第十二話「スタッフロールに、名前がない」
第十二話 スタッフロールに、名前がない
名前のないボスを探す前に、舞台裏が一人を消した。
食事当番の女性が、皿を持ったまま透け始めた。
「誰だ?」
全員が顔を見合わせる。
毎日料理を作ってくれた。
怪我人の包帯を替えた。
子どもへ眠る場所を譲った。
なのに、名前が出ない。
本人も思い出せない。
「私は……裏方です」
胸には《炊き出し係》とだけある。
キューが記録を調べた。
元は災害迷宮の救護隊員。
主役役の医師が百人を救った物語を成立させるため、実際に九十人を処置した彼女の名前が削除された。
「役に必要な仕事は残す。でも、した人は消す」
凪が唇を噛む。
俺たちは彼女を知っている人を探した。
「好きなものは?」
「辛い料理」
「嫌いなもの」
「感謝されること。返事に困るから」
「家族は」
「弟が……いた気がする」
ミオが配信端末を起動した。
「顔は映さない。声も変える。覚えている人だけ、連絡してください」
元主役の配信は、今も一千万人へ届く。
力にはならない。
人を探すには十分だった。
三分後、一本の電話が来た。
『姉ちゃん?』
女性の手が震える。
『カレーへ唐辛子を入れすぎる、姉ちゃんだろ』
「名前を……言って」
『三枝千春。俺の姉ちゃん、三枝千春!』
名前が戻る。
透けた身体へ色がつく。
スタッフロールに一行が増えた。
《救護隊員――三枝千春》
《救命九十名》
「九十一人」
千春が訂正した。
「最後の一人は、主役の医師。倒れたあの人も私が処置した」
新しい記録は、英雄の物語を壊さなかった。
ただ、隣へ別の名前を足した。
弟は迎えに来ると言った。
「まだ帰れない」
千春は百二十六人を見る。
「最後まで炊き出し当番だから」
「役だから?」
俺が聞く。
「いいえ。今、私がやりたい」
同じ仕事でも、選べば鎖ではなくなる。
その夜、全員で名前を確認した。
好きな物。
嫌いな物。
帰ったらしたいこと。
最初は、スタッフロールへ功績だけを書いていた。
《救助人数》
《戦闘回数》
《貢献度》
だが数字が一つもない人がいた。
七歳の結城ユイ。
戦えない。治療もできない。
削除の波が来た夜、泣いている子の隣で手を握っていただけ。
「何て書く?」
凪が聞く。
「何もしてない」
「その子、一人にならなかった?」
「うん」
「では、したことはある」
ユイは自分で考え、短く書いた。
《怖かったけど、隣にいた》
次は、元舞台衣装係の老人。
戦闘の記録には一度も出ない。
破れた服を直し、冬の夜に子どもの毛布を縫った。
「裁縫係でいい」
「本当に?」
「名前さえあれば、目立たん方が楽だ」
本人が選んだので、英雄へ言い換えない。
《藤堂実――裁縫係。拍手は不要》
元兵士の女性は、自分の戦果を載せたくないと言った。
「舞台で敵を十三人倒した。でも、あれを私の一番大きなことにしたくない」
「では何を」
「毎晩、入口の人数を数えた」
《宮野佳澄――全員が眠るまで入口を確認した》
数字を消す人。
細かく残す人。
本名を出さず、選んだ呼び名だけ載せる人。
今は一行も書かない人。
スタッフロールは、功績順位ではなくなった。
本人が「これなら自分だと思える」と選んだ短い文が並ぶ。
ミオの配信を見た外の人々からも、名前が届き始めた。
『舞台崩落の日、出口を押さえていた駅員は大塚さんです』
『英雄の剣を研いでいたのは、父でした』
『画面の端で水を配っている人を知っています』
ただし、届いた名前をそのまま確定しない。
本人へ見せ、呼ばれたい名前か確認する。
一人の男性は、家族が送ってきた本名を拒否した。
「その名で呼ばれると、帰りたくない家を思い出す」
「では、今の呼び名は」
「ソラ」
《ソラ――窓を開ける人》
戸籍より先に、本人が振り向ける名前を使う。
作業を続けるうち、壁のスタッフロールが横へ広がった。
主役の名前を大きくする形式では収まらない。
「字を全部同じ大きさにすると、画面が足りません」
キューが言う。
「ページを増やす」
「終幕後のスタッフロールは一枚という規格です」
「規格を変える」
奏太が古い表示装置をつなぎ、二枚目を作る。
三枚目。四枚目。
名前は終幕の数秒で流すものではなく、必要な時に開いて読める名簿へ変わった。
「これでは公演が終わりません」
キューは困った顔をする。
「終わった後も人は続く」
凪が答えた。
キューだけは、正式な名前がなかった。
「進行補助端末Qです」
「キューは?」
「あなたたちが便宜上呼ぶ音です」
「それが名前でいい」
「端末に名前は不要です」
そう言いながら、ヘッドセットのランプが少し赤くなった。
記名作業の最後。
壁の向こうから、低い歌声が聞こえる。
誰も歌詞を知らない。
だが三枝千春が顔を上げた。
「災害迷宮で、主役の医師が歌っていた曲」
「その医師の名前は?」
「記録では、白峰英雄」
「本名は」
「白峰……」
千春の記憶が途中で黒くなる。
壁が破れた。
巨大な白衣の怪物が現れる。
胸に《ラスボス》。
顔の場所だけ、名前を消す黒い穴が開いていた。
『私の名を呼べ』
百二十七人目は、英雄として記録された男だった。
◇
白衣の怪物は、壁を壊してもすぐには襲ってこなかった。
最初に三枝千春を見た。
『患者数』
「百二十七人。重症なし」
千春が反射的に答える。
『嘘だ』
怪物の腕が伸び、彼女の胸へ触れる。
《三枝千春》の文字が一部消えた。
「ち、はる……?」
自分の名を言えなくなる。
ミオが腕を切る。
黒い液体ではなく、カルテの紙片が飛び散った。
一枚ずつ、名前の消された患者記録。
「攻撃すると、中の記録まで壊れる」
凪が叫ぶ。
俺は怪物の動きを見る。
子どもを避ける。
足の悪い者の前では歩幅を小さくする。
殴る直前、必ず瞳孔と呼吸を確認する。
殺し方ではなく、診察の動きだった。
怪物が俺へ手を伸ばす。
『役名』
「代役」
『本名』
「鳴海零」
名乗ると、指が止まった。
『家族歴』
「妹一人。鳴海凪。三年前に失踪」
『既往歴』
「役残り。犠牲者、敵役、城門、聖女、報酬」
『治療歴』
「仲間に名前を呼ばれた」
怪物の顔に、一瞬だけ人間の目が現れる。
『適切』
次の瞬間、ラスボス役が上書きし、爪が振り下ろされた。
バンが盾で受ける。
「医者なら患者を殴るな!」
『私は英雄』
「どっちだ!」
『英雄は、すべてを救う』
「一人で救おうとするな!」
怪物が苦しむ。
《英雄》と《ラスボス》が同じ身体で衝突していた。
主役として百人を救った記録。
最後に一人で責任を負い、失敗した結末。
英雄を保つため、失敗の記憶と本名を削除された。
残った罪悪感だけがラスボスになったのだ。
千春は薄れた名前を紙へ何度も書く。
「三枝千春。私は救護隊員。あなたと同じ現場にいた」
『知らない』
「あなたが忘れたんじゃない。忘れさせられた」
怪物の胸へ、黒い扉が開く。
中に記憶の病棟が見えた。
ベッドが百床。
すべてに患者の名前がある。
ただ一つ、医師のロッカーだけが空白。
「本名は、あの中」
ミオが言う。
俺たちは怪物を倒すのではなく、胸の病棟へ入ることにした。
「入口を三十秒開ける!」
バンが両腕で白衣を押さえる。
「俺は?」
「名前を呼び続ける!」
凪が名簿を開く。
百二十七人が一斉に、自分の名前を言う。
怪物が音に縛られる。
俺、ミオ、千春の三人は、空白のロッカーを探して胸の奥へ飛び込んだ。
◇
怪物の胸の中は、終わらない救急病棟だった。
時計は災害発生時刻で止まっている。
廊下には百人の患者。
医師は一人。
顔が白く塗り潰され、同じ処置を何度も繰り返していた。
「白峰先生!」
千春が呼ぶ。
医師は反応しない。
胸の名札には《英雄》。
「本名を隠すための役名だ」
俺はロッカーを探す。
患者の荷物は全て残っている。
医師本人の私物だけない。
ミオが床の小さな跡を見つけた。
「靴下」
左右で違う色の繊維。
「こんな時に?」
「毎日違えた」
千春が思い出す。
「娘さんが、目印の刺繍をしてた。名字と名前の頭文字」
記憶病棟の奥に、洗濯籠がある。
片方だけの靴下。
刺繍は《S・T》。
「白峰ならS・Sになる」
「白峰は本名じゃない」
医師の影が俺たちへ気づく。
『患者以外は退出』
「あなたも患者です」
ミオが言う。
『英雄は倒れない』
「手が震えてる」
医師は自分の指を見る。
百人を一人で救う役が、本人を壊していた。
千春が近づく。
「九十人目からは、私たちも治療した」
『私が全員救った』
「そう書かれただけです」
病棟の壁へ亀裂が入る。
英雄物語と実際の記憶が衝突する。
医師の顔から白い塗料が剥がれた。
一瞬だけ、人間の目。
『娘に……帰る』
「名前を思い出して」
『た……』
ラスボス役が再び顔を覆う。
病棟が崩れ始める。
俺たちは靴下を持って胸の外へ戻った。
白衣の怪物は、完全に目覚めていた。
《ラスボス》の下へ、新しい文字が一瞬だけ浮かぶ。
《Tから始まる、本名を失った医師》
本名がなければ交換できない。
だからまず、この男が誰だったかを世界へ聞くことにした。




