第十七話「背景役は、声を出せない」
第十七話 背景役は、声を出せない
背景役になった者は、まず注文を間違えられた。
次に、名前を呼ばれなくなった。
最後は目の前にいても、誰にも見えなくなる。
コンビニ店員の相沢咲は、その途中だった。
「毎朝、ここでコーヒーを買ってた」
俺は顔を知っている。
名札も読める。
だが目を離すと、いたことを忘れる。
咲自身も声が出ない。
頭上には《背景店員》。
役割は、主役へ商品を渡すだけ。
「カメラを向ける」
ミオが配信を始めた。
画面は自動で彼女の顔へ寄る。
世界が、元主役を中心へ戻そうとする。
咲を映してもピントが外れる。
「なら私が背景になる」
ミオはカメラを床へ置き、画面外へ出た。
凪、バン、俺も離れる。
中央に咲だけを残す。
それでも視聴者には、空のレジにしか見えない。
「咲さんがしたことを言って」
俺は店の外へ呼びかけた。
「雨の日に傘を貸してくれた」
学生が言う。
「子どもが熱を出したとき、救急車を呼んでくれた」
母親が続く。
「毎朝、砂糖なしを覚えてた」
会社員。
小さな記憶が集まる。
しかし《背景》は消えない。
カイトの声が店内放送へ入った。
『誰もが中心にはなれない』
「中心にしろとは言ってない」
『社会には、注目されず役割を果たす者も必要だ』
「見えなくする必要はない」
『全員の物語を同じ密度で保持すれば、世界は再び矛盾する』
正しい負荷計算。
だから、俺たちは別の方法を選ぶ。
「一人ずつ全部覚えなくていい」
凪がレシートを配った。
客は、咲との記憶を一行だけ書く。
百人が一行ずつ。
世界の記憶を、一人の主役ではなく全員へ分ける。
レジ横の掲示板へ貼る。
《相沢咲さんへ》
《いつもありがとう》
《名前を知らなかった。今日覚えました》
文字が増えるたび、空だった画面へ輪郭が戻る。
咲の声が、かすかに出た。
「いらっしゃいませ」
店中が拍手する。
彼女は首を振った。
「それ、役の台詞です」
息を吸う。
「私、来月で辞めます。絵の学校へ行きます」
《背景店員》が砕けた。
《相沢咲――絵を学びたい人》
店員であることも、背景であることも、本人の全部ではない。
配信の同時視聴者は四千万人を超えた。
ミオの力は戻らない。
代わりに各地で、背景役の名前を書く掲示板が作られ始めた。
最初の掲示板は、すぐ問題を起こした。
大型商業施設が、清掃員全員の顔写真と名前を入口へ貼った。
《見えない英雄たち》
感動的な動画まで作られる。
再生数は伸びた。
翌日、清掃員の半分が写真を外してほしいと申し出た。
「名前を消すなと言ったのに?」
施設側が困惑する。
「仕事中の顔を、勝手に世界へ出してほしいとは言ってない」
一人が答えた。
「感謝は嬉しい。でも英雄と呼ばれると、休みを取りにくい」
別の人は、名字だけなら出していい。
もう一人は写真なしで、担当区域だけ残したい。
全て非公開を望む人もいる。
掲示板は作り直された。
《表示を希望した人》
《連絡が必要な担当》
《匿名で残した仕事》
見えるようにすることと、見世物にすることは違う。
配送センターでは、背景役になった運転手が配送を止めた。
「ストライキ?」
「違う。一度、自分の名前で再確認する」
荷物の宛先。
無理な到着時刻。
休憩なしの経路。
最適配役は、疲れない背景として計算していた。
本人たちは到着時刻を調整し、遅延理由を受取人へ公開した。
『薬だけは先に』
『誕生日の荷物は明日でもいい』
『私は急がない』
主役の荷物を最優先にする台本から、必要度を話し合う配送へ変わる。
病院の夜間清掃員は、名前を掲示せず、感染区画の危険手当を要求した。
「拍手ではなく、手当が欲しいです」
要求は配信で大きく拡散された。
バンが感動して叫ぶ。
「正しい! 俺も拍手より給料が欲しい!」
「まだ正式雇用してない」
「そこから直せ!」
ミオの元運営会社は、《背景へ光を》という企画を提案した。
一日だけ裏方へ主役衣装を着せ、壇上で表彰する。
咲は断った。
「主役になりたいんじゃありません」
「では、何を望みますか」
「来月の入学試験の日、代わりの人を入れてください。それと、私の絵を見たい人だけ見られる場所を一枚」
店長は初めて、彼女が絵の学校へ行くことを知った。
「困る。シフトが」
「だから一か月前に言っています」
「君がいないと朝が回らない」
「回るように引き継ぎます。回らないなら、人を増やしてください」
背景役に頼っていた側も、役が剥がれれば仕組みを直す必要がある。
店長は不満そうに求人票を書いた。
時給欄で手が止まり、咲に見られて百円上げた。
「二百円」
「交渉するようになったな」
「声が出るので」
咲は笑う。
各地の動きは、英雄一人の勝利映像ほど分かりやすくない。
掲示方法を直し、時間をずらし、手当を決め、引き継ぐ。
地味で、遅い。
だが名前を戻すとは、拍手を一度送ることではなく、次の日の扱いを変えることだった。
ディレクターが警告を出す。
《記憶負荷上昇》
《原因――鳴海零》
《世界の敵に対する討伐補正を二倍へ変更》
店の客全員の頭上へ、同じ指示が浮かぶ。
《鳴海零を攻撃すれば、あなたの役は保護されます》
百人が、一斉に俺を見た。
◇
咲を囲んだ百人は、すぐには俺を襲わなかった。
役札が命令する。
《攻撃してください》
《成功すれば、あなたの役と記憶を保護します》
一人の男性が拳を握る。
「俺には娘がいる。背景へ落ちたくない」
「うん」
俺は逃げずに答える。
「殴れば、本当に守られる保証は?」
「表示に」
「空の役も、将来を確定したように表示された」
男性の腕が止まる。
別の女性は泣いていた。
「あなた一人なら、と思ってしまう」
「思うことまで責めない」
「でも、あなたを知らない」
「今、名前を聞いた。それで十分とは言わない」
正義の演説では、人の恐怖は消えない。
咲がレジの裏から、太い油性ペンを出す。
声は戻ったばかりで弱い。
「殴る前に、名前を書いて」
自分の腕へ《相沢咲》と書く。
「守りたい人の名前も」
男性は娘の名を書く。
女性は自分の名を書く。
命令は、匿名の群衆へ一人を攻撃させる仕組みだった。
名前を持つと、自分の選択として残る。
最初の一人が石を置く。
「殴らない。娘へ、そう説明する」
次の人も置く。
百人全員が武器を下ろしたとき、俺の世界敵役の討伐補正がわずかに下がった。
ディレクターが新しい命令を出す。
《協力拒否者を、不適合者として記録》
「今度は私たちも敵?」
咲が聞く。
「たぶん」
「では、絵に描く」
彼女はレシートの裏へ、俺たち全員の似顔絵を描き始めた。
上手ではない。
俺は眉間の皺が深すぎる。
バンは顔の半分が歯だ。
「悪意がないか?」
「特徴です」
笑いが起きる。
咲は最後に、自分を画面の端へ描いた。
「また背景」
ミオが指摘する。
「端が好きなんです。見えなくなりたいわけじゃない」
中心に立たない自由もある。
背景へ強制されないことと、目立つことは同じではない。
絵は配信で拡散された。
《端にいても名前はある》
各地の背景役が、自分で位置を選び始める。
舞台の中央へ行く人。
端のまま名前だけ掲げる人。
誰にも公開せず、家族一人へ覚えてほしいと頼む人。
方法は一つでなくていい。
その夜、咲は退職届を出した。
「明日から学校?」
「入学試験は来月です。それまでは店で働きます」
「辞めたのに」
「引き継ぎがあります。店員をやめたいのであって、急に消えたいわけじゃない」
役を降りることは、責任を捨てることではない。
俺たちが店を出たとき、病院から緊急通知が届いた。
《十五歳の主任外科医、連続勤務十時間》
《退勤申請を役命令が拒否》
《次の患者――実父》
ミオが木桶を腰へ下げる。
「行く」
「今日は休んでない」
「車で寝る」
「俺が運転する」
「免許は?」
「ない」
「バン」
「悪役に運転させるな!」
そう叫びながら、彼は救急車より速く安全運転で病院へ向かった。
◇
病院までの車内で、バンは法定速度を一キロも超えなかった。
「急げと言った」
「安全運転役ではないが、安全は守る!」
後ろではミオが病院の資料を読み、凪が十五歳の少女へ送る言葉を考えている。
「頑張らなくていい、は嫌かも」
「なぜ」
「もう頑張って四十人救った後だから。最初から何もしてないみたいに聞こえる」
ミオが頷く。
「ありがとう、でも続けなくていい」
「それも英雄扱いになる」
本人へ聞くしかない。
俺は端末で、るかの会見映像を見る。
手術前の少女は、笑顔で言っていた。
『私が全員救います』
口元は笑っている。
机の下の左手だけが、母親の服をつかんでいた。
主役演出が、怖さを画面外へ切っている。
ミオは映像を止める。
「昔の私も、こうだった?」
「カメラの外を知らない」
「今度、昔のスタッフへ聞く」
「聞きたい?」
「怖い。でも知りたい」
自分の過去も、正しい物語だけにしない。
病院へ近づくと、道路が《医療関係者専用》へ変わった。
バンの役は悪役。
俺は世界の敵候補。
凪は保護対象。
誰も通れない。
ミオだけは《主役候補》として許可される。
「一人で入れば、また主役へ戻る」
「では救急搬入口」
そこも役認証。
キューが車のナビへ入り、古い職員用道路を見つけた。
「十年前の地図です。現在は花壇」
バンは車を止める。
「花壇は壊さん!」
全員で降り、車椅子用の迂回路を走る。
最短ではない。
誰かの花を踏まない道だ。
病院の裏口へ着く。
中から、少女の声が聞こえた。
「嫌です。お父さんを切りたくない」
役札は、その拒否を職務放棄と判定した。




