるかの瀬戸際に居なきゃすぐに勘が鈍っちまう。
そうやって大事に温められて何十年か経った騎士団にあるお一人を失った国が守れますかね?」
「ーー...」
ああ、負担と言えばあれは有り難かったですよと思い出したように声を上げるグラソル。目を見開いたままのディオルは次の言葉にぐっと温かい血が巡った。
「街のゴミ掃除の代行!ありゃあ良い、おかげで今年の新人は育ちが早いんです。殿下が一枚噛んでこれからもギルドに回してくれるとか。そういう負担の減り方は大歓迎ですな。」
俄かに気色ばんだ少年に苦笑いを噛み殺す。
これはあくまでも剣に己の人生を捧げた自分達に限った話だ。
あの子供は強くて、信じられる。頼りたいと思う気持ちはよくわかる。戦線以外でも求められる場はごまんとあるだろう。
「しかし戦いってのは色々ある。周りが騒がしくても仕舞ったままじゃあしょうがない場面もあるでしょう。」
「ああ、いいんだ。」
穏やかな声だった。茜色から紫色へと変わる空を映し取った瞳を見てグラソルが目を細める。
「国境以外なら俺が横にいられる。」
春だなあ、と実際声に出た。
むず痒い背中を剣の柄で掻いてから汗でシャツがへばりつくディオルに替えのシャツとタオルを投げる。
メイドも呼ばずにその場で着替え始める王子殿下の年不相応に割れた腹筋が目に留まりちっとばかりこっちに寄せすぎたかと髭をさすった。
「背中は俺の甥っ子に任せてやって下さいよ。」
「カッシュか。あいつともまたやりたい。」
将来の側近候補として引き合わせた弟の子。涼しい顔のディオルに剣をへし折られ目を輝かせた甥っ子はこの若い獅子に一生を捧げる決意をしたらしかった。同級のこいつ等は数年後学園でともに行動するようになるだろう。
「それじゃ俺はここでお暇しますよ。聖女様に宜しくお伝え下さい。」
背中を向けて詰所に戻っていくグラソルに聖女でなく補佐のシノがやったことだと訂正すれば振り返った顔が不思議そうに瞬いた。
「聖女ってシノ様以外居ましたか?しまったな、俺ぁ戦い以外疎くて。」
そういやあパレードはシノ様じゃなかったかもしれん。失礼しましたと去っていくグラソルは竹を割ったような性格で、貴族のくせに嫌味や悪意を嫌う男だ。
本心だろうそれは霧が晴れた心に吹き抜けた風のようでディオルは一人きりの油断からかふはっと吐息を零して笑った。
「...俺も忘れていた。」
個人的には聖女を診る専門家など雇わず資金をもっと有用に使いたい。何処ぞの部屋の前にシノの居室を居心地の良い家具で満たしてやりたい。だが、シノのこれまでの忍耐や努力が水泡に帰すのはたしかに腹が立つ。
あれも、それも、己が力をつけてからだ。
結局聖女の心身を配慮する進言は、専門家を民衆向けの単価の安い者にするよう書に認めて提案し大した反対もなく承認された。




